―――真夜中、東京駅の地下フロアは、寒い。
手にはちいさな鍵を握り締め、その少女は、半ば必死で迷宮のような東京駅の構内をさまよっていた。
帽子をかぶってきた。似合わないことを承知で、サングラスもかけてきた。
自分だということが分かってしまっては、破滅だ。しかも、手渡された鍵はもうこれで9個目。次の鍵が最後。その鍵を使ってしまったら…… ああ、そんなことなんて、考えたいとも思わない。
足早に通り過ぎる人々は、あまりに雑多。トレンチコート姿のサラリーマンがいる。寒いというのに足をむき出しにした派手な姿の娘たちがいる。より紐のようになった髪のホームレスがいる。誰の目にも留まらないようにと祈りながら、必死で道を探す。コインロッカー。この鍵に合うロッカーが、東京駅の地下3階に、ある。
たどりついて、必死で、一個一個のロッカーを探る。そしてようやく、震える指が目当ての番号を見つけ出した。あった。その瞬間、腰が砕けそうな安堵を感じる。
カチカチと震えながら触れ合って、鍵が鍵穴に合わない。
そして、あわせて、ようやく鍵を開いた瞬間…… 声が響いた。
「ねぇ、なにやってんの?」
耳元に、麝香のような匂いのする息が、吹きかけられる。
「ひ……ッ!?」
驚きの余り、鍵を、取り落としそうになった。
いつのまに現れたのだろう。
少女の背後には、一人の男が立っていた。
「ねぇ、なにやってんの?」
同じ台詞をあざけるように繰り返して、くつくつと喉で笑う。美しい青年だった――― だが、どう見ても、堅気であるようには思われなかった。
狐色に脱色された髪。耳にはいくつものピアスが重たげに銀色に光り、切れ長な目元には紅化粧がほどこされていた。古い時代の軍服風のデザインのコートは、華美ではあるが、黒い蝶のように不吉だ。彼は少女の首の傍らに片手を付く。もう片方の手が、つい、と顎を撫でた。優美で華奢な指に光るいくつものシルバーの指輪。黒いエナメルの長い爪。
「あ、あ、あな、た、」
だれ、と問いかけかけた瞬間、男の手が、ロッカーの中に無造作に突っ込まれた。
「!!」
少女は声にならない悲鳴を上げた。
「ふぅーん?」
男は、ひっぱりだされた紙袋を破った。中から出てきたものをつくづくと見る。それはクレーンゲームでよく景品になるような、安っぽい縫製のぬいぐるみだ。なんでもないぬいぐるみ。そうだ。怖がることは無い。なんでもないんだ。なんでもない。少女は必死で自分にいいきかせ、笑顔らしき表情を作ろうと、唇をゆがめた。
「そ、それ、わたしのなんです、……か、かえし、」
「いやーだ」
青年は、嘲るように、ニィ、と唇を吊り上げた。
「お嬢ちゃん、あんた、処女?」
何を言われたのか、一瞬、思考が停止する。
「ダメだよぉ、ホントに愉しいことを知らないうちに、こんな悪い遊びを覚えちゃあ。出来の悪いおクスリなんかじゃ、ほんとうに悦いことなんて、わかんないんだから」
青年はけらけらと笑いながら、ぬいぐるみを床に落とし――― ブーツの踵で、強く、踏みにじった。
ピンク色の毛皮のうさぎが、無惨につぶれる。
少女は、もう、何もいえなかった。思考が真っ白く停止している。なぜ、このひとは、『クスリ』のことを知っているのだ?
まさか。
「け、けいさ、」
「まっさかぁ」
男はひどく可笑しそうに笑った。三日月のように細められた目。その目の瞳孔が、まるで、獣のように縦に裂けている。人間の目ではないように。少女は慄いた。男は哂った。
「ね、お嬢ちゃん、イイコト教えてあげるよ」
男の手が、つい、と少女の足をなで上げた。コートの内側、長いスカートの、さらに中を探られる。
無防備な太股。肌理の細かい、まだ、自分以外の誰にも触れられたことの無い膚。そこが、いっせいに粟立った。寒さのだけでは決して無い。
「だ、誰か……!!」
「誰もこないよ」
思わず悲鳴をあげかける少女に、男の声が無常に響く。
「ここには誰も来ない。『来ないようにした』。だから、たっぷり楽しめる」
牙のように尖った犬歯が、少女の耳元を軽く噛み、甘く囁いた。見開かれ、涙を流す少女の目に、男の顔が映りこむ。男は少女の涙を興がるように目を細める。その目の色は飴色で、瞳孔は人とは思えぬ針の細さだ。男の指が這い上がってくる。皮膚はもう鳥肌立つことは無い。代わりに訪れるのは、いまだ少女の体験したことの無いもの――― 蜜のうずき。
少女は口を開いた。漏れたものは、声にならない悲鳴。秘められた場所を覆う薄い下着の内側へ、長い爪を持った指が侵入してくる。青年は毒の甘さで囁いた。
「だからさぁ、おしえてよ? ……『ダミア』の、こと」
意外と、悪い味じゃあなかったな。
辰砂は壁にもたれさせた少女のスカートの乱れをなおし、体の上にコートをかけてやる。少女は目を剥いたまま、意識を失っていた。頬には流した涙の痕。はじめは恐怖に、その次には喜悦のために流された涙。その涙だって、それほど悪い味じゃなかった。だらしなく開いた唇の端に唾液の泡がこびりついている。最後の名残を愉しむように、舌を伸ばし、辰砂はそれを舐めとった。
もしも犯されたとでも思われたら、恥になるだろう。実際にはほんとうの意味で『そういうこと』をしたんじゃないとしても。まあ、あまり人目につかない場所だから、おそらくは大丈夫。彼女がひとり眼を醒ましたら、悪夢…… あるいは、『悦い夢』を見たとでも、思うだけだ。
辰砂はエレガントではないことはしない。嫌がる女の子に手を出しはしない。ただ、『嫌がらない』ように、するだけだ。
それなりには情報は聞けた。まずまずの収穫だ。
拾い上げたぬいぐるみ、無惨につぶれたピンクのうさぎを拾い上げて、バックに放り込んだ。そして、辰砂はコートの前をなおし、歩き出す。
ロッカーを離れると、そこはすぐに人ごみとなる。真冬の東京駅。地下フロアの空気はひんやりとして、そして、歪んでいる。種々雑多な人々が歩き回り、派手な形をした辰砂とてたやすくまぎれてしまう。飴色の目、その瞳孔はもう縦に裂けてはいない。『ただの人間』のように、真っ黒い孔であるだけだ。
さあて、どうやって『ダミア』に接触を取るものか、と辰砂は思う。
少女から聞きだせたことはいくつかある。それはまず、『ダミア』がどのような客に、どのような薬を供しているのか。そして、彼がどのような方法で、客と接触を取っているかだ。
まず、『ダミア』は、普通の意味で薬を求める人々には、ほとんど手を出していない。
あの少女は、ごく真面目な、優等生だった――― と辰砂は思う。蜜の疼きすら知らぬ無垢な体。男も知らず、おそらくは、己の中に秘められた欲望の存在すら知るまい。辰砂に引き出されるまで、あんなにも、喜悦について無知だったのだから。そんな娘が薬を求めていた理由は、どうやら、『勉強』のためであったらしい。ベンキョウ。辰砂にとっては、まるで理解の出来ない世界だ。
だが、世の中にはそういう人種も存在するらしい、という知識くらいはある。ひとつのルールの下で競い合い、まるで競走馬のように、あるいは回遊水槽の魚のように、『いちばん』を目指して熾烈な競争を繰り広げる。ご大層なことだ。そして、中にはその競争で勝利するためになら、律を踏み越えることすら構わぬという人種すらいる。実際、あの少女がそうだった。彼女が薬を必要としていたのは、睡眠を不要としても、『ベンキョウ』しつづけるためだったのだから。
そのために、薬を使う。中にはそういった不自由で不自然な暮らしに耐えかね、一瞬の安い快楽で己のストレスを発散するために薬を欲しがる子どもたちもいるのだろう。そういった『優等生』たちは、おそらく、普通の方法でバイヤーに接触する方法を知らない。『ダミア』は、そういった子どもたちに、薬を渡すのだ。
―――それにしても、良心的なこって。
つくづくと辰砂は思う。バックの中にはピンク色のぬいぐるみ。その値段は、辰砂から考えると、驚くほどに安価なものだった。
おそらく、あれではほとんど儲けもでない。だからこそただの子どもが手を出せるような商売になっているということもあるのだろうが、『ダミア』が何を考えているのかはますます分からなかった。
不可解だったのはもう一つのルール。『ダミア』は、一人の客に、一定回数しか薬を渡さない。
何らかの方法で接触を取れれば、『ダミア』は客にキーを渡す。方法はさまざま。郵送、というパターンもあれば、一定の場所に隠しておくという方法であることもある。それをつかってコインロッカーを開ければ、中には薬を仕込まれたぬいぐるみだの、文庫本だのCDジャケットだのが入っている。シートになった薬だったらCDジャケットに隠すし、粉だったらぬいぐるみの背中を裂いて押し込んでおく。それなりに周到ではある。少なくとも客には『ダミア』の正体が何者なのかは分からないだろう。
そこまで周到な方法を取って、薬を売る。まったく割に合わない商売。今の日本にはバイヤー気取りで格好をつけている若者もいるし、ヤク中が上の人間に言われて中毒者を増やしているパターンもある。だが、そのどのカテゴリにも『ダミア』はあてはまらない。何を考えているのか、ひかえめにいっても、まるで見当が付かなかった。
だからこそ、面白い。
『客』の見当は、いくつかばかり、つけていた。
『ダミア』の客のなかには、彼から薬を手に入れられなくなった後、その味を忘れられず、なりふりかまわずに他のバイヤーを探している子どもたちも居る。彼らの中には、その友人などに口コミで『ダミア』の存在を知らせているものたちもいた。それを見つければ、簡単に客はつかめる。あの少女もその一人だった。そして、現役で『ダミア』から薬を買っている客を捕まえられたということは、それだけ本人に近づいたということだ。
商品そのものも、手に入ったわけだし。
それにしても、可愛らしいピンク色のぬいぐるみは、その中身とはいかにも不釣合いだ。辰砂はあの少女の話から中身をほぼ推測していた。中身はメチルフェニデート、あるいはアンフェタミン。平たく言うと『覚醒剤』の仲間だ。化学式的には若干異なるらしいが、効果はほとんど変わらない。疲労を感じなくさせて、長時間眠らずに活動できるようにする。辰砂にとっては懐かしい名前だ。ヒロポン。戦時中には『特攻錠』と言われて、特攻隊の隊員に投与されていたとも言う。それがまだ合法で、日本中の薬局で普通に売っていた時代には、辰砂は今とほとんど変わらぬ姿で、今と同じように遊び暮らしていた。だからそれがどの程度たちが悪く、どの程度までなら安全かも知っている。昔は役者だの作家だのという人種が好んで使っていたものだ。―――とはいえ、今の日本だと違法な薬であるということは、理解はしていた。
他にも、睡眠薬だとか、向精神薬の類だとか。『ダミア』の商品はずいぶんと多彩だ。中には医者にいけば処方してくれる薬も少なくはなかった。その反面、純粋に精神を高揚させるための薬もある――― 所謂、ドラッグ・カクテルと呼ばれるドラッグの混合物など。だが、危険度が高いものは、決して服用しても死に至らない量しか扱わないようだった。おそらく、危険を避けているのだろう。客にとっての危険と、売り手にとっての危険。薬物中毒によって使者を出すというのは、純粋にバイヤーにとってもリスクが高すぎる。警察の手がかかるからだ。
知的で周到、だが、商売っ気は無く、儲ける気などはなから無い。ということは、愉快犯だろうか? けれど、純粋にドラッグを好み、ドラッグ乱用を世間に広めようという意図を持っていることが多い『愉快犯』にしては、扱っているドラッグも、その客も、あまりに地味にすぎた。辰砂が知っているようなドラッグ愛好者は、普通、ドラッグを使うことに楽しみを覚えている。陳腐な例だと、レイヴを楽しむためにマリファナやエクスタシーを服用したり、といった風だ。だが、今までに接触した『ダミア』の客は、ドラッグそのものを愛好するというよりも、過度のストレスや、過労に対応するために薬を使っているというケースが多かった。
何から何まで、辰砂にとって、目新しい話ばかり。
あの少年はどんな人間なんだろう……?
辰砂は思い出す。あの姿を。
静脈の青さが浮くほどに、光の無い深海にすむ魚のように、白い膚。
闇のように真っ黒な髪。
白いシャツに細いタイを締め、喪服のように黒いスラックスをはいていた。ぴったりと手首までを覆ったカフスには銀のカフスピン。そのモチーフがなんだったのか、いまさらのように辰砂は気付く。あれは、時計だった。銀細工の小さな時計。ひどく古典的なデザイン。時計と、それに、髑髏――― "Memento mori(死を思え)"を意味するモチーフだ。
細い銀縁の眼鏡の向こうの、無機質な眼。
まるで魚のように、透き通る推奨のように、無感情な。
生きながら、すでに死んでいるような…… そのカフスピンのモチーフにあるように。
おもしろい。
これほどおもしろいことに出会ったのは、ひさしぶりだ。
あの少女は、まぎれもなく『ダミア』に最も近い客だった。なぜなら、彼女は、あの『ダミア』と同じ学校に通っている生徒だったのだから。
正体はあの少女も把握していなかった。だが、そこまで分かれば充分だ。その場所へ行けば、匂いをたどってたどり着ける。あの少年に、会える。
どんな味がするんだろう? あの白い膚は。あの黒い髪はどのように香るのだろう。そして、あの闇色の眼に浮かぶだろう喜悦の涙は、どんな風に甘いのだろう。会いに行くのがいまから楽しみでたまらない。
その味は、すくなくとも、このぬいぐるみの中に入っている薬なんかよりは、確実に甘く、旨い。
いまだ知らぬその美味を思い――― 辰砂は我知らず、己の唇を舐めていた。
「おーい、高瀬? 高瀬がどこ行ったかしらないかー、誰かー?」
授業が始まるよりも先に、まず、空席に気付いた教師の声が教室に響く。生徒たちはそれぞれひそひそとざわめきあってはいるものの、誰も教師の声そのものには返事を返さない。中年の数学教師は困ったように教室を見回していたが、やがて、あきらめたように出席簿を開いた。
「まあ、いい。今日のHRをはじめるぞ」
窓の外には、凍てついた二月の空。
まだ午前も早い時間だというのに、空は灰色硝子のように凍てついて、今にもみぞれを滲ませそうだ。東京の二月に雪は降らない。代わりに、半分朽ちかけたようなみぞれが、びしゃびしゃと降る。降らないといいな、と窓の外を見ながら、彼はぼんやりと思っていた。
「えーっと、期末は明日からだが…… 言うまでも無いが、来年のクラス別は次の期末で決定するので、皆、落ち着いて望むように。結果発表になって泣かないように気をつけろよー」
担任がそれだけ言うと、急にざわざわとクラスがうるさくなりだした。とはいえ、別段、いつもの光景だといってもいい。それぞれ鞄や机の中から、テキストを取り出すもの、ノートを出すもの、赤いプラスチックの透明な下敷きという定番のアイテムを取り出してくるもの。仲がいい同士はそれなりにたむろしあって、なにやら情報交換をしているものたちもいた。しかし、携帯電話を弄っている、友人と何の意味も無い四方山話に興じる、といった無意味な行動にふけっている生徒が一人もいない、ということが特徴といえば特徴だろう。おそらくここの生徒たちはおかしいと思うことも無いだろうが、それがこの学校における『日常』なのだった。
「なぁ、黒羽ー。どうしたんだろうな、高瀬」
ふと、隣の席の生徒が、窓際の生徒に水を向ける。何の気も無い噂話。窓際の生徒…… 黒羽柊吾は、「さぁ?」と軽く眉を寄せた。
衿まできっちりと留めたワイシャツと、臙脂色のネクタイ。モスグリーンのジャケットと、グレーとグリーンの控えめなチェックのパンツ。そんな、どちらかというと今時風の制服を着ていながら、柊吾のたたずまいはあくまで生真面目で面白みのないものだ。脱色など生まれてから一度も経験がしたことが無い、といった体の漆黒の髪。白い肌と細い銀縁の眼鏡。ちらり、と空席になっている席のほうへと目をやる。
「君、高瀬さんと仲良かったっけ?」
「いや、ノートもらうとかいう話、してたから」
「なーんだ」
「高瀬のバカ。風邪かぁ? 期末前に?」
バッカじゃないの? といかにもあきれたような声を出す。そんな同級生に、「風邪じゃしかたないよ」と柊吾はかるく困ったように笑って答えた。
「でも、期末前ってのは致命的だよねぇ」
「体調管理が大切ってヤツよ」
「でもさ、君、期末前に『体調管理』とかまともにできる? 一日最低6時間睡眠、食事は三食きっちりとって、適度に運動もする」
「……不可能だな」
「だよね」
あはは、と柊吾は笑った。相手もちょっと苦笑して頭を掻きながら、鞄から次の授業のテキストを取り出す。それで会話は終わった。
自分も鞄から取り出したテキストをめくる。必要な部分にはラインが引かれてある。頭の中で確認するまでも無く、教室の壁には明日からのテストのスケジュールが添付されていた。押さえなければいけない科目と、どちらかというとそこまでリソースを投入しなくても済む科目。そこの見定めは絶対に必要だ。どれだけ頑張っても一日は24時間しかないのだから。睡眠や食事などといった時間を限界まで切り詰めて、それでも、24時間。
これからのテスト期間一週間に、どれだけ限界まで自分の身体を酷使できるか。それが重要なのだ。おそらく、教室の生徒たちはみんなそれを分かっている。だから教室は、ややざわめきめいたものはあっても、高校一年生のいる場所にあらざるほどの静けさに包まれているのだし、皆がそれぞれを笑顔で牽制しあっている。
―――ねー、ここ覚えた?
―――あーもー、ぜんぜんダメ。今回のテストかなりヤバいよ。
―――めんどくせぇなぁ、オレ、昨日、かなり本気でドラゴンボール読み返してたんだけど。
―――アリかよー。でも、気分分かるー。
笑顔で嘘をつく。当たり前のことだ。誰もそれが悪いとは思わないし、信じもしない。
しかし、高瀬美奈の欠席は、いささかとうとつに過ぎた。
高瀬美奈の、前回の成績は、おそらくは理系特進クラスであるAクラスへ入ることができる上位30人へ食い込めるかどうかのギリギリのラインだった…… と柊吾は思い出す。今回のテストでは、それこそ、氷壁にでも喰らいつくような気合でもって挑まなければならないというプレッシャーを感じていただろうに。それが今日という日に学校を休む。休んで、家で勉強をしているという可能性もあるけれど、そうだとしたら学校に連絡が入っていないというのはいささか不可解だ。
柊吾は癖で、唇にシャープペンシルの尻をあてる。色の無い薄い唇。窓を見る。温度差でわずかに曇った硝子。顔がうつりこむ。顎の細い、繊細で柔和そうな顔立ちの少年が。
窓ガラスに、ぼた、ぼた、と鈍い音が響いた。どうやら、柊吾の期待に反して、みぞれが降り出してしまったようだった。
重く冷たい、大粒のみぞれが。
重苦しく必死な雰囲気のただよう授業の時間を過ぎて、休み時間。この時期には食堂を使うのはあまりお勧めではない。特に受験を控えて血眼になった三年生たちが、美味くも無い安い定食を掻き込みながら暗記に夢中だ。もともと柊吾はあまりものを食べるほうでもなかった。ゼリー栄養食を咥え、ミネラルウォーターを片手に階段を登る。この学校にあって最も人目のない場所。鍵の開かない屋上へと続く階段の一番上、その踊り場―――
重い金属のドアには、針金入りのガラスが嵌り、向こう側にはみぞれの降る灰色の空が見える。空になったゼリー栄養食をビニール袋に放り込むと、柊吾は、携帯電話を取り出した。
番号を確認する。クラスメイトはいちおうすべて把握していた。呼び出す名前は高瀬美奈。今日、欠席したクラスメイト。
しばらく呼び出し音が響いた。
やがて。
「もしもし、高瀬さん? 僕だよ」
『……あ ……黒羽、くん……?』
電話に出た声は、涙に濡れ、かすれていた。
柊吾は眉を軽くしかめる。「どうしたの?」と問いかける。
「明日から期末だけど、いきなり休んだから、みんな、心配してたよ」
『う、うん…… そうだね……』
心配をしていた、という話が嘘だということくらい、高瀬美奈、彼女とて悟っていないわけがない。特進クラスへの門は限りなく狭い。そこへもぐりこむためなら容赦なくクラスメイトたちを押しのけ踏みつけて進む少年たちが、ライバルの堕落を内心であれ喜ばないはずがないのだ。……けれど、それとはまったく別な次元として、彼女がいきなり休んだということに対して不審を抱いていたというのは、また、本当だ。
「今、どこ?」
後ろで聞こえてくるのが、不可解な喧騒であることに気付き、柊吾は問いかける。もしや、美奈は家にいないのだろうか?
しばしの沈黙。そして。
『……渋谷にいるの……』
「え?」
『家に帰れない…… どうしよう、あたし…… あたし……!!』
美奈の声が、取り乱したように高くなる。細く高い、締め付けられたような声。柊吾は思わず携帯電話を握り締めた。
「落ち着いて、高瀬さん。どうしたの?」
『あ、あたし、あたし…… 『ダミア』のこと、話しちゃったよ……!!』
瞬間、柊吾は、息を飲んだ。
『お人形も、取られちゃって、それで、そのあと…… そのあと……ッ!!』
嗚咽に呑まれて、声が声にならなくなる。ひどく乱れた声の間に、背後の喧騒が聞こえた。ゲームセンターの側にでもいるのだろうか。けたたましいBGMがひどく耳障りで、美奈の声が聞こえない。柊吾は必死で携帯電話に耳を押し付ける。
「どんな人だったんだ……!? 『ダミア』のことを知っていたのか!?」
『そ、そうみたい、だった。男の人で…… 派手な格好をした男の人で…… あたしに…… あたしに……』
美奈の声が、ひときわ高ずり、乱れた。
何をされたのか、と思う。だが、今の美奈からそれを聞きだすのは不可能だ。とにかく柊吾は、少しでも美奈を落ち着かせようと、穏やかな声を作る。
「大丈夫、高瀬さん? 今、どこにいるんだ。親御さんに連絡しないと……」
『できないよぉ…… だって、あたし、もうダメだよぉ…… 薬、とか、全部話しちゃッ…… ッく……!!』
しばし、嗚咽だけが受話器越しに耳に響いた。柊吾は黙り込む。
『ね、黒羽、どうしよう、あたし、どうしよう、もうダメだよ、あたし、あたし、あたし』
「……大丈夫だよ」
壊れたスピーカーのように同じ言葉しか言わなくなった美奈に、柊吾は、優しく話しかけた。
「とりあえず、家に帰ろう? それから、明日のテストを受けないと。それから、そのことはまだ他の誰にも話していないよね?」
『う、うん……』
「大丈夫。高瀬さんが黙ってれば、きっと、誰にも分からないから。お母さんには、塾帰りに貧血を起こして、駅前のマンガ喫茶で休んでいたっていうんだ。携帯の電池が切れててごめんなさい、って」
『うん……』
しゃくりあげるような声はまだ続くが、けれど、美奈はずいぶんと落ち着いたようだった。けれども、泣きじゃくる子供のような風で、不安げに繰り返し繰り返し、同じことをつぶやく。
『でも、あたし…… あの薬…… 無いと…… だめだよ、もう、がんばれないよ。あたし、おちちゃう。もう特進クラスに入れないよ……!!』
それは、まるで身を切るように切実な声。その声は、鋭利なガラスの破片のように、柊吾の身にも突き刺さった。
柊吾の手に、力が篭った。
「……うぶ」
『……え?』
「大丈夫。じゃあ、もう一回、『ダミア』を呼ぶんだ」
短く、電話の向こうで、美奈が絶句した。
「今回は契約破棄じゃなくて事故。だったら、『ダミア』もきっと、スペアを準備してくれると思う。だから、家に帰る前に、所定の場所に連絡のサインを。……ね?」
『ほん、とに、それで……』
「うん、きっと、大丈夫だよ」
柊吾は、力づけるように、言った。
「テストは明日からだから、きっと間に合う。一日目は文系科目だから関係ない。あとは―――」
―――あとは?
その言葉が、ふいに、反響のように柊吾のなかに返ってくる。瞬間、言葉を失う。
受話器の向こうで、不安げな声が漏れた。
『黒羽くん……?』
「……なんでもない」
柊吾の口元が、笑みの形を作る。そして、優しげな声と。
「気をつけて帰ってね、高瀬さん」
『うん。ありがとう…… 黒羽くん』
そして、電話は切れた。
通話が切れて、ツー、ツー、という無機質な音だけが残る。それでも柊吾はしばらく、黙ったまま電話を耳に押し付けていた。握り締めた指には力がこもり、真っ白になっている。やがてその腕はのろのろと下りて…… 柊吾はガラス越しの屋上を見る。
ガラスに自分の顔がうっすらと写っている。
柊吾は、そこに、すべての感情が抜け落ちたような、無感情な顔を見た。
闇色の目、真っ白な肌。人形ということすら生ぬるい。これは――― 死人の顔だ。
だめだ、と柊吾は指を眼鏡のブリッジに当てる。銀色のフレームを少し押し上げた。ため息をついて、自分の身体に腕を回した。正確には、その腕や、足を、そっと撫でるようにして、己の身体を抱きしめる。
ブレザーと、スラックス。その下にはアイボリーのセーターと白いシャツ。……では、そのさらに下には?
だめだ、と思う。
テストがある。今は動揺しているわけにはいかない。
けれど、柊吾は高瀬美奈の言ったことを反芻する。見つかってしまった、そして、話してしまった。薬を取られてしまった。……派手な男。あまりに断片的なヒント。これでは、相手の分析などしようがない。
何者なのか。『ダミア』を追い詰めることを目標としているということは、『ダミア』の同業者(バイヤー)の類だろうか?
よりにもよってこんな時期に。
……だが、そう思いながらも柊吾の意識は透徹し、冷たい。やるべきことだけが分析される。緻密に編み上げられていたタイムスケジュールが頭の中でほぐされ、また、新しい形に織り上げられる。『黒羽柊吾』がやらねばならぬことと、そして。
だが。
唐突に、思考が、断絶される。
「見いつけた」
何の前触れもなしに、唐突に、声が響いた。
「!?」
柊吾は弾かれたように降り返る。
だが、校内の喧騒が虚ろな反響となって響く踊り場には、誰の姿も無い。誰もここに来ることなどない。そういう場所だ。そして、ドアは閉ざされて、その向こうには誰もいけない。柊吾は階段を見下ろす。誰かが登ってくる気配などなかった。
幻聴だろうか。
そう思って、なんの気もなしにドアに嵌ったガラスの向こうを見た柊吾は、そこに、信じられないものを見た。
ピンク色の、安っぽい、ぬいぐるみ。
それが、コンクリートに転がって、みぞれに打たれている。
―――間違いなく、見覚えが、あった。
背中が乱暴に引きちぎられ、中に入っていたものが取り出されている。代わりに中からはみ出し、あたりに散乱しているのは、悪い冗談としか思えないシロモノ。……それぞれ真っ赤な包装の、安っぽい駄菓子。
きらきら光るセロファンや、アルミホイル。そこだけが派手な黄色や青に目立つプリント。チョコレートやキャンディやガム、ジェリービーンズにクッキー。それらのすべてが、内臓をぶちまけたように散乱し、みすぼらしくみぞれに打たれている。
柊吾は呆然とそれを見る。そして、己の目の前のドアのノブに、恐る恐る手を伸ばした。
ドアノブを、まわそうとする。
だが、さび付いて鍵のかけられたノブは、ぎしぎしと軋むばかりで、ほとんど動かない。
ここから出て行くことなど出来ない――― だが、屋上へと続くドアはこれひとつ。他の方法で屋上へと侵入など出来ない。
では、誰があそこにあのぬいぐるみを置いた?
……『ダミア』からのプレゼントだった、あの、ぬいぐるみを?
立ち尽くす柊吾の手から携帯電話が落ちそうになる。だが、すんでで気付いて、柊吾はぐっと電話を握り締めた。
見ツカッタ。
トウトウ、見ツカッタ。
「……」
柊吾の薄い唇から色がうせていた。
その唇は、笑みの形も、狼狽の形も見せることなく――― 柊吾はきびすを返すと、屋上でみぞれに打たれるぬいぐるみを一顧だにせず、踊り場を後にした。
学校が終わると、予備校へ行く。
電車を乗り継いで予備校へといき、家に帰ってくる時間はすでに11時を回っている。柊吾はバスを降り、自分の家の前で傘をたたんだ。山の手に立てられた白い壁の家。無論、建て売りなどではない。まだ何も生えていない花壇を横目に見ながら、柊吾は玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
声をかけると、すぐに、返事が帰ってくる。
奥から出てきたのは母だった。白いエプロンをかけたまま、スカートにブラウスといういでたち。何をしていたのだろうか。玄関にはかすかにシチューの冷めた匂いが漂っている。
「柊ちゃん、遅かったわね?」
「ちょっと残って復習してきてたんだ。明日から期末だから」
「そう、よかった。今回はどうかしら? 調子はいいの?」
「うん、いいよ」
柊吾がコートを脱ぎながら微笑むと、母も、やっと緊張が解けたように笑顔になる。高校生の息子を持つ母親、というよりも、親から叱られずに済んだ幼子といった風体だ、と柊吾は頭のどこかで思う。いくつものドアが見える広い家はがらんと冷たく、リビングにだけほの温かく明かりがついて、オーディオセットから小さな音量で音楽が流されていた。
柊吾はコート掛けにコートを掛けて、鞄をソファに下ろした。広いリビング、そこから見えるリビングへと歩いていった母が、食事を暖めているのが見える。テーブルには空の皿と箸、そしてフォークとスプーンがきちんと並べられていた。三つ。母のための皿、柊吾のための皿、それと、父のための皿。
「母さん、先に食べててもいいのに」
僕だってご飯を温めることくらい出来るよ、といいながら手伝うために台所へ行くと、母は大きな鍋のシチューをあたためているところだった。おそらく今日の夕飯はシーフードのシチューだろう、と柊吾は思う。粉をまぶし、すぐにでもムニエルにできるよう下ごしらえをされた魚。瑞々しいサラダ菜。全ての料理がひっそりとして、ただ黙って、食べられるのをまっている。
母はフライパンにハーブの入ったバターを溶かす。じゅう、という音と共に広がる香りはフェンネルとセージ。母が広い庭の片隅で、大切に育てているハーブの匂いだ。
「いいのよ。柊ちゃんやパパといっしょじゃないと、ご飯を食べても美味しくないもの」
皿には付け合せのレモン、ムニエルにされた魚の背中に十字の切れ込みを。母の使う包丁は祖母…… 姑から送られたドイツ製で、その切れ味は凍った魚を骨ごと両断できるほどに鋭い。滑らかな鋼の刃。その優雅さに満ちる獰猛な鋭さ。
ソテーされた魚を皿に盛り、ソースを垂らし、レモンを添えると、さながら高級レストランの今日の一品、といった風情だ。暖めたシチューはボーンチャイナのシチュー皿へ。瑞々しいサラダも同じく真っ白な皿へ。
母子二人きりの食卓―――
ひろいリビングには、色を押さえたインテリア。壁に掛けられたレプリカはモネの描いた睡蓮。飴色の家具は無論本物のアンティークではないけれども、その高級感はそれらが間違いなく本物であるということを知らせる。部屋のすみだと大きなティファニー・ランプが、色硝子ごしの光をしずかに湛えていた。テレビはない。代わりにオーディオセットがある。父の意思だった。テレビなど見る必要はない。情報が欲しければ、新聞を読んでいれば充分だから、と。
父はいない。
父は帰ってこない。
父は今日も仕事なのだろう…… と、柊吾はムニエルを切り分けながら、空のままの白い皿を見て、思う。
「柊ちゃん、今回のテストで、来年のクラスが決まるのよね?」
「うん。30位以内までが理系特進だって」
母が、ためらいがちに口を開きかける前に、柊吾は、にっこりと笑い、「大丈夫だよ」と答えた。
「前回のテストだと、僕、18位だったし…… 成績も下がってないから、たぶん、充分に狙える範囲だと思う。今回の範囲は得意科目だしね」
「そう。よかった、安心したわ」
母は、やっと、安心したように笑った。やはり童女のような笑顔だと柊吾はひそかに思う。
「あのね、パパも柊ちゃんに期待してるって。今度、休みになったら、どこかに遊びに行きましょうねって言ってるわ」
「家族旅行なんてひさしぶりだよね」
「うん。あったかくなったら、何か、花のきれいなところにでも行きたいわね」
リビングに流れる、チャイコフスキーのピアノ協奏曲。だが、押さえた音量のそれよりも、窓をうつみぞれの音のほうがなお大きい。窓の外は暗く、光らしきものは見えなかった。
「おいしい?」
頬杖を付いて、柊吾にむかって微笑む母。
「うん、おいしいよ」
―――そして柊吾はひっそりと、いつもの疑問を思い浮かべる。すでに耳になじんでしまったメッセージを反芻するように。
自分がいない間、母は何をやっているのだろうか。そして、おそらくは母がいつも何時間も掛けて作っているのだろう手の込んだ料理…… 決してかえってくることのない父のために、冷蔵庫で粉をまぶされたまま待っている魚は、明日の朝には生ゴミとして、ゴミ箱の底で野菜屑や残飯にまみれているのだろうか、という想像だった。
食事を終え、二階へあがる。制服はずっと着たままだった。この際、着替えるのもめんどうだ。柊吾は大きな机の片端に机をぶら下げると、いつもCDを入れっぱなしにしてあるオーディオセットにスイッチを入れる。とたん、流れ出したのは、階下で流れていた穏やかな音楽とは似ても似付かぬ、陰鬱な歌声だった。
柊吾はドアを確かめ、しっかりと鍵がかかっていることを確認して、初めて息をついた。ネクタイを乱暴にひっぱって外し、ワイシャツの衿を緩める。窓は鎧戸が閉められた上、カーテンが閉められて、一筋の光も入らない。階下と同じくレトロなイメージの部屋は、どちらかというと書斎といった体で、高校生の少年が住む部屋だとは思いがたかった。壁の一面を大きな本棚が覆い、そこには整然とテキストが並ぶ。灯りもつけず、光源といったら部屋の隅に置かれた小ぶりのティファニー・ランプのはなつほのかな七彩の光ばかり。
ワイシャツを脱ぎ、柊吾は、まるで道具でも検分するような目で、ゆっくりともたげた腕を見る。―――上膊部に巻かれた包帯に、赤く、血が滲んでいる。
柊吾はため息をついた。
シャワーを浴びるのなら、その後に処置をすべきだろうが、万が一にでも母と遭遇しかねない時間には、決して膚を見せないというのが柊吾の習慣だった。今日風呂に入るとすれば3時か4時、どちらにしろまだ数時間ほど間がある。
鍵のかかるデスクの奥から自前の救急箱を取り出し、包帯を外し、傷を消毒し、傷口が開かないようにテープできつく抑えた。長い傷痕は引っかき傷のように四筋ほども並んでいるだろうか。深くも無いが浅くも無い。消毒し、ガーゼを当て、ややきつめに包帯を巻きなおす。黒い長袖のTシャツを着る。血のついた包帯は不透明な袋に入れて鞄に隠した。行きがけの駅で捨てる。不用意に家で汚物を見せて、無駄な勘繰りを受けたくはない。あけた机の中には、血をぬぐうための無地のタオルが、まだ、充分にストックされていた。そして、緑の柄の使い捨てメスや、黄色いプラスチックホルダーのカッターといった何種類もの刃物、それに、まだ使用されていない注射針のパッケージも。
黒いデニムのパンツを履き、机に向き合うと、そこには無感情な少年の顔が写っている。細い銀のフレームの眼鏡。その奥の闇色の目。まるで、死んでいるかのように無感情な目。
今日は少し無理をした…… と柊吾は思う。
美奈はきちんと『プレゼント』を受け取ることが出来たのか。それは柊吾には確認できようもないことだった。だが、ものはきちんと中をくりぬいた文庫本のページに隠し、駅にある障害者用のトイレの、目に付きにくい場所へと置いてきた。もしも美奈が失敗をしていなければ、今頃はそれを手に入れて家に戻っているはずだ。その結果、美奈がきちんと集中をして勉強を出来るのか…… そこから先は柊吾にとっては推測しようのないことだ。
だが、いったい、どういうことなのだろう。
屋上に転がっていたぬいぐるみ。ぶちまけられ、雨に打たれる安い菓子。その真っ赤な色彩は、あきらかに、血や臓物を意識しているのだと分かった。チープな悪趣味だ。しかし、誰がそれを実行したのか、と考えると、話はまったく別になってくる。
出入りのできようもない学校の屋上。まして、一回目に屋上を見たとき、あそこにはそんなものは『無かった』はずではないか? なぜ、美奈と会話をしたあと、あそこにはあれが『あった』のだ?
男に…… と美奈は言っていた。
おそらくは、誰かが、『ダミア』の正体に気付いた。
まして、ぬいぐるみの中身は持ち去られていた。言い逃れのしようがない証拠を手に入れたぞと、あの悪趣味なオブジェは主張していたのだ。
あの中身は、メチルフェニデートの錠剤と、その副作用の不眠を消すためのトリアゾラムの錠剤。そして、最後に使うための、MDMAのカラフルな錠剤がわずかばかり。
服用すれば、テスト期間くらいなら、まったく眠らないで活動することも出来るだろう。休憩を取りたいときは睡眠薬をつかって睡眠をとり、自分で時間をコントロールする。ストレスで耐え切れなくなったなら、MDMAを使って多幸感を得る。そういうレシピだ。
全体的には、モノそのものは比較的違法度は低い。美奈は体質的に薬の効きが強く出る。だからあの程度で充分だったということだったが、しかし、それが吉と出るのか凶と出るのかは、柊吾にも推測が付きかねた。
机の奥から、金属製のピルケースを出す。
白い錠剤を取り出して、舌の裏に入れる。
どちらでもいい、と柊吾は醒めた頭で思った。
とにかく、テスト期間は一週間。その間に面倒ごとに巻き込まれなければいい。来年の特進コースにもぐりこめれば、少なくとも平穏な日々は続くだろう。鞄のなかからテキストを取り出し、並べる。テーブルの隅にはミネラルウォーターのボトル。暗記すべき科目と、抑えておくべき数式や構文やそのたもろもろ。舌の裏に入れた錠剤が溶けていくにつれて、頭は次第に冴えてくる。ペンを取る。どうでもいい。今はただ、テストに向かって備えるだけだ。
―――けれど、頭の裏で、何かがチリチリと、うるさく叫んでいる。
見ツカッタ。
トウトウ、見ツカッタ。
「……」
柊吾は、ちらり、と窓を見る。
暗い鏡のような硝子には、白い顔の中、闇色の目が、なんの感情も見せずに、うかんでいた。
To Be Continued…
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