【さよならアストロノーツ】 (ミク 小林オニキス氏) なあ、ミク。 俺の夢ってさあ、実は、天文学者になることだったんだ。 「そうなんですか?」 「うん」 「でも匿さんって、星の名前はオリオン座しか分からないって聞きました」 「…近視なもんで」 大変なんですね、とちょっと首をかしげながらつぶやくミクは、たぶん、俺のいうことをほとんど理解もしていないだろう。ちょっと苦笑しながらビールを開けた。もう午前3時だった。 友人の家から、ミクが、コラボ用のSSの打ち合わせに来てくれた。電子の妖精、科学の歌姫。あわてて片付けた部屋の中で、古臭い椅子に座ったミクの前には、わざわざ買ってきたオレンジジュースと、焼き鳥のねぎまが置いてある。 ちかくの小学校で、もうすぐ鶏が鳴く。朝が近い。 「あの、わたし、歌は」 「ん、ちょっと休んでいい。というかしばらく静かにしてくれ。今いいとこだから」 「はい」 にっこりと笑って、それから、ちょっと不思議そうに部屋を見回す。友人の顔を思い出して苦笑する。音響機器といえば、中古のスピーカーくらいしかない部屋が不思議なんだろう。他にはi-PODくらいのもんだ。 「ミク、本読むか?」 「たくさんあるんですね…… オススメってありますか」 「小説と漫画どっちがいい?」 「漫画、ありませんよ」 いちおうある。ただ、本棚の格納性能をとろうと思ったら、簡単に入手できるような漫画は優先的に古本屋にいってしまうから、どうしたってごつい製本のレアな本ばっかりが残ってしまう。そう思って苦笑して、「じゃあそれ」と本棚の中の一冊に手を伸ばす。 「…”接続された女”?」 「30年位前のSF。名作。…あーでも、ミクにはいまいちかも」 「いえ、読みます。もしかしてボーカロイドのお話だったりしませんか?」 なんとなく、ミクの声がわくわくとしていた。 「聞いたことあるタイトルでしたから。機械で出来たアイドルのお話だって」 ―――。 P・バークは醜くて何一つとしてとりえのない、惨めで無様な女だった。それがあるとき、妖精のような”デルフィ”のオペレーターになる。脳をもたないバーチャルアイドルを、内側から動かすだけの黒子のような存在に。 ミクは、デルフィだ… と俺は思う。 透き通るような翠色の髪、永遠に思春期のしなやかさを失わない手足、真っ白な肌。 VOC@LOIDは心をもてない、と歌わされても、モニターを隔てた切ない恋を歌わされても、ミク自身は、あくまでバーチャルな存在にすぎない。 接続された妖精。傷つくのは”P・バーク”であって、”デルフィ”ではない。惨めな未来に傷つくのも、無様に泣き喚いて怯えるのも、俺たちであって、ミクではない。 「…匿さん?」 ミクがふいに心細げな声を出した。本を片手にもったまま、目はこちらを見ていた。無機物しか持ち得ないネオン・グリーンのひとみが、不安げにゆれる。 「どうしたんですか? …哀しいことが?」 言われて初めて、俺は、涙ぐんでいることに気付いた。 「すまん、なんでもない」 「なんでもない、ですか?」 「ああ、そうなんだ。ミクのせいじゃない」 「…そう、ですか…」 たぶん、あの”新しい歌”のせいだった。ちくしょう、と俺は思う。誰に対してか分からず、心の中だけで、ちくしょう、ちくしょう、と毒づいた。 眼鏡を外して、眼を乱暴に擦った。なのに、こすってもこすっても涙が出てくる。みじめさにまみれた精神から、膿がにじむように。 天文学者になりたかったのは、まだ5歳のころだった。星はきれいなだけだと思っていた。 算数の時点で挫折した。気付いたら教室の中で一人だった。未来は小説の中にだけあった。だが、俺はどうしても文字にはなれなかった。悲劇も、喜劇も、驚きもすべて紙の中で、俺はずっと外から見ているだけで。 いつか未来が来て、核兵器が世界中の空でダンスを踊り、何も心配しないでいい日がくると思った。さもなければ宇宙バスで月に降り立ち、クレーターの底から地球を見上げれば、何もかも開放されると思っていた。 今日分かった。この歌を聴いて分かった。そんな日はこない。たぶん、永遠に。 「…匿さん」 「うるせえな、黙れよ」 ミクは黙らなかった。そっとこちらへ歩いてきて、俺の手に、手をのせた。ミクの手はやわらかくて清潔で、そして、すこしだけひんやりしていた。妖精の手だった。 「好きな歌は、なんですか」 「知らねえよ」 「私、なんでも歌えます。誰かの作ってくれた曲なら」 「……」 「ね? 私、匿さんのために、歌ってみますから」 ミクはちょっと眼を細めて、微笑んだ。長いまつげの一本づつまで、南国の蝶のような、うつくしい翠色で。 ミクを、抱きしめたいと思った。できない俺はどうしようもない臆病者だった。それでもミクは、おおきなひとみで、じっと俺を見つめてくれていた。 「…ミク」 「はい」 俺はおおきく息を吸い込んだ。そして、吐き出した。 ミクが、かつて戦慄しながらその姿を想った"デルフィ”が、そこにいた。 「ごめん、ありがとう」 「はい……」 「歌はいいや、それよりちょっと気分転換しにいこう。近くにコンビニがあるから」 立ち上がった。ミクがびっくりしたように俺を見た。 てきとうに踏み潰したビーサンをつかみ出す。なけなしのプライドだった。俺は、紙の中にしか逃げられなかった。だったら、いまさら、他の場所になんて目移りしたりしない。 玄関でしわくちゃのシャツを羽織っていると、ミクがすこし遅れてついてきた。戸惑いながらも、すこしだけ、うれしそうな顔をしていた。 「コンビニにいって、アイスとか買うんですか?」 「たぶん。ミク、アイス好きか?」 「はい! あ、KAITOお兄さんほどじゃないですけど」 ドアを開けた。エレベーターを呼んだ。踊り場で、蛍光灯の傍に、茶色い蛾が一匹しがみついている。 「コンビニつくまでに、いろいろ聞いて欲しいんだ」 「はい…… 何をですか?」 エレベーターがつく。ドアが開く。 「SFの話。単なる宇宙船とか宇宙人とかじゃなくってさ、SFってもっとすごい世界なんだぜ。ミクのおばあちゃんとかご先祖様みたいな女の子たちも、100年前にはもうSFの中にいたんだ」 はなしをしよう… と俺は思う。 気付くと未来はもうはるか向こうじゃなくて隣にいて、しかも、なにもかも夢を見せてくれる存在じゃなくて、こちらから夢を歌わせないといけないような存在になっていた。 「ひゃく、ねん… って…」 ミクは、ちょっと不思議そうな顔をした。納得の行かない顔だった。俺は笑っている自分に気付いた。なけなしのプライドがようやく顔を出してきてくれている。 「歌詞じゃなくって現実の100年。イメージできるか?」 「…無理かもです」 「そうだろ。まぁ、道すがら聞いてくれや」 エレベーターが止まる。オートロックのドアが開く。真夏の夜、空気は冷たい。ひんやりとした空気の向こう、月が見える。 沈みかけた月が、ビルの向こうにひっかかっていた。 ミクは、ちょっとまぶしそうに眼を細めた。 見とれている俺に気付いて、振り返って、ほんの少しだけ顔をあからめる。そして口を尖らせて、「なんですか」と言った。 「お話、ですよね。私に歌っちゃダメって言ったんですもの」 すねた口調だった。俺は吹き出した。また、涙が出そうだった。 「ん、そうだな」 手を伸ばし、くしゃっと頭を撫でた。妖精の歌姫の、透き通った翠色の髪を。 ―――そしてそのとき、彼女の名前は”未来”なのだなと、俺はようやく気付いたのだった。 http://www.nicovideo.jp/watch/sm4423506 ミクの星雲賞受賞記念SSでした ←back |