/つめたい心
先日、半夏生の折に甲斐にて薪能披露場設られ候
請われてシテを務めまして折、
姿形趣き深しとの言を戴、扇を一枚御下賜候
南蛮渡りのぎやまん玉誂て候えば、
興趣真に伊達殿好みと考候
児戯の類と判候えど、
扇を見るだに伊達殿が思われての儀
拝領候えば真に在り難く存知候
一筆啓上
源次郎
政宗は、意外にも流麗な筆致で書かれた文を読み終わる。
「……shit」
何か面倒なような、変にくしゃくしゃした気持ちになって、そのまま文が置かれていた置石の上に座り込む。頭上にはまだ緑色をした楓の梢があり、空気には朝の青い気配が残っている。
朝方、決まって足を運ぶ水盤の前に、楓の枝を添えた扇がひとつ。
それ以外はなにもかもいつもどおりの、米沢で迎える朝であった。
行儀悪く膝を立てたまま、きっちりと畳まれた文を懐にしまいこむ。政宗は文が添えられていた扇をひらく。ぱちり、と小気味のいい音がした。煤竹の骨に張られた紙はごく薄く、綺羅を梳きこまれているくらいの飾りしかない。ただ尾に結ばれた打ちひもに、泡の入ったガラス玉がひとつ、結びこまれている。
ぱちり、ぱちり。
「シテを務めて、か」
政宗は、独り言のようではなく、有無を言わせない口調で言う。
「演目はなんだ。そもそも真田に、能を舞うことが出来たとはな」
しばらく返事はない。さらさらと頭上で楓がなびく音がするだけ。だが、政宗が周到に周囲に視線をめぐらせていると、おそらくは見逃してはもらえぬと堪忍したのだろう。頭上で鳥が飛び立つほどの音がして、背後に気配が現れる。
「”弱法師”だったよ、竜の旦那」
やはり、いたか。
政宗は再び舌打ちをして、ガリガリと片手で頭を引っ掻き回す。
「あと、ああ見えても旦那は舞は得手なんだ。体を動かすことが得意だからだろうけど」
「おい、なんで居るんだ」
「ちょっと、呼び出しといてそりゃないでしょ?」
苦笑する気配がする。
「真田忍びってのは、相変わらず妖怪じみてやがる」
「よく言われますよ。……それで、今回は気に入った?」
ぱちり。
政宗は目の高さに、扇を差し上げる。
純度の高い朝の光が、深い紺色をしたガラス玉にかすかに透ける。南蛮渡りと文には書いてあった。この色はたしかに、この国の職工に作れるものでもなく、朝鮮や唐で作られる類のものでもない。
ならば確かに、遠い、遠い国から来たものなのだろう。和蘭や葡萄牙、あるいはもっと遠く。はるか泰西から、海を越えてはるばると運ばれてきたガラス玉。
「気に入ったってことが、気に入らねぇ」
「相変わらず面倒くさいお人だね」
軽口を叩きながらも、別段気分を害した様子もない。だいたい、相手の姿も見えないのだ。政宗にとっては何もかもが『気に入らない』状況だった。
だが、だからこそ、このようなやりとりを許容できる、のだとも思う。
「前は貝、その前は打ち紐、今度は扇か」
ぱちり、ぱちり。
「真田はオレをどうしたいんだ」
……ぱちり。
「さあね。旦那にもわかってないんじゃないかな? たぶんだけど」
同盟も交わしていない他国の忍びが、国主の下へと平然と文を届けに来る。
普通ならば討たれても仕方がない。討たれなくとも、せいぜいは一回の気まぐれだけで済ませるのが筋だ。それが、このようなやりとりがもはや何度になるかも知れない。
届けられるものはさまざまだった。たわいのない小物が多い。それに、几帳面な筆致で付文が添えられている。それを政宗が受け取る。返事は書かない。幸村のほうも、文句をつけるわけでもない。
政宗と幸村のあいだにそんな奇妙な関係がはじまってから、はや、数ヶ月がすぎようとしていた。
そもそも自分が、この真田忍びを許容していることが問題なのだ。
政宗は苦々しい気持ちを奥歯でかみ締めながら、そんな風に思う。
奥州にも忍び衆はいる。忍び使いの達人で知られた真田ほどではないにしろ、政宗が一言声をかけ、追い払え、と言うだけで十分だろう。真田忍びが朝から城をうろつくなどという胡乱なことが起こることもなくなり、政宗が奇妙な付文に頭を痛めることもなくなる。が、政宗はそうしない。正確に言うと、出来ないでいる。
それどころか、だ。
「なぁ竜の旦那。ねんのため聞いとくけどさ」
「あん?」
「ここ最近、あんたのところに入るのがどんどん楽になってるのって、やっぱりわざとだよね?」
「さあ、な」
真田忍びの言うとおり。
政宗は、この忍びが運んでくる付文を心ひそかに待つあまり、毎朝のように同じ場所に足を運ぶようになった。さらには、わざと癇癪を起こしてみせて、ついてこようとするものたちを追い払うような真似までしてのけている。
ぱちり。
「bat…… ずいぶんと、手の込んだ扇に見えるが」
ぱちり、ぱちり。
「誰が真田にくれてやったんだ」
「そこは流石に。でも、甲斐のお人じゃなかったとだけ、言っておこうかな」
その言葉には、さすがの政宗も眉をしかめた。
肩越しに後ろを振りかえるが、忍びの姿は影も形も見えない。ただ声だけがどこからともなく聞こえてくる。冗談めかしでもしなければやっていられない、とでもいうような気持ちが、滲むような口調だった。
「あんたはうちの旦那とは違うんだから、見ればわかるでしょ。そんだけ手の込んだシロモノ、とっさに出してこられるようなもんじゃない」
元から旦那のために準備していたんだろうねえ、と声は言う。
「それで、わざわざ甲斐に来るときに持参してきて、よく舞った、褒美だ、ときたもんだ」
「……真田に惚れてる奴だってことか」
政宗の声は低くなる。苦笑する気配。
「旦那はぜんぜん気付いてない。というか、あの人けっこうモテるんだよ。ああいうお人だから、てんからそんな話があるわけない、って自分で決め付けてるだけでさ」
自分に懸想した男からもらったものを、そのまま人にくれてやってしまう。
そういう風に考えると、幸村はずいぶんと残酷なことをしている。まったく、無意識でのことなのだろう。花を折り棄てるように人の心を扱っても、自分ではそのことに気付いてすら居ない。
そして、これは一度目のことでもないのだ。
「旦那の俊徳丸ですがね、そりゃあ見事でしたよ。信じられる?」
「信じられない」
「まぁ、そうだろうねぇ……」
これも嘘だった。
今日び、仮にも武将の家に生まれて、能のひとつも舞えない者がいるとは思えない。まして幸村の生家である甲斐真田は祖父の代から武将として名を知られている。意外なほどに美しい文字と同じだ。外観はどう見えたとしても、幸村が、その程度の教養を身に付けていないはずがないのだ。
どうせ、政宗の考えていることなどお見通しだったのだろう。声はまったく変わらぬ調子で続ける。
「……でも、本当に上手いものだった。あの旦那が面をつけて、手探り足探りの仕草で舞台を踏んでね。ぴんと張った声で謡を唄って、かがり火に映えてそりゃもう見事なこと。見ているこっちの胸が詰まりそうになるような、いじらしい舞だった」
”弱法師”は、短く単純な筋書きの題目だ。
讒言を信じた父親に追放された少年が、盲目になり、途方にくれたまま乞食坊主の身分になり、彷徨に身をやつす。
夕日に祈ってひととき、己が光を得たと信じる。けれど全ては幻想にすぎず、少年は再び悲しみにくれる。やりきれなさと哀れさが見るものの涙をさそう。
政宗は一呼吸の間だけ、目を閉じる。まぶたのうらに幸村の能装束姿を思い浮かべる。
美事なものだったと忍びが言う。
幸村の俊徳丸で流す涙は、さぞかし甘かったことだろう。
「―――哀れなもんだ」
「ん?」
「この、扇を持ち込んだ男とやらが、だ」
……ぱちり。
真田幸村という男には、ひどく残酷なところがある。
本人がまったく気付いていないだろう部分において、心が冷たく、取り付くしまもない人間なのだ。
「どうせ、何を贈ったところで、何を言ったところで、真田が自分のものになんてなるわけない。そんなことにも気付いてないような男なんだろうが」
「……」
「舞を褒められて、扇をもらって、どうせ真田はうれしそうな顔をしたんだろ。ろくでもない望みをもたせやがって。あんな奴に惚れちまうなんざ、心底不幸としか言いようがねえよ」
「旦那もまた、手ひどい言われ方をされたもんだ」
「ただの事実だろ。それに」
音を立てて、政宗はまた、扇を開く。
「これが今、俺の手にあるって証拠までありやがる」
まぶたの裏に、政宗は、幸村の笑顔をおもいだす。
戦場以外で相対することは少ない。だが、あどけなく笑みほころぶ表情は、焼き付けたように脳裏に残っている。豪槍を振るう百戦錬磨の兵でありながら、幸村は同時に、世のことを何も知らない無垢な少年でもあった。人の世の嫉妬も、情念も、何一つ知らぬ。分からぬ。
そういう意味での幸村は、まるで、七にも足らぬ童子のようだ。
もらった菓子が嫌いなら、犬にくれてしまい、青いとんぼは握り締め、母の元へとかけていく童子のようなのだ。
傷ついたことのない人間は残酷だ。
政宗はそのことを痛烈にかみ締めながら、ゆっくりと扇の骨に指を滑らせる。
ぱちり。
「それで、さ」
背後の声からは、何を思っているのか、察することができなかった。
「俺様は、旦那になんて返事をすりゃいいの」
「言ったとおりに返せよ。こっちがわざわざ真田に返答をしてやる義理はねえ」
「……そう」
政宗は、すっと、扇を目の高さまで差し上げる。
泰西から来たガラスの玉が、見たこともないような青にきらめく。
「あーあ、旦那も可哀相に。こんな底意地の悪いの男に入れ込んじゃって」
何故だかくすくすと笑うような声を残して、さ、と楓の梢が揺れた。小鳥が一匹飛び立った程度、枝が揺れただけだった。
忍びの気配はそれだけで消えた。いつもどおりだった。
政宗は深く息を吸い、吐き出した。
手の中には一通の文と、扇がひとつだけ残されている。
何のためにこのようなことをしているのか、幸村は己で理解できていない、と忍びは言う。
己の忍びを命の危険に晒す。仮にも己の首を狙うかも知れぬ男に無邪気に文を贈る。なにも分かっていない。何も分からず、知らないからこそ、そこなしに残酷な真似をすることができる。ガラスのように透き通り、そして冷たい、その心。
そんな心の持ち主だからこそ。
焦らし、弄び、心悩ませてみることが、苦く、また、こんなにも甘いものになるのだろうか。
「So sweet……」
政宗は、閉じた扇の先を、くちびるに当てる。
くく、と喉の奥で小さく笑みを転がす。
「悦くて、甘いなァ。なぁ、幸村よ?」
恋文のようにしげく文を届け、ただ政宗を喜ばせることだけを一心に思っている幸村。己が忍びの口から今日のことを聞いたときには、どのような顔をするものだろう。
それを思うと堪らない。すぐにでも駆けつけ、哀しむ顔を見たい。悔しさに唇をかみ締め、目をそらす横顔を、見てみたい。
幸村の、あの何も知らぬ心から滴るものを啜るのは、楽しい。
限りなく甘く、酔い痴れるほどに心地良い。
喜びも甘やかなら、落胆も甘い。苦しみも悦びもまた甘い。限りなく限りなく、どこまでも、蜜のように、美酒のように、甘い……
「次は、いつになったら、会えるんだろうなァ?」
そして訪れる逢瀬の日は、政宗にとって、どれだけ甘いものとなるのだろう。
扇の尾につけたガラス玉は、ただ、透き通って光を弾くだけ。頭上では青い楓がゆれるだけ。まだ朝。誰の気配もない。
しばし政宗は扇の端をくちびるに当て、ひとり、物思いにふけった。
ひどく、甘い時間だった。
能を舞えたり、候文書けたり
戦国武将は意外と必須教養が多い…
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