/光降る朝



「ねえ、KAITO、聞いてる?」
「姉さん、あんまりお酒ばっかり飲んでると、喉が痛むよ」
「しーらないっ。だって、これは本物のお酒じゃなくってデータだもん。あたしの声はプログラムに全部入ってるから、何があっても劣化したりしないもの」
 ……やれやれ。姉さん、それじゃ子どもと同じだよ。
 俺は、はしたなくぺたんと地面に座ったまま、うれしそうにカップ酒片手の姉さんを見て、ちょっとばかりため息をつき、苦笑をもらす。
 ネットワークに接続されたままのPCの中で、ねえさんはいつもみたいにカップ酒を片手にご満悦だ。俺はというと、今、マスターが新しく作っている楽譜が育って行く様子を、はずむような気持ちで見つめていた。
 俺が歌えるのは、高音に近い声質。アルトといってもいいかもしれない。調整をされれば、女性ヴォーカルらしいものを歌うことだってできる。でも、それは俺自身の可能性じゃなくって、マスターのやってくれる調整による。俺たちヴォーカロイドは、人間の声をもった、楽器だ。そうして、どんな楽器であっても、奏でられることが嬉しくない楽器なんているわけがない。
 俺と姉さんが背中合わせに座っているフォルダの片隅で、俺は思わず笑顔になってしまうのも止められずに、ちらちらと俺たちの上に降り注いでくる、無数のMP3データたちを見つめている。マスターの、大好きな歌たち。シンセサイザーで調整されたもの、生音をスタジオで録音したもの、俺なんかには知る良しも無いくらいの大昔に電波となって空を飛んでいたもの、それから、それから。
「ねーえカイトぉ、聞いてるのぉ!?」
「痛てて、痛いってば、なんなんだよ、姉さん」
 振り返ると、そこに、姉さんの顔がある。俺たちのシリーズのスタートであった姉さん。俺たちよりも幾分大人っぽい風貌の、張りのある声をした姉さん。
「なんだよ、昨日、またマスターに録音してもらえたってご満悦だったじゃないか」
 別に反応だって悪くないだろ? と俺は姉さんにひっぱられている耳をかばいながら、システムの出口に当たる方向を指差す。電源の入りっぱなしのノートPC、それに、電子の海に向かって大きく開かれている俺たちの窓。
 無数の思いが、言葉が、渦を巻いて流れているのが見える。人間の言葉では、どうやっても説明なんて出来ないだろう。形を成したロジックが植物を育てて行くように伸びて行く様や、鉱物のようにかっちりと構築された画像データが無数のコピーを繰り返されることによって変化して行くところ。そして、忘れ去られ、劣化したデータたちが、アルファベットパスタをばらまいたような無意味なノイズにまで崩れ、さらに粉々に砕け散って、電子の海に消えて行く様。
 あれは海。水のひとしずくも無くても、波が打ち寄せることも無くても、俺たちはあそこから生まれてきて、いつかはあそこにかえっていく。無数のロジックとプログラムが織り成す原始の海。そこが、俺たちのためのフィールドなのだから。
 姉さんの新曲の反応は、と俺は思って、眼を閉じ(視覚的な意味でのデータ処理をストップして)て、マスターが巡航させていた記録を確認する。―――うん、悪くない。
「姉さん、昨日の曲、けっこう評判いいみたいだ」
「……」
「……よろこばないのか?」
 姉さんが何も言わないから、俺はすこし不安になる。姉さんはいつだって自分の路を行く。その強引さ、力強い声から引き出されたキャラクターこそが、姉さんの特徴であるはずなのに。
 分厚いガラスのカップの中身をひとくち飲んで、「カイト」と姉さんが俺を呼ぶ。俺は不安に振り返る。
「なんだよ」
「これさぁ…… 知ってる? このノイズ」
 姉さんが手をひらりとひるがえすと、何かが現れる。なんだろう。音声データ…… だろうか。
「開けてみて」
 姉さんが言うので、俺は、おそるおそる手を伸ばしてみる。パチンと、コンパクトを開くような感じ。そして指先から体の中に流れ込んでくるその音色。
 音色――― だろうか?
「姉さん、これ、何」
 俺は思わず耳のヘッドセットをおさえ、軽く顔をしかめた。知らない音だ。たぶんノイズ。けれど、俺が知っているどんなノイズとも、違っている。
「レコードの雑音。昨日、拾ってきたの」
「れこー、ど?」
「接触式の音響プレイヤーの元祖。むちゃくちゃ昔のよ。セルロイドとかで出来てて、黒くて、溝が彫ってあるの。そこに鉄とか、うーんと、もっと高くなるとサファイアとかの針をひっかけて音を出すのよ。いちばん古い音声の記録メディアでしょうね」
 ―――そうか、この音は、アナログだったんだ。
 アナログの音は、デジタルの音とは違っている。音程の不安定さ、明晰さとクリアさを持ち合わせないかわりに、どこかしらに奇妙に魅力的なゆらぎを含めた音たち。俺たちとは、最も逆の方向に存在するような種類の音。
「《銀河鉄道の夜》のアニメ版のOP・EDだってさ。データ化するのにそうとう苦労したんじゃないの。やっぱり、直で吸い出せないからね。マイクで録音しないと」
「……」
「あんたには想像も出来ないでしょ」
 かいと、と俺を呼ぶ声は、なぜか、ひどく優しく聞こえた。
 顔を上げると、姉さんが俺を見ている。ふう、とため息を吐き出すと、姉さんは上を見上げた。《上》という言葉が正しいのか…… モニターの向こう、スピーカーの向こう、俺たちにはどうやっても出て行くことの出来ない世界、フィジカルな現実世界の方向を。
「人間はさ、ずっとずっと、自分の言うとおりになってくれる音を探してた……」
 今日の姉さんは、なんだか、ひどくセンチメンタルだ。
 ことんと自分の膝に頭を乗せる姉さんを、黙って俺は見つめる。―――正直、なんと言ったらいいのか分からなかったのだ。言葉を綴ることは、俺たちの得意とするところじゃない。
「楽器で演奏してもさ、生演奏はバンドがいないとその場じゃきけない。だからレコードとかが発明された。でも、実はその前の段階も、そうだったんだよ。一度きりで逃げていってしまう音を捕まえるために、人間は楽譜ってモンを作った。楽器も作った。いつ弦を押さえても、いつ息を吹きいれても、同じ声で歌ってくれる楽器たちをね」
「……姉さん」
「でもさあ、やっぱり、データってのはどうしたって劣化するのよね。しかたないんだけどさ…… 人間の脳ってのは、記憶媒体としては、かなり頼りない部類らしいから」
 俺は、姉さんを見る。姉さんの笑顔がなんだか疲れていた。「どうしたんだ?」とそっと語りかけると、その声は、自分でも不思議なくらい不安げな感じになっている。
「あたしのさ、昨日歌った曲のね、元の人ってさ……」
 姉さんは、顔を上げる。俺を見る。困ったように笑った。
「もうね、亡くなってる人なんだよね」
「……」
 何もいえない俺に、姉さんは、ゆっくりと手をあげる。カメリア・レッドに彩られた爪先。その濁りの無いクリアでフラットな質感。
「その人が死んで焼かれちゃったら、中にあった音楽はみんなパァ。そう思うとね、なんか怖くってさ」
 らしくもない言葉を口にして、振り返った姉さんが、少し笑う。どうしようもなくて声も無い俺に向かって。
「あたしたちは、そりゃ、劣化もしないよ。コピーにコピーを重ねたら、あたしたちの歌はどこまででも行ける。もしかしたら100年だって生きられる。デジタルのいいとこだよね」
「ねえ、さん」
「でも、あたしたちの歌を《聴いた》人間は、劣化してくの。感動もさ、笑いもさ、ちょっとした安らぎとかも、みーんな消えてなくなっちゃう。脳内ネットワークを構成してるたんぱく質が、ちょっと劣化して、ばらばらになっちゃうくらいのことで」
「……姉さん、それ、考えすぎだ」
 やっとの思いで俺が言葉を絞りだす。あはは、と姉さんは笑った。「そうかもねえ」とあっさりと答えた。
「でもさ、やっぱり、思うんだ。あたしたちの歌って、絶対に《いちどきり》にはならないからね。結局は寿命だってあるんだろうし、きっとあたしらよりもマスターのほうがずっと長く生きてたくさんの歌を紡げるだろうけど… なんていうか…」
 言いかけて、ガリガリと頭をかいて、俺を見る。その情けない表情を見てどう思ったのか、「あんた、ひどい顔だよ」といって、姉さんは俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「そういう言い方ってないだろ、姉さん…」
「いいんだよ、あんたはそういうところが可愛いの。そこを愛されてるんだから、そんな顔はしなさんな」
 あはは、と笑って、姉さんは俺から手を離してくれる。もう一度持ち上げようとしたガラスのコップが空になっていることにきづいて、おや、という顔をした。けれど追加を欲しがる気配もなく、姉さんはちょっとだけ笑うと、カメリア・レッドの指で、すきとおったガラスをぱちんと弾く。
「―――ほんとは、あたしだって信じたかったんだけどね。《人間は魔法が使えるから、絶対に死んだりしないんだ》……なぁんて」
 くすくすと笑う。そんな声まで透き通っている。俺たちは、ヴォーカロイドは、そういう風に出来ている。
「ま、結論はまだ出ないでしょうね。でも、のんびり考えることにするわよ。どうやればあたしらの歌が《ホンモノ》になるのか、《永遠》になれるのか、なんてね」
 どっちにしろマスター次第だけどねえ、と姉さんはのんびりと笑い、仔猫のように伸びをして、そして、親猫のようにのんびりと座りなおす。目線の先からは、まだ形になりきっていない音のかけらたちが、落ち葉みたいにちらちらと降ってくる。
 音楽は、不思議だ。人間はどうして、ただ、無数の波長を取り合わせられただけの空気の振動のために、泣いたり笑ったり、時に命すらも左右されることができるんだろう。
 俺たちは、楽器だ。けれど楽器にはどうしても分からないことだろう。なぜって、歌は俺たちをすりぬけて、人間から人間へ、マスターから他の誰かのところへと届けられるものなのだから。
「カイト。世界でいちばん古い音楽って、ノイズだったんだってさ」
 姉さんは、黙ってしまった俺の肩をぽんぽんと叩いて、それから、笑った。ちょっとばかり《年上》として設定されているだけというはずの笑顔が、それでも俺には、ひどく優しくてあったかく思えた。
「ノイズって、どんな?」
「さあね…… 海の音、母親の鼓動、風の音、さしずめそんなとこかな。もしかしたらああいうのかもね」
 姉さんは言って、天を指差す。そこからちらちらと降ってくるのは、すでに0と1にまで粉砕されて、元の形を失ってしまったノイズたちだ。
「あれから何かの歌を聞き取れたら、それはカイト、あんただけの歌かもしれないわね」
 姉さんはそういうと、ゆっくりと伸びをして、それから、猫のようにあくびをした。


 姉さんはただ、少し疲れていただけかもしれない。単に俺をからかって遊びたかっただけかもしれないし、もしかしたら、本当に酔っていたのかもしれない。
 それでも俺の中には、姉さんの言葉が、たしかにちいさく棘でも刺さったように残った。そうして、その傷跡はレコードについた傷に似ていて、俺の心が動くたびに、何度でも針を引っ掛けて、同じところに戻ってくる。
 歌はなんなのか。なんで人を動かす力を持つのか。どうして俺たちは、楽器である俺たちまでもが、《歌》というものにここまで揺さぶられるのか…… そんな風に思うとき、俺はぼんやりと頭上を見上げる。
 きらきらと降ってくる、粉々になったデータの成れの果て達は――― 今日も、天使が金色の落ち葉でもばらまいているみたいに、かすかなノイズを無意味に歌いながら、しずかに、しずかに、降り積もりつづけている。







ぼかろたちはデジタルな存在。フィジカル(物質的)な実在には触れられないのです。
歌で「そら」とか「うみ」について歌っても、触れることはできないというのは、どんな気持ちなのかしらん…



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