/佐和山の狐憑き
徒手空拳、だった。
「どうした、竹千代」
目の前に立った佐吉は、肩を低く落とした姿勢で笑う。哂う、と言った方が良いのだろうか。その声の低さに、家康は確かに怯んだ。
「仕掛けないのか。……私から、仕掛けろという意味か?」
「う…… うむ」
家康は慌てて精神を集中させようとする。硬く布を巻いた拳を引き寄せ、構えを取る。が、その構えの目の前の佐吉と違うこと。
片足を半歩前に、両方の拳を胸元に。地面を強く踏みしめ、重心を低く落とす。大柄とはいえない、けれど屈強で筋肉質な己の体にあわせ、多少の工夫を加えた拳術の構えだ。目の前の相手がどんな方向からかかってきても、体を半身にして交わし、拳で返すことができる。間違っていない。そのはず。けれど。
(あの構えは何なんだ?)
目の前の佐吉の構えが、家康をひどく混乱させる。異形だ。両腕をだらりと垂らし、背中を猫のように丸めている。銀の霜のような前髪の間から、何時にも増して爛々と光る双眸が覗く。まるで白刃を携えた居合い抜刀術の遣い手を目の前にしたよう。違う。なぜなら佐吉は今、寸鉄すらも身に帯びては居ないのに。
「では」
こんなことではいけない! 家康は慌てて、己の迷いを振り払う。佐吉は、居合い抜きの達人だった。その佐吉が素手での組み手に付き合ってくれるという。その真意は分からない。けれど、こんな機会はまたとない。無駄にしてはいけない。家康は奥歯をぐっとかみ締め、踏みしめた足に体重を込めた。
「―――御免!」
狙いは、真正面。
佐吉に防御はない。真正面から、ぶちやぶる。
そう思って家康が一打を打ち込んだ瞬間、目の前の影が、ゆらり、揺らいだ。
「!?」
「遅、」
大振りに、振りかぶられる腕。
「いッ!」
「!!」
額が触れ合いそうな目の前に、爛々と光る金の双眸。
確かに間合いはあった。数歩は離れていた! なのに、踏み込んだ瞬間に、お互いの息が触れそうな距離に、佐吉の体。一瞬にして詰められた距離。何が起こったのか分からないまま、とっさに胸元を腕でかばったのは経験の賜物か。シュッ、と鋭い熱が腕に走る。
赤いものが飛沫いた。
「な」
とっさに退く数歩。肩を半ば無理やりにひねるようにして、距離をとるのが精一杯。ぐっと歯を食いしばり、思い切り顎を引く。―――『耐心磐石』!
目の前にもぐりこんだ先地に向かって渾身の頭突きを打ち込もうとした瞬間、また、逃げ水が避けるように、銀の陽炎がスッと遠ざかる。外した。だがこれは想定の範囲内だ。とっさに拳を引き戻し、そのまま横に飛びのくようにして距離をとる。一瞬の目線で確認する。信じられない思いをする。急所をかばった腕に走った4筋の傷――― 真紅にぱっくりと裂けた傷跡。
「逃げる気か、竹千代」
佐吉が、低い声でささやく。その声に隠し切れない興奮と歓喜が滲む。その左手の指が、赤く染まっている。間違いない、と家康は信じられないままに思う。この傷は、掻き傷。
佐吉の爪が、この腕を、獣のように切り裂いた。
「信じ、られん……」
家康は呻いた。こんな戦い方など、知らない。今の佐吉は、まるで獣だ。鋭い爪を立てて木陰から飛び掛り、一撃のもとに兎を殺す狐。
声もなく、佐吉は哂う。雪白の肌と、色の薄いくちびる。薄いくちびるが傷口のように哂い、真っ赤な色が内側に覗ける。野蛮で、猥褻。『殺す』ことへの純粋な意志と欲望。全身の産毛がそそけだつ。恐怖だけではないその感情の正体は、今だ、家康にとっては未知のものだった。
「たけちよォ」
その、一瞬の驚愕を、他の何と見誤ったのか。
その煌びやかな野蛮が、一瞬にして、氷点下に凍る。来る! 家康がとっさに防御の構えを取ることが出来たのは、もはや武人としての本能としかいいようがなかった。半身をおろして避けるのではなく、両腕を交差させて己をかばった。次の瞬間、その腕に、灼熱した熱が走る。
ごり、という鈍い音。
「ぐ、うッ!」
飛び掛ってきた体。軽い。唯一の僥倖。家康は全身の力を込めて、飛び掛ってきた獣を振り払った。とっさに掴み、勢いを殺さないままで投げにはいる。肩から掴んだ腕を、そのまま地面に叩きつける!
「―――ッ!?」
ぱぁん、という確かな手ごたえが、腕に伝わった。
投げ飛ばされた佐吉は、そのまままともに肩から地面に突っ込む。受身を取っていない。とっさに家康は、そのまま追撃を見舞おうとした。無防備な胸。そこを、拳で叩き割る―――
「そこまで!」
その瞬間を、凛、とした声が断ち切った。
わずか、紙一重の距離。二人は動きを止める。家康はそのまま全身の力を込めて佐吉の胸を叩き砕こうとしていた腕を、佐吉のほうは猫のように全身を縮め、殴りかかってくる家康へとかじりつこうとしていた構えを。道場の入り口に、ほっそりとした銀色の影が立っている。半兵衛だ。いつも細剣でそうやる仕草のように、ぱしん、と利き手の扇でもう片方の掌をたたく。その表情には笑みがある。
「二人とも、本気が過ぎる。まずは家康君の一本だよ、佐吉」
「半兵衛、さま……」
「家康君も拳を引くんだ。それにしても、まあ」
半兵衛は二人を見て、苦笑する。
「ひどい姿だね。道場稽古って姿じゃないよ」
家康は、ぐいと横柄に腕をおされるのを感じる。あわてて拳を引くと、佐吉はひどく決まりの悪そうな顔で起き上がる。片手で口元をぬぐうと、その手が真っ赤になる。佐吉の顔は血まみれだ。家康の血だった。
「まあ、ともかく、家康君は手当てを」
それに佐吉、と半兵衛はたしなめる口調で言う。
「『それ』は辞めろと言ったはずだよ。もっと、『人間らしくしろ』、と言ったのを憶えていないのかい」
「申し訳、ありません……」
しょんぼりと肩を小さくする。もう、佐吉はちゃんと、『人間』に見える。我に返ったとたん、急に痛みがこみ上げてきた。家康は己の腕を見る。思わずうめき声を上げる。片腕には深々と切り裂かれた四筋の爪跡。そしてもう片腕からは、ごっそりと一口分、かじり取られた肉が生々しい桃色の断面を見せていた。
太閤秀吉の秘蔵っ子、佐和山の佐吉は狐憑きである。
そんな噂を家康は耳にしたことがある。
「今日のことで、信じた?」
珍しく、今日の家康の傷を手当てしてくれたのは、半兵衛その人だった。汲んだばかりの水で傷を清め、焼酎で洗い、炭火で針を焼く。傷口を縫われるのはぞっとしない。家康はもろ肌脱ぎになったまま、こわばった顔で半兵衛の手元を眺めている。
「狐憑き、ですか……」
「そう。実はこんな話もある。狐憑きと親しく付き合っていた、大谷刑部という男がいる。この男を酒の席で口さがなく嘲笑った男が居た」
半兵衛は家康の腕を取り、膝に乗せる。家康は思わず顔をゆがめ、顔を背ける。
「この男、その場だと何事もなく放言をしただけだった。でも同席した同僚の一人がこう言った。大谷刑部は不気味な男だ、あまりおかしなことを言うと呪われるかもしれない…… 痛いかい、家康君?」
「ッ、早う、終わらせてくれッ」
「あぁ、痛いんだ。ごめんね。……で、その男の結末だけど。後日果し合いに呼ばれたといわれて脇差を一本差して出て行ったのが、それきり戻ってこなかった」
ぷつん、と半兵衛が糸を切る。家康は思わず息を吐く。すぐに布を巻いてくれたから、傷跡は見ないで済んだ。よかった、と思う。まともに見ていたら、貧血を起こしていたかもしれない。それこそ武士の名折れである。
「マトモに戻ってこなかった? そいつはどういう意味なん…… なんですか?」
「翌日、死体で見つかったからさ。正体は分からないが、何かに喉笛を食いちぎられていたらしい」
思わず背中が冷たくなる。
「僕も流石に肝を冷やしたよ。さすがに、あの子が刃物の一つも持たずに、大人の武将一人を倒して帰ってくるなんて」
「じゃあ、佐吉が食い殺し……? そんな、バカな」
「おや、君が言うの。たった今、佐吉と果し合いをした君が?」
家康は黙り込んだ。
あれは確かに異様だった、と家康は思う。いくら篭手を身に付けていなかったとはいえ、ある程度は弾力も強度もあるはずの人間の肌を簡単に掻ききった爪の一撃。そして肉を食いちぎられるあの感覚。
「佐吉に刀を持たせたのはね、秀吉だよ」
半兵衛は淡々とした口調で言いながら、血まみれになった布、糸や針、湯を沸かした盥などを片付けていく。
「刀を持った侍が人を殺す。まぁ、これは普通のことだよね。佐吉なら居合いに向くだろう、そう言ったのも秀吉。抜刀術は精神を研ぎ澄ます必要があるから、動物的な反射神経を生かしながら、戦の中でも冷静でいる精神を養えるって訳だ」
まぁ成功しているかどうかはわからないけれど…… 言いながら半兵衛は、家康のほうを見る。
「君はどう思う、家康くん?」
「何が…… ですか?」
「佐吉は、狐憑きだって思う?」
家康は己の腕を見下ろし、しばし、考え込む。
やがて。
「いえ」
家康は、首を横に振った。
「素手で戦うのはワシも同じ。徒手空拳でも人は殺せると言うことを、ワシは誰よりも知っておるつもりです。佐吉も同じ…… たぶん、それだけのことなんだと思います」
半兵衛は、驚いたような顔をした。
それから、すこし笑う。半兵衛どのの、こんなにやわらかい笑みは見たことがない、と家康は思う。手を伸ばした半兵衛が、家康の頭に触れる。そのまま髪をなでられて、家康は思わず目を丸くした。
「君は、いい子だね」
半兵衛は、かみ締めるように呟く。自分に言い聞かせているかのような口調だった。
「……この世の中の皆が皆、君のようだったら、よかったのかも知れないな……」
【終われ】
素手ゴロのみったんを想像したらものすごく怖かった、というだけのお話
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