/ひとりぼっちのかくれんぼ




 もういいかい。
 まあだだよ。




 徳川家康の影武者説、という俗説がある。

 江戸幕府の開祖である徳川家康が、松平広忠の長男であり幼名を竹千代と名乗った人物…… つまり本来の『徳川家康』……とは異なった人物であり、二人の家康は人生のどこかの地点で入れ替わっているのではないか、という俗説である。
 無論、歴史的、資料的な根拠は薄い。そもそも、どの時点で【徳川家康】が入れ替わったのか、という点からしてさまざまな説がある。信じるべき価値は薄い。それでも私がこの説を論文にしようと心に決めたのは、高校の頃、修学旅行で行った日光東照宮で味わった違和感が、今も胸に引っかかっていたからなのだと思う。
 日光東照宮では、元和2年…… 西暦だと1616年、関が原の合戦のちょうど16年後だ…… に徳川家康を神君として合祀した。神号は東照大権現。つまり、あの場所には神格化された『徳川家康』が、神として葬られているということになる。
 しかし、当時高校生だった私が東照宮へ足を踏み入れたとき、感じたものは、『違う』という強烈な否定の感覚だった。

 ここは、違う。
 ここには、あの方は、いない。
 
 あの方とは誰だ? 徳川家康公だ。では、何故私はそこまで徳川家康公に拘る? これは、私自身にもよく分からない。
 その理由を求めて大学では日本史を専攻することとなり、私は日々全国各地の旧跡を歩き回り、各地に保管された古文書を読み漁ることで四年間を過ごした。
 何故だか私の目は読み難い草書体によく馴染んだ。しかも私は連日古文書に取り組み続けても音を上げない忍耐と、どんなに足場の悪い山奥の旧跡でも平気で歩き回ることができる体力があった。おかげで教授に気に入られることが出来、助手としてあちらこちらへと全国へ調査に行くことができるようになった。
 だが、史学研究というものは、探ろうとする歴史の真相に向かい、時をさかのぼるほどに奥が深い。ほんの数年で成果が得られるはずが無い。そもそも私は、自分が何を探しているのかすら、明確に理解できていなかったのだ。
 あの日、日光で抱いた違和感の正体は定かにならないまま、私の日々は過ぎていった。

 そして、そんなある冬のことだ。

「急な話ですまん。突然じゃけど、おもしろいものが見つかったらしいけん、オイと一緒に来てくれんね?」
 大学が休みの時期に入り、実家に戻っていた私へと急に入ってきた教授からの連絡。話を詳しく聞くと、以前、江戸初期の古文書を参考にさせてもらったことのある地方の寺から、急な連絡が入ったのだという。
「山奥で何か、遺跡みたいなモンが見つかったらしいんよ。だけん、危険やけ早急に撤去するゆう話が出てるらしいけん、今のうちに見ておかんといけんーち言いよう」
 わかりました、すぐ行きます。その寺の名前を聞いた瞬間、私はもう、その場所へ行くための方法を頭の中でシミュレートしていた。何か、奇妙な予感があった。そういえば、今までさんざん回った寺社や旧家の中でも、あの場所は何故か強い印象を残していた。何故だろう?
 出かけてくる、と家にあつまっていた親族へあわただしく伝えると、私は、そのまま家を飛び出した。
 駅で待ち合わせた教授と特急列車に乗って3時間、さらに下車駅でレンタカーを借りて一時間。
 山深い小さな集落は、今では無人の家の方がずっと多い。今の季節はうっすらと雪もつもり、裸になった木々が寒々と梢をさらす。そんな中、件の寺の住職を尋ねると、「山奥で地すべりがありまして」と困惑顔で言う。
「はァ、たいした規模のものじゃなかったんですが、ご神木がそのせいで傾いてしまって。大銀杏なんですが、なにしろ古木なもので、中がうつろになっていたらしいんです」
「ははァ、そん中から何か出てきおったと?」
 石碑か何か出よったんか、と教授が聞くと、住職は言葉がみつからない様子で首をひねる。
「いや、石碑とかなら良かったんですが…… 私どもじゃどう判断していいのか分かりかねまして。それで、木が完全に倒れてしまう前に、まずは学者先生に見てもらうのがよかろうかと」
 どう、判断していいか?
 私と教授は、顔を見合わせた。そこに、「しかも」と住職が言葉を加える。
「銀杏が…… あれは木でも狂い咲きと言うんでしょうかね」
 金色なんですよ、と住職は言った。
「今、この冬の真ん中に、銀杏が、紅葉しているんです」
 あんな金色は、と続けられる言葉に、私は、奇妙な胸騒ぎを覚える。
「―――あんな見事な金色に染まった銀杏なんて、私はいままで、一度も見たことがありません」

 既に、樹齢数百年は間違いないだろう、銀杏の古木。
 裸になった木々の間、うっすらと積もった雪の上で。私と教授は案内されて上った山の中腹で、思わず呆然と足を止めた。寒々しい木々の梢を縫って――― まばゆいばかりの色に染まった、金無垢の盛り。
「これは…… すごか」
 唖然と口を開いた教授と、その隣で頷く地元の住人。だが教授はすぐに我に返ったらしい。私のほうを振り返って、
「あっこから先は地盤がゆるんでるけん、今は行かれ…… ちょ、おい!?」
 教授の声が、頭に入らない。
 私は、自分で考えるよりも先に、走り出していた。
 足元で熊笹が音を立てる。雪が、音を立てて落ちる。その上に、はらはらと散る銀杏の葉。鮮やかな黄色、否、金色。
 
 ……つ

 …だか……

 枝から気根の垂れ下がった乳銀杏の幹は、何本もの幹をよじりあわせたように、太く、そして無骨に、変形している。裂けた幹の隙間から見えるのはおおきな洞。普通の人間ならば、数人でも詰め込めるだろう。あれだけ大きければ、私でも入れる。―――違う、私は普通の人間だ。普通の人間が入れる場所ならば、私が入れるのは当たり前のことだ。けれど。
 白い息を吐きながら、笹を掴み、必死で斜面をよじ登る。後ろで教授や、案内をしてくれた人が叫んでいる。危ない、引き返せ、どうしたんだ、……聴こえない。私に聞こえるのは、あの方の声だけ。
 
 ……かつ。

 た……つ
 
 ねじれ、枝が落ち、おおきくたわんだ銀杏の幹。
 中に何かが見える。錆だらけに朽ちかけた『何か』が。私は、必死で銀杏の幹を掻き毟った。朽ち欠けた木がぼろぼろと手元から崩れる。頭上から降る金色の木の葉。
 そうだ、憶えている。
 この金色。欝金で染め上げた戦装束のあざやかな黄。明滅する最期の意識の中で、このあざやかな欝金の色を見つけたということ。途切れていく意識。残るものはただ哀しみ。もうぬくもりのない、手の中の感触。渡すものか。護る。最期まで護る。そう誓った。それが私の存在する理由だった。私はあなたを護ると誓った。なのに、護ることが出来たのは身体だけだった。心は、護れなかった。なのに最期は、その命まで。
「……ッ!!」
 みしり、と音を立てて、私の指が、銀杏の幹に食い込んだ。
 背後から、どよめきが聞こえた。私は己でも信じられない膂力で、力任せに、時が降ろした封印をこじ開ける。両腕の筋肉が膨れ上がる。今まで一度も感じたことが無い力が漲るのを感じる。めりめりと音を立てて、銀杏の幹が裂けていく。やがて音を立て、戸板ほどもある大きな片が剥がれ落ちた。どう、という音と共に、頭上から欝金の葉が舞い散る。
 あたたかく湿った土の匂い。
 木の匂い。
 私は、目を見開いて、立ち尽くす。

 そこに、【私】がいた。

 




  護れなかった。
  竹千代様を、護れなかった。
  身体も、心も、魂も、

  ―――命も。

  それでも私は、竹千代様と共にあることしか出来ない。
  もはや槍は折れ、この身体は壊れ、幾ばくほども永らえる命ではない。
  
  それならば、お傍に。
  竹千代様。忠勝めは、忠勝めだけは、何があっても、貴方の傍に居る。
  
  さぞ、お辛かったでしょう。お苦しかったでしょう。もう休んでも良いのです。心煩わなくても良い。
  どうぞ休まれてください。忠勝めが、傍におります。
  嗚呼、あれは銀杏か。なんときれいな紅葉だ。あそこがいい。あそこで、休もう。
 
  もう動けない。大丈夫、ここならば良い。誰も来ない。ただ銀杏が散るだけ。
  目が見えない。たいせつに抱いたまま、崩れ落ちるように座り込む。銀杏のうろにもぐりこむようにして。
  竹千代様、と呼んでも。応えはない。哀しい。憎しみも怒りも、もう感じない。ただひたすらに、哀しいだけ。それと、ほんのわずかばかりの安堵。
  そうだ。竹千代様は、もう泣かないで良い。哀しいときに、あんな風に笑わなくてもいいんだ。

  ご覧なされ、竹千代様。見事な、銀杏にござりますぞ。
  竹千代様に、似合う、色だ―――






「忠勝どん!!」
 立ち尽くしていた私の肩を、分厚く大きな掌が、強く引いた。怒号が耳に響く。教授。
「なんばとっとね! いくらなんでも危なか……」
 私を怒鳴りつけようとして、けれど肩越しに、銀杏の中に隠されていたものを見る。教授の声が途切れ、目が大きく見開かれる。呆然と見つめる。銀杏の幹の中に、年月の末、うずもれていたものを。
 それは、総鉄の甲冑に身を包んだ、大武者のようなもの。
 糸の切れた数珠が、膝や、足元に、転がっていた。一面に錆を吹いた身体は、一部はすでにぼろぼろに腐食して見る影も無い。膝に、腹に、埋め込まれた大きな珠。鹿角の前立て。
 とても、並みの人間とは思えないサイズの鎧だった。おそらくは、もう何百年も前に、当時すでに巨木となっていた銀杏の中へもぐりこみ、そこで事切れたのだろう。やがて垂れ下がった気根が大武者の上にも垂れ下がり、その身体を幹の中に封じていったのだ。この大銀杏の、孕みだしたような幹の形。その原因は、内側で眠っていた、この大武者だったのだ。
「なんね…… これは」
 教授の声が、震えていた。
「こがぁなもん、見たことも、聞いたこともなか」
 私は、【私】を見つめる。
 400年の時に錆はて、朽ちた、【私】の姿を。
 哀しみが、胸に蘇る。まるで昨日の事のようにまざまざと。そうだ、あれは、こんな金色の日だった。金の木の葉が散っていた。なのに、あの方はここにいるのに、眼を開き、この見事な金色を見ることができない。もう喜んではいただけないということが、ただただ、哀しかった。
 そうだ。私が、東照宮で違和感を感じたのも、道理だったのだ。
 あそこに祭られているのは、別人だ。何故なら、あの方は、ここにいるのだから。―――竹千代様はここで、【私】と共に、眠りについたのだから。
「たけちよ、さま」
 私は、まるで吸い寄せられるように、一歩を踏み出す。
「竹千代様」
 手を触れる。大武者の腕は、もろくなった木のように崩れ落ちた。すると、そこにはほんのわずかばかりの、甲冑の名残。そして、白くてもろい欠片だけが、残されている。
 耳の奥に、声が蘇る。幾百年の時を超えて。愛しい声、私を呼ぶ声が。

 ―――忠勝!

「はい。……はい」
 貴方が呼べば、私は答える。そう決まっている。どれだけ時が過ぎても。
「ここに、おります」
 手を伸ばし、触れようとする。指先にまぼろしのように、あの温かい体温が、頬のやわらかい感触が、蘇る。けれども指先に触れるものは無い。ただそこには、時に朽ち果てた欠片があるだけ。
 どう、と風が吹く。銀杏の葉が舞い散る。ああ、金色だ。懐かしい色だ。竹千代様に、笑ってもらいたい。せめても、見てもらいたい。
 見えておりますか、竹千代様。今は平穏の世だ。ただ銀杏が散るのを見て、笑うだけでいることができる世だ。


 もういいかい。
 もういいよ。

 私は、触れようとした手を途中で引き戻す。代わりに硬く握り締める。掌に爪が食い込む。涙が流れた。
 大丈夫かね、何ぞあったんかね、と教授がおろおろと背中を撫でてくれる。頬を伝う涙が熱かった。その背中に、肩に、銀杏の葉がひらひらと降りかかる。
 自分でも意味が分からないまま、私は声を殺し、ただ、泣いた。
 



 


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