/花を摘むひと
花を摘み、微笑む人の俤が、春の日のどこかにこごっている。
市は、花が好きなのに、摘まれた花を嫌っている。
部屋に戻り、庭の隅にすわっている後姿を見つけて、ためいきをひとつ。長政が後ろから声をかけてやっと、市は、驚いたようにふりかえる。
「そのようなところにいて…… 虫に刺されるぞ」
「長政さま?」
艶やかな黒髪、雪白の肌。長政が近づくと、あわてて立ち上がろうとした市がよろめく。強引に腕を掴んで立ち上がらせてやる。市は慌てて眼を伏せ、「ごめんなさい」とか細く呟いた。
「何故そこで卑屈になる必要がある」
「だって……」
「まぁいい。何を見ていた?」
「はい。……あそこ」
指を指す。そこに、一輪の花が咲いている。長政には花の名などわからない。薄紫色の、あれは、菊の類だろうか。
「きれいよね? ……三日も前から、ずっと、みていたの。もうすぐ咲くと思ったから」
「なるほど、な」
花を見るよりも、つい、花のことをたどたどしく話し、うれしそうに微笑む妻の笑顔を見てしまう。長政はそんな自分に気付いてすぐに、慌てて市の顔から目をそらした。不思議そうにまたたく目が、また、こちらの罪悪感をそそるほどにあどけない。
「あの花が好きか、市」
「うん……」
「ならば、茶坊主にでも言いつけて、床の間にいけさせるか」
長政は何気なく言ったつもりだった。けれど。
「だめ!」
思いのほか、強い口調で言い返されて、驚いてしまう。
「……あっ」
「何だ、急に大声など出して」
「……ごめんなさい」
「ごめんなさい、では何が言いたいのか分からぬぞ」
市は眼を伏せた。長い長いまつげが表情を隠してしまう。泣き出しそうな顔は、悲しいことに見慣れすぎたものだ。市はそっと長政の傍を離れると、不安がった子どものように手を組み合わせる。無意識にだろう、爪を弾く。ぱちん、ぱちん。
「あの…… ごめんなさい、長政さま。せっかく市のこと考えてくれたのに…… 大声だして」
「お前の声なぞ、大声のうちに入らん」
あきれ返りながらも、長政は、光の中に己が愛しい娘の姿を見る。
光に照らされるぬばたまの髪。白い頬。野いちごのようなくちびるの、今にも泣き出しそうに潤んだひとみの。
「長政さま。市ね…… 折った花は、きらいなの」
どうして、この娘は、すぐに泣きそうな顔をするのだろう。
「だって、花も、死ぬでしょう? ……ただきれいに咲いているのに、それだけで殺されてしまうなんて。……市のせいで、花を死なせてしまうのは、可哀相……」
たかが三日で、さもなくば一昼夜で枯れ落ちるように生まれたもののために、どうしてこんな風に、泣くのだろう。
―――長政は大きく息を吸い、そして、吐き出した。
「そうか。ならば、毛氈をもってこさせるか」
「長政、さま……?」
「これも、同じ花なのではないか? たぶんこれも、これも」
長政はぶっきらぼうに、藪に背を伸ばした花を指差す。長政には花の名などわからない。半ば照れ隠しの乱暴な手つきだった。
「長政さま? それ、お花じゃないよ……?」
「し、知るか。同じようなものだろうが」
市は、目をまるく開く。
長政を見上げる。その、真っ黒な眼で。
「ここに毛氈を敷き、茶の用意をさせよう。そうすれば、石の上にそのように膝などつかずとも、花を見ることができるだろうが。不調法は悪だ!」
乱暴に怒鳴りつける。市の表情がほころぶ。
「お前も、浅井の正室という自覚があるなら、もうすこしはあたりを気遣って振舞え!」
「……はい、長政さま」
花を摘み、微笑む人の俤を、春の日のどこかに見ることがある。
よく見れば、それは自分だ。摘んだ花をいとけない幼子へと手渡す自分だ。幼子は笑う。まだ乳歯のそろいきらない口で。その顔は、どこか、愛しい人にも似ている。あなたは、長政さまに似ているね。そういって髪を撫でる。つやつやと手触りのいい黒髪。
あれは未来? それとも、夢?
うららかな春の日に、庭に毛氈を敷いて茶を汲むという話になり、気付けば人がぽつぽつと集まってくる。火鉢に鉄瓶がかけられ、あられや餅が高杯に盛られる。市の指差す花を見て、あらこのような、と驚く娘がおり、ままごとのようですね、と懐かしそうに笑う老婆がいる。
この場所はあったかい。みんな、市にやさしい。長政さまのおかげ。
市が眼をやると、長政はどこか苦虫をかみつぶしたような顔をして、まずそうに茶を啜っていた。照れ隠しだとすぐに分かった。さっきまで、笑っていたもの。市が長政さまのほうを見ているって気付くまで。
『あの人はだれかな』
市は春の日に目を細める。そこにうかぶまぼろしを見定めようとして。
『あなたも、しあわせなの?』
自分と良く似た人。幼い子どもの手を引き、花を摘む人。しあわせそうな人。
「市、どこを見ている」
ふいに、声がかけられる。長政だった。振りかえると、少しだけ心配げな顔をしている。虚空をぼうっと見ているだけのように見えたのだろう。
市は、いつの間にか、笑みを浮かべていた自分に気付く。長政の傍にすこしだけ近づく。指先を伸ばし、衣の裾にそっとふれる。指に触りたかったけれど、まだちょっとだけ、はずかしいから。
『市もね、しあわせだよ』
花を摘むというだけのことにも怯える自分でも、たった今、こんなにも、あったかい場所にいられる。
大好きな人の隣だから。
「長政さま」
「どうした」
「ありがとう。市ね…… すごく、うれしいよ」
春の日の庭の、光の中で。
花を摘む人の面影は、今も、幸福な笑みに満たされている。
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