「バニラの匂いがする」 「そう?」 「趣味が悪いわね。これ、ヴィヴィアンのプドワールでしょ。子どもの癖にそういう香水を選ぶコなんて、何にもしらないバカに決まってるんだから」 「嫉妬してるんだ」 「そうよ」 「嬉しいな。お姉さんが、そういう風に僕のこと考えてくれてたなんて、思ってもなかった」 「―――口が上手いわね。いいわよ、早くシャワー浴びなさい」 「なんで?」 「香水、買ってあげる」 あたしごのみのやつをね、といって、メイコがシーツの間でひらひらと手をふった。真っ赤なスカルプの色はカクテルに沈んだチェリー、たっぷりと酒の沁みこんだ苦い果実の色だ。 「あなたの色に染まれって? やだな、そういうの。だいたい香水なんてつけて学校に行けるわけないじゃない」 「あたしと会うときにつければいいでしょ。香りは人を染める力をもってるの。舐められないわよ?」 「どういうこと」 「移り香だけでも、憶えていれば、自然と趣味も身体も洗練されていくってこと」 「すごく、やらしい言い方だね」 「うっさい、マセガキ」 年上の美女のキラキラと陽気な笑い声に背中を押されるように、レンはシャワールームへと入った。大きな窓の向こうに夜景が光り、人工大理石のタブに熱い湯が溢れる。ふと思い立って、レンは、自分の手首を口元によせてみた。何の香りもしなかった。当たり前だろう。 ずっと、かぎ続けた匂いは、すぐに鼻が麻痺して分からなくなる。生ぬるい日常はすぐに輪郭が失われてしまう。だからレンは、いつも、あたらしい刺激を求める。コックをひねると熱いシャワーがあふれた。やわらかい髪の、太陽の光を紡いだような金色に、まだ少女のやわらかさを残した真っ白い肌に、熱い雫がはじける。 見る間に浴室の鏡が白く曇った。指で無意識に曇りを拭いながら、帰りたくないな、とレンは思う。まだ、夜だ。まだ帰りたくない。夜はすぐに自分の消息を不明にする。居場所が分からなくなる。無数のネオンがうそつきな灯りとなって乱舞し、子どもたちを牛乳パックのパッケージに印刷される”ロスト・チルドレン”に変えてしまう夜。 背中や腕、指に残された感触を、レンは泡立てたシャワージェルで乱暴に洗い落とした。美しいモデルの頬を思うがままに奏でる成熟した女の指も、ピアノのキィを愛撫する少女の繊細な指も、レンにとってはたいして違った意味を持たない。その一瞬、新しい刺激として得たものも、ほんの一瞬の後には不快な後味となって残るだけ。 もしも、彼女たちの愛撫とまったく同じ意味しか持たないのだったら、レンはたとえそれが有刺鉄線の棘であっても、同じように受け入れただろう。ふかぶかと皮膚に突き刺さり血潮を溢れさせるいばらであっても同じ。要するに、必要なのは刺激だ。それだけなのだ。 「ヴァニラは興奮性の植物である、って知ってる?」 「何それ。香水の宣伝文句?」 「違うわよ。マルキ・ド・サドの言葉。サディズムの語源になったあの人ね」 「ふぅん……」 無頓着に答える少年の目の前で、うるむような夜景が車の窓に通り過ぎる。レンのバックの中には、ちいさなボトルが無造作に放り込まれていた。大人びて無機質なデザインの黒いボトル。薦められたものをろくに考えもせずに受け取っただけだった。 「バニラっていうと、甘ったるいってイメージしかないけど」 「そうね、最近はね」 メイコは黒い人工皮革のハンドルを握ったまま、あっさりと受け流す。 「でも、あれは本来は媚薬として求められて、ヨーロッパの貴族に珍重されたものなの。ナツメッグとかブラックペッパーもそう」 「食べ物ばっかりじゃない」 「それにも入ってるわよ」 「……」 「ようするに、刺激がほしかった。お菓子の味付けに使うなんて変な話よね。スパイスなんて、ひとくちめは美味しいかもしれないけど、あとは苦くて不味いだけなんだから」 「理屈っぽいひとはきらいだよ」 つんと横を向く少年に、メイコは声を出さずに笑った。艶のある臙脂色のブラウスの胸が、どこか猫科の猛獣めいてしなやかに動く。 「まぁね、あんたが正しいかも。昔は奴隷を何人犠牲にしても欲しがっていたスパイスが、今じゃ子どものおやつだもん」 「ケーキとか、アイスとかね」 「今に、マリファナとかLSDとかも子どもの玩具になるんじゃない? …さあ、ついたわよ」 車を止めたのはマンションの前。オートロックの高級なマンションだが、いささか郊外で交通の便がよくない。メイコは隣のレンの鼻先にキスをすると、さほど視力が悪くもないのに、マスクのように身につけているメガネをかけてやる。 「それ使ってね。腰の辺りにつけるだけだったら、きっと、誰も気付かないわ」 「それってなんか意味あるの?」 「脱いだら気付くわ。あんたと、あと、あんたの膚をみた人間だけ分かるってこと」 「所有権を主張したい、ってことなんだ」 「そうよ。女ってのは、いくつでも野蛮で執念深いんだから。興味あるものは大事にするけど、そうじゃないものは知らないふりでポイしちゃう」 「つまり、生まれつきバカってことなんだ。ふぅん」 「あんたってほんとにおバカさんね、レン」 生意気なことを口先で言っても、それは所詮、ただの小手先のゲームに過ぎない。駅で電車を待つ間に携帯電話であそぶリバーシのようなもの。レンはメイコにかるくキスをする。子猫のようなピンク色の唇が、ポピーレッドの唇をかるく舐め、そして、離れた。 「憶えときなさいよ」 メイコは車の窓を閉める。その刹那、琥珀色の目が、山猫のようにひかった気がした。 「どんな刺激も馴れたら終わりよ。ずっと、頼ってられるもんじゃないんだから」 ひらりと指をふって、黒い宝石のような車を見送った。そしてレンはため息をついて口元を拳で擦ると、バックを背負いなおし、オートロックのパスワードを入力する。今の時間なら母親が帰っていたとしてもすでに眠っているはず、見知らぬ男がベットルームにいたとしても、知らぬ顔でドアの前を通り過ぎればいいだけだ。 メイコから受け取ったボトルをそのままエントランスのゴミ箱に棄てようか、と一瞬思った。けれどそれでは駆け引きの材料を失うと気付いてすぐにやめた。しらない女に貰った香水を付けていったら、ピュアな少女はどんな顔をするだろう。哀しそうな顔をするだけか、それとも、あの人魚のような小さく白い歯で、皮膚ごと香りをこそげおとそうとするのか。 ばかげた空中ブランコまがいをしていることを、自覚はしていた。人間が堕落していく典型的なパターンだろう。バスタブの底の栓を抜いたときにできる小さな渦を、レンはふと思い浮かべた。透明だった水も、細い金色の髪も、すべてが下水に吸い込まれて消えていく。だが、その渦はレン一人を翻弄するのではなく、周りの全ても巻き込んで、一緒に暗い水の底へと葬り去るのだ。 ドアを開ける。灯りはひとつも付いていなかった。母親の靴がないことを確認し、安堵の息をついている自分に気付き、レンはひどく苦々しい気持ちになった。これじゃ子どもだ。それも、まだ母親のスカートの裾をさがして、ショッピングモールの中で泣き喚いているくらいの子ども…… 自分の部屋のドアを開ける前に、ふと、姉の部屋のドアがすこしあいていることに気付いた。無用心だな。レンはやれやれと苦笑をもらした。 音を立てないようにドアを押して、中をちょっと覗いてみた。レンと同じ顔をした双子の姉。無邪気な彼女は、子どもっぽいパイル地のパジャマを着て、静かな寝息をたてていた。それだけを確認してドアを閉じようとして、ふと、フックから滑り落ちた白いリボンが床に落ちたのに気付いた。つくづく、無防備だ。レンは少し笑ってリボンを拾った。 姉は、リンは、何も知らない。気付いていない。がさつで無神経で、あどけなく無邪気な姉は、レンにとってはクッキーの缶に印刷された羽のある 子どもに似た存在だった。つまりは、天使だ。何もしらないだろうリンのことを思ったときだけ、ふと、心を駆り立てる渇きのようなものが薄まるのを感じる。 部屋に戻り、ベットへと倒れこんだ。横目で時計を見た。デジタル時計とスチールラックだけの置かれた優等生の部屋。時間は明け方近くだ。眠くなんてならなかった。ひとりぼっちで、眠れるはずなんてない。 レンは半ば無意識に、手にしたリボンを指に巻きつけ、また、ほどいた。あとで洗濯機に放り込んでおいてやろう。やわらかいコットンの感覚が指をなだめてくれた。やわらかさ、素朴さ、あたたかさ。レンの記憶に、このリボンから連想されるほかにおぼえのない記憶。 だが、なかば無意識にリボンを巻きつけた手を口元へと寄せた瞬間、レンの目が、見開かれた。甘い香りがした。 香水の、匂い? 甘い匂いだった。焼きたてのクッキーのような、ひとさじのアイスクリームのような。 けれど、レンの頭をよぎったのは、その素朴な甘さとは相容れないように思える、皮肉のような、愛撫のような、言葉だった。 ”ヴァニラは興奮性の植物である”。 「……リン?」 レンの指がゆるんだ。白いリボンは逃げるようにその指をすりぬけ、音も立てずに、床に、落ちた。 【SPICE!】:http://www.nicovideo.jp/watch/sm2528674 ゆとりとか腐女子とかいろいろ言われてますが、私は【Nico Says】を思い出しました。ヤンデレでおにいちゃんに依存しまくっている、「精神年齢が3歳くらいの女の子」である女の子、ニコのお話。ニコは小学生のときに母の愛人から性的虐待を受けたことが原因で、「わたしのこと好き?」という言葉に中毒するように実兄月人へと依存し、身体の関係までもってしまいます。でもそんな関係がずっと続くはずもなく…… こんなんですが、今からもう10年くらい前の作品なんですぜ。 ←back |