悪ノ王子
(悪ノシリーズ・逆転ver)



 夢でありますように、夢であったらいいのに。
 悪くて怖い王子様と、よく似た顔の可愛いメイド。そんなのただのお芝居なの。衣装を脱いだら元通り。あたしたちは仲良くおやつ。紅茶を入れてテーブル囲んで、そう、おやつは焼きたてのブリオッシュ……

 大樹は自ずから倒れず。なればこそ、死すべきときを知る。
 かつて多くの英雄を輩出し、その後に為政家と理論家を、さらに後には芸術家と名妓とを生み出した国の最後の王子は、華々しくも絢爛たる狂人であった。
 齢十三にして処刑台に散ったかの狂王子。彼の悪行は多くの歴史家による列挙に暇が無い。彼は戦争を愛し、残虐を、悲惨を、ただ多くの王たちが名誉と栄光を愛するがごとくに愛した。初め清廉にして高貴に、後に豪奢にして華麗に咲き誇った王国が栄華に幕を引いた王子は、すべての歴史に幕を下ろすに相応しく、退廃と爛堕をもって彩った。
 人は呼ぶ。彼の名を、”悪ノ王子(アンチ・クライスト)”と。

 あたしがいつからあいつのメイドであったのかは、憶えていない。でも、今でも明確に憶えているのは、先輩のメイドに教えられて美味しく紅茶を入れられるようになるまでの間、あいつはいつでも不味い紅茶を文句ひとつ言わずにニコニコと飲んでいてくれたってことだ。
 我慢強いやつと思ったり、もしかしたらこいつは味音痴なんじゃないかと疑ってみたりもした。でも、今となってはよく分かる。あいつは、別にあたしの入れる紅茶の味なんてどうでもよかったのだ。別に不味くてもいいって意味じゃなくって、あいつにとって大切だったのは、つまり――― あたしと過ごす時間だったってこと。あいつを利用しようとしない人間と過ごすことの出来る、教会の鐘の音と共にすごす時間だったってこと。

 さながら、その姿は天使がごとく。頭に抱くその髪は暁の黄金、ひとみの色は楽園のスマグラトゥス(緑柱石)。王子がその細い手で王杓を受け、ちいさな頭に重い黄金の冠を受けたとき、人々の喝采の上には王子が愛した薔薇の花そして血がごとき葡萄酒が驟雨のごとくに注がれた。人々は祝福し、悦び、そして、酩酊した。
 王子はその手に王杓を携え、その腰には少年に相応しい細作りの剣を佩き、ただ天使のごとくに清廉に微笑んだ。人々は信じた。すでに落日を迎えつつある古き帝国へと黄金の王子が新しき光を注ぐだろうことを。ふたたび帝国に富と力と栄えとがあらんことを。その祝宴の中、王子は手づから反逆者たちの首を落とし、その血を水晶の杯へと滔々と注ぎいれた。その光輝は落日の茜のごとくであった。そのオルギア(狂宴)のごときは、天使が戴く黄金が落日のそれであるということを明白に示してあったと今は誰もが知るものであったのだが……

 あいつのことを残虐だとか、退廃だとか、そういうことをいうやつらに聞きたいことが一つある。あんたたちは生きるために鹿を撃つ狩人を、塵をあさる乞食を、灰の中で縄を綯う孤児を、あざ笑うのかと。
 もしも是と答えるのなら仕方が無い。そういう幸せなやつは足元に空いた穴におっこちるまでの間、ずうっと幸せな気分でいるがいい。非と答えた人は……想像して欲しい。10歳の子ども、親兄弟もいなければ友人の1人もいない子どもが、同じ大きさの鉛の塊よりも重たい黄金の塊を頭に載せられ、頭の上に剣を吊るされて、それを吊るす紐の端っこをつかまされたとき、どんな生き方が出来るのかどうかを。
 毎日のように目の前に引き出される大人や子ども、その残忍きわまりない罪状だの汚らわしい行いだのを耳に吹き込まれ、正義のためには彼らの首を落とせと要求される。自分のために用意された料理を食った毒見が三日にいっぺんの割合で泡を吹いて痙攣しながら死んでいく。麝香と毛皮で飾った女が毎晩だってベットで微笑み、その枕をひっくり返すと二回に一回は毒剣が隠してある。
 分かるだろうか? 20歳じゃない。10歳だ。そういう生き方をした人間が、どういう風になるか想像してみてほしい。もしも上手く想像できないのだったら、10歳の歳から剣を握らされて育った女の子がどんなにか胼胝だらけになっているかを想像してみて欲しい。

 悲劇の歌姫――― 彼女こそが歴史の犠牲者。そのように多くの史家が語っている。
 青い髪に青い鳥の羽を飾り、さる王国の王宮へと歌姫として招かれていた乙女。彼女について歴史の語るところは少ない。ただ多くの叙事詩に置いてその歌声の流麗について語られるのみである。乙女はその歌声を持って死病の床にある老王の苦しみを和らげたとも、罪深い徴税人や処刑人にその罪を悔い改めさせたとも歌われる。
 歌を紡ぎ祈りを織る。白い素足を浜辺の泡が洗い、歌鳥の羽が冠に代えてその頭を飾った。だが、乙女の定めは悪ノ王子と出あった王宮に代わった。王子は彼女の手を取り言ったという。「我が帝国が栄華のあれば汝の頭を蒼き薔薇を持って飾らん」と。

 あの人について。あたしが知ってることは…… 優しい人だったってこと。
 元は海辺の貧しい修道院の出身だったという。でも、あの時代に尼僧院が娼館の別名だったって知らなかった人なんているの? 他人の欲望を甘く啜って肥え太る女もいる。でも、同じ人から苦痛の苦い膿を吸い出してやる女だっている。あの人は、後者のほうだった。あいつにすら優しかった。初めて出会ったとき彼女は一目を隠れてあいつに言ったのだ。同じ部屋の百の百合を投じた壷の後ろに佩剣をしたあたしが隠れていたことを知りながらだ。

「閣下。わたくしは、閣下の背負っていらっしゃいます重荷の痛みが癒され、閣下の側に常に神の赦しがあらんことを祈っておりましょう」
 ……あなたの身体を痛めつけるすべての重荷が、ちょっとでも軽くなりますように。あなたが悪いことをしたときには、神様がそれを赦してくれますように。

 あれは優しさ? それとも、愚かさ?
 それからあいつは沈みがちになった。あたしが紅茶を入れてあげても、明るい歌を口ずさんでもうわのそら。そうしてある日のお茶の時間。三度の鐘がなったとき、あいつは確かにこう言った。

「リン。…俺、はじめて、ほんとに欲しいものが出来たみたいだ」

 回る回る悲劇と喜劇。巡る巡る恩讐と愛憎。
 ―――そうして、『悪ノ王子』の物語は、ほんとうの意味で始まったのだ。





別に姫は緑でもいい気がします。でも趣味によりあえて蒼。
美しければそれでいいのだ。



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