【鬼と娘】
(カイミク)




 ミク、どこへ行くの、と声が聞こえた。お姉さんがわたしを探していた。わたしは慌てて走り出す。何も見えない闇の中、まっすぐに。
 頬に秋の光があたるのを感じる。足元でやわらかく積もった落ち葉が砕ける。頬をなでる、すすきの穂のようにやわらかい秋の風。昼なのに最期をいっしょうけんめいに歌う虫の音。
 今は、昼間なんだろう。きっとそう。空気の匂いだけでも分かった。走るのは無理が多すぎる。わたしはお姉さんの目から逃れただろうと思ったあたりで足を緩めた。手探りにあたりを探ると、ごつごつとした古い梅の幹が手に触れた。

 ―――あ、杖を忘れてる。

 杖がなくては、誰からも手を取ってもらえなければ、わたし、ひとりでは満足に歩くこともできない。昔だったらここで諦めてしゃがみこんでいたことだろう。そうすれば、きっと誰かがわたしを見つけてくれたから。
 この村のひとたちはみんなわたしに親切。おかあさんはいないけれど、働き者のおねえさんと、村でいちばんおおきな屋敷。
 生糸(すずし)を商うこのあたりのひとたちにとって、上質な蚕の仔を親切にあきなうわたしの家のひとたちは、とてもありがたい恩人なのだと聞いたから。だから、村の皆もわたしに優しくしてくれる。おさないころの眼病で、明るさ暗さくらいしか満足に見分けることの出来ないわたしにも。

 ―――でも、今日は歩こう。あのひと、きっとわたしを待っているもの。

 わたしは手探りで、近くにはえていた枯れ草…… きっと葦か何かだろう…… を折り取った。そろそろと目の前を探りながら歩き出す。香ばしい秋の空気、畑を渡ってきた風の香り、そして、やわらかく湿った落ち葉の探った道を、注意深く探りながら。

 あのひとがこの村のはずれに住む、と聞いたのはいつだっただろう。おそらくは炉辺に休む旅商人か誰かの無駄話のたぐいだったはず。
 ……この村の奥の朽ちかけた庵に、鬼が一匹、棲みついている。
 鬼の姿はそれはおそろしく、見たもの誰もが恐れて逃げ出すということ。闇に隠れてそぞろあるき、月の夜には水月をこうて哀しい声で啼く声は、それは蕭々として物寂しいばかりという。
 そのように恐ろしいものがいて、蚕が怯えて糸を吐かなくなってはいけない。追い払ってしまってはどうです。そのように忠言めかして言う商人に、けれど、お姉さんはしばらく考えてから、こう答えた。
「その鬼は、人を取って喰ったり、何か悪行をするということなの?」
 そんな話は聞かないが… と商人は口ごもった。お姉さんは少し笑いまじりに、「なら、ほうっておきましょ」と答えた。
「都のほうでは疱瘡避けに鬼をわざわざ瓦に焼いたりするともいうし、生きてる鬼だったらなおさらご利益もあるでしょう。悪いことをしないのなら放っておくわ… それに」
 鬼というのが美しい声で歌うなら、聞いてみたいものだしね、とお姉さんはごくなにげなく言った。
 そのときだったのだ。わたしが、その、美しい歌を歌うという鬼に興味を持ったのは。


 細い踏み分け道、獣道は、足元の暗いわたしには歩くのが辛い。けれど、しっかりと足にくくりつけたわらじで、一歩一歩を踏みしめながら坂を上っていく。つーい、つーい、と頭上で百舌が鳴いていた。
 そして、やがて。
「初音?」
 ふいに、声がした。わたしは思わず笑みこぼれる。
「こんにちは、青鬼さん」
 駆け出す。無茶は分かってた。当然のように転びかける私を、しなやかな腕が抱きとめてくれる。潮の香りが強く香った。
「どうしたんだい、杖も持たずに」
「忘れてきちゃったんです。でも、あなたに会いたくって」
「それは……」
「あの、お土産も持ってきたんです。商人の人がたくさんくるから、朴葉味噌が厨につくってあったから。ここだと塩気も得がたいでしょう?」
 少しとまどう気配がして、それから、笑みこぼれる気配がした。
「しかたないな」
 そういって、頭を撫でてくれる。その手はとても大きくて、あたたか。
「転んでしまうといけないから、あがるといい。すぐに竹を切って杖にしてあげるよ」
 わたしは、顔一杯に笑みが浮かぶのを感じた。「はい!」といって、勢いよく頷いた。

 つい、つーい、と遠くに百舌の声。鬼さんがわたしのために鉈で竹を払ってくれた。そうして、それからもカリカリと小さな音がする。竹を削って何かをつくっているみたいだった。いい香りがした。
「鬼さん、鬼さん」
「なんだい」
「何を作っているんです?」
「笛だよ」
 手が、わたしの手に触れる。まるでひ弱い鳥の雛をあつかうように慎重に、わたしの指に、笛の形をさぐらせてくれる。
「呼子笛。これを吹いて、小鳥を集めるんだよ」
「鳥…… 鹿じゃなくて、鳥ですか?」
「ああ。さえずりを真似ると、仲間だと思って集まってくるんだ」
 鬼さんは、笛を吹いたようだった。まだ空気の漏れる音のほうが強かった。ヒューイ、ヒューイ、とかすれた音がする。
「…と、言っても、ずいぶん作ってないからな。ダメだこりゃ」
 はは、と鬼さんが笑った。長閑なやさしい笑い声だった。
 ―――わたしは、はじめて鬼さんと出会ったとき、たしかに彼に助けてもらったのだ。
 傷に蓬をあてて手当てをしてくれた。足の利かない私を里まで抱いてつれていってくれた。そして、そのときに言われた。俺は人ではないのだから、二度と会いに来てはいけないよ、と。
 角を、爪を、触らせてもらったのは、二回目に会ったとき。そのとき私は、彼のひとみは胆礬(たんばん)のように青く、肌も、髪も、ひとならぬ様子をしているのだと聞いた。だから会いにきてはいけないと、ふたたび、きつく戒められて。

 ……けれど、わたしは、何度でも会いにきてしまう。
 ……彼に、わたしの鬼さんに、会うために。

「ねえ、鬼さん」
「ん?」
「来し方にね、はしばみを踏んだ気がするんです。あとかやの実も」
「ン……」
「この頃には山にはめくらぶどうが実るそうです。さるなしの実やあけびも美味しいんですよ。あんまりたくさん勝手にとると怒られるけど。だから……」
「初音」
 くちびるに、指があてられた。胸の中で鼓動が跳ねた。
 尖った爪。人間のものとは形の違う、指。
「俺をみたら、里の人間はきっと怖がるよ。だから、皆が木の実を摘むようなところに降りていくわけにはいかないよ」
「……」
 何も、いえなくなる。
 きっと、鬼さんの言うとおりなのだろう。でもほんとうなのは【怖がる】というところじゃない。【怖がる】そのあとに、どうするか、ということ。
 石で打つのか、鍬や鎌で脅すのか。鬼さんの肩には、盛り上がった傷跡がある。誰か心無い人がこの優しい人を刀で打ったのかと思うと、とてもたまらない気持ちになる。
「だったら、わたしが、持ってきます」
「初音……」
「摘んでもらった分をわけてもらって、籠にせおって持ってきます。迎えに来てくれますよね? わたし、そんなものを背負ってたら、匂いによってきた山猿にいじわるされるかもしれません」
 必死で私が言うと、やがて、鬼さんがすこし笑う気配がした。「そうだね」と言って、そっと頭を撫でてくれる。
 大きな手。人間のものではない手。山猫のような爪、長い指。けれど、あたたかくて、とても優しい。
 ふと、鬼さんが立ち上がる気配がした。近くの枝から何かをもいでいるようだった。そして、私に手渡してくれる。手の中で割ってくれる。小さくてみずみずしい粒。
「柘榴が実を残していたんだ。秋柘榴なのかな。初音なら、食べるかと思って」
 不器用な言い方が、とても、嬉しい。
 わたしは、頬が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
 鬼さんは笑ってるみたいだった。私の隣で、無邪気に笑う顔が、見えるみたいな気がした。
「ふ、笛、まだ吹けませんか」
「うん? そうだね、もう一日もかかるかな」
「そっか…… あの、だったら」
 歌ってくれませんか、と私は言った。
「わたしが、柘榴をたべてる間に、歌をうたってくれませんか?」
「……」
 鬼さんは黙った。その沈黙に胸が張り裂けそうになる。嫌だ、と言われたらどうしよう。もう来るな、といわれるのは平気だった。でも、嫌いといわれるのは、なによりも怖い。
 けれど。
「そうだね」
 答えてくれたのは、あの、ふわりと暖かい声だった。
「なにがいい?」
「あの、あの歌がいいです。雪明り、ほのかに……」
 わたしのつたない声を聞いて、やわらかい声が、それに、旋律を乗せてくれた。

「雪明りほのかに 月の影を照らす
 花びらが鮮やかに赤く色づく
 舞い落ちる雫が水面揺らし消える
 音の無いぬくもりが二人包んで…」

 あたたかい、切ない、やさしい、恋しい。
 胸がいろいろな気持ちでいっぱいになって、わたしは、秋の芳しい空気を胸にいっぱいに吸い込むように、鬼さんの優しい歌声に、じっと耳を澄ました。

「初音が、俺の歌を喜んでくれるのが、うれしいな」
 歌い終わって、鬼さんは、ぽつりと言った。
「もうずっと、俺の歌を傍で聞いてくれる人なんて、いなかったから」
 声に寂しさが滲んでいた…… わたしは何かをいいかけた。そのとき、うっかり、膝からころりと柘榴がころげる。小さなつぶが二つの手のあいだでつぶれる。
「あ、すいません。鬼さんの、衣が……」
「いいよ、大丈夫。それに”鬼さん”じゃない」
 わたしは、はっと眼を上げた。
 声が、柔らかく、笑みを含んでいた。
「前から言ってただろ。俺の名前はなんなのかって」
 かいと、と彼は、私の大事なひとは、いった。
「こういう字を書くんだ。俺の名前は、かいと。海から来たから」
 掌に、指で、字を書いてくれる。わたしはとっさに、その指をきゅっと掴んでいた。彼は驚いて手をひきかけた。けれど。
「かいと、さん」
 わたしは、ゆっくりとその手を、わたしの両手で包み込む。胸に押し当てる。
 涙がでそうな気がした。哀しいからじゃない。嬉しいからだった。
「かいと、さん。……わたしの、かいとさん」
「初音……」
 見えないこの目は、役立たずなんかじゃない。ちゃんと涙を流してくれた。わたしの気持ちを、あふれ、こぼれさせてくれる。
 生まれて初めて好きになった人の手は、人間ではないかたちをしていた。それでも良かった。それでこそ愛しかった。
 わたしは”かいとさん”の手をずっと胸に押し当てて、ほろほろと、自分でも理由の分からない涙を流し続けた。なぜだか分からなかった。けれど涙は、とても、あたたかだった。





《鬼と娘》 http://www.nicovideo.jp/watch/sm3760839

おとぎ話、幸せな話。
鬼と人の娘、という話は実は中世日本の説話などだとよく有る話であるので、もしかしたら二人はこのまま幸せになれたのかもしれない、と思われます。思いたい。
でも、鬼というからにはKAITO兄さんは人間とぜんぜん違う姿をしていたんじゃないですかね。だから盲目のミクだけが素直に兄さんを好きになれたんじゃないだろうか… と思って中世日本風カイミク。



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