/ポーリュシカ・ポーレ (戦争パラレル)
 
*一部、残酷な表現を含みます






 これは遠い昔ではなく、今と同じ時代のお話。
 ここではないどこかの、ありふれたお話。




 初秋。
 地平線まで続く草原が、白い穂をゆらし、あわい金色の色をまとう季節。
 ジープは舗装の悪い道にがたがたと揺れながら草原を行く。左右には草の海がどこまでも広がり、遠い山陰は地平線の彼方に藤色に霞んでいた。こうやって草原を行き始めてすでに丸一日。太陽はもう西の空へとゆきかかり、どこまでも青かった空の色が、乳を混ぜたかのようにゆるみつつある。
「―――大したものですね、ここまで誰もいないとなると」
 ジープの乗員は三人。徽章をつけた上級軍人が一人と、その随行者がふたり。
 上級軍人、そして、随行の兵のひとりはこの地方の生まれだ。だが、最後の一人はここから離れた山間の生まれ。こういった景色を珍しがってしきりにいろいろと言っていたのは最初の半日くらいで、今では何もない景色にすっかりうんざりしているらしい。ハンドルを握りながらの言葉も呆れ気味だ。
「これだけ平地があるのに、開墾もせず、牧畜もせず……」
「……しないのではない、出来ないのだ」
「秀吉様?」
 後ろの席の男が、重い口を開く。巨漢、といってもいいだろう。刻んだように厳しい面差しをした、日に焼けた男だった。金色に沈み行く平原を見回す目は、赤い琥珀に似た色をしている。
「このあたりの土地は開墾に向かぬ。地味が薄く、草を刈ったところで満足な麦も作れん。玉蜀黍をすこしばかり撒くのがせいぜいといったところだ」
「成る程…… だが、せめて山羊とかを飼ったりとかはできぬのですかのう」
「居るはずだ、見ないだけだろう」
 男は、短く、言葉を切る。
「この草原には地雷や不発弾が多い。恐れて牧童が出歩かぬから、あまり目にせぬというだけだろう」
 ―――そう、友が言っていたのを、聞いた記憶がある。
 そう思い出し、男は、秀吉は、口をつぐんだ。ただならぬ気配を察したのだろう。随行者たちもお互いに目配せをしあい、それきり、黙り込んだ。

 そこは、草原と山に囲まれた場所。
 いくつもの国々が、お互いの民族の誇りをかけあって、終わることのない戦争を続けている国だった。
 大国と大国が戦争をしたのがもう何十年も前。それから後、この場所では終わることなく小さな戦が続いていた。お互いに民族の血を争い、あるいは政治的信念を争いあい、ときにはただ、明日生きていくための糧を奪い合うために、終わることなく戦い続けてきた。
 ならば、この草原の国に生まれたということは、将来は兵士となって戦うために生を受けたのと同義だ。男達は皆年頃になると徴兵され、兵隊となる。歩いて超えることができる距離にある国境をかけて争う。死ぬまで。
 あまりに虚しい、哀しい生き様だ。
 そんなもののために生まれてきたなんて、思いたくない。……別の生き方をしたい。もっと、何か、別の。
 秀吉とその友が道を別ったのも、それが、原因だった。
 
 夕刻ごろ、草原に太陽が沈むと、遠くにかすかな光が見え始める。
 そこが、彼らの目的地だった。






 ただどこまでも続く草原の中に浮かぶ、古い古い石組みで作られた浮島。
 それが遠くからその村をみた印象で、実際のところとしてもそうそう間違っているわけではない。もう千年も昔に作られた石垣をそのまま使った小さな村は、小さな屋根を寄せ合い、庭の間で山羊を飼い、炊事のための煙をかすかに立ち昇らせていた。リンゴの木が見える。小さなぶどうやオリーブの畑も、小さな段々畑も見える。
 軍属とすぐ分かるジープを見た村人たちは、一目でその場に凍りついた。随行者のひとりが助手席を降り話をする。目を丸くした娘が、近づいてきた子どもたちに話をする。あちら、こちらで小さな窓が開けられる。住人たちがこちらの様子を伺う。
「気に入りませぬ」
「仕方があるまい」
 むっとした風に呟く随行者に、秀吉は短く答える。
 家々の間から投げかけられる、困惑したような、怯えたような目、目。
「この土地には、我らのようなまともな軍人など、訪れるような理由もないのだ」
 細い道を、体を斜めにするようにして通っていく。最初に感じた違和感は刹那、心はすぐに10年も昔に戻っていく。石壁のあいだの入り組んだ小道。こんなにちいさくて、箱庭じみていただろうか? 
『ひでよし、こっち、こっち!』
 幼馴染の声が、まるで幻聴のように、まぶたのうらに思い出された刹那。
「……秀吉どの?」
 懐かしいりんごが花を咲かせた小さな家が、小道の向こうに現れる。

 出迎えてくれたのは友人の叔母だった。かつてはほんの少女だったものが、今では穏やかな風貌のうつくしい女になっている。秀吉と随行者のために路地に卓をだし、なつかしい匂いのする茶をふるまってくれた。
「まさか、こんな急にたずねてきてくれるなど、思ってもおりませんでした」
「尋ねる、と手紙を送らせたはずだが」
「ここ近年では、手紙などまともに届く方が稀なのですよ。10通送れば、そう、1通くらいは届くこともありますけれども」
 ふちの欠けたティーカップには見覚えがあった。誰にも気付かれぬよう、指先でそっとなぞる。残りの二人はようやっとたどり着いた揺れない椅子にほっとしているらしい。焼きたてのブリヌイにはたっぷりとジャムとサワークリームを添え、よい香りのするカツミレ茶をあわせる。二人の様子を見ているまつはうれしそうだった。昔からこういうひとだった、と秀吉は思い出す。
「利家殿は」
「犬千代さまなら出稼ぎに。半月ほどにもなりましょうか、ここから何日も言ったところで、そろそろ麦を取り入れる時期がきているのです」
 ここじゃあ、大の大人が暮らしていくような仕事もありませんものね。そう言って、まつは、少しだけさみしそうに微笑んだ。
「……」
 一番聞きたいことが、まだ、聞けない。
 秀吉は黙ったまま、カップを口に運ぶ。
 あれはいるのか。
 何をしているのか。
「それにしても、こんな田舎まで、よくも尋ねてきてくださいましたこと!」
 まつは唐突に、明るい声でわらいだす。
「あなたがた、道が悪くてお尻が痛くなったでしょう。犬千代さまのベットもあいておりますし、ここの村には旅籠もないわ。今日はうちにお泊まりなさい。おなかも空いているんでしょう?」
「いいのか!?」 と、顔を輝かせて飛びつくのが一人。
「遠慮しろ貴様!」と、しかめっつらで脇に肘をくれるのが一人。
「いいのよ、あまり静かだと気がめいりますもの。あれのお友だちだったら、誰であっても大歓迎。そうね、すぐに夕飯の準備をしなくては。さっそくガチョウを絞めなくてはね。慶次も呼んで来ないと」
 秀吉は、自分のカップの中に、ちいさく波がたったのを見る。
 まつは立ち上がる。「我も」と秀吉も続く。二人がそれぞれに意外そうな顔をする。自分らしくないと、自覚はしていた。
 まつは勝手知った様子で木戸をくぐった。鍵すらかけなかった。秀吉も後に続いた。昔から知っている懐かしい路地。踏み出す足が、記憶の中の足取りに重なる。一歩歩くごとに、時間が撒き戻される。心が昔に戻る。
 時間が昔に戻ったみたいだ。
 ここは、あの頃の村じゃないか。
 目の前に石垣で囲まれた小さな果樹園が見える。リンゴが青い実を揺らしている。ああ、あの枝ぶりはおぼえている。あれは、あそこの木の下で寝るのが好きだった。じゃあ、あれは、またいつものようにだらだらと惰眠をむさぼっているのか。あの木の下で。白い花の咲く場所で。
「慶次、慶次!」
 まつが呼びかける。すこし間があいて、何か、音がした。かしゃり、という金属音。かつん、という木の音。
 かしゃり、かつん。かしゃり、かつん。
 かしゃり―――
「ん、どうしたんだよ、まつねえちゃ……」
 内側から木戸を押して、ひとりの、大柄な青年が顔を出す。
 秀吉は思わず、息をすることを忘れる。
 栗色の髪を、頭の高いところで結わえていた。日に焼けた肌。ひとなつこい茶色の目。肩が広くて大柄な青年だ。見るからにふとく、頑丈な手足をした。
 その手足がない。
 空の右袖が結ばれていた。足は、なかった。ズボンの片方は空のままだった。もう片足には古びた金属の装具がつけられていた。四肢の中で唯一残った方の腕には、松葉杖を手挟んで。
「秀吉?」
 びっくりしたように丸い目をして、こちらを見上げる。
 その目も、片方しか、ない。
「……慶次」
 声が出なかった。話を聞いて、予想はしていたはずだった。なのに何もいえない。言葉が出てこない。
 向こうも同じだった。目を見開いて、何か言いかけて、言葉を選べずにいる。何度か口を開きかけてはまた閉じた。かしゃ、と音がして。
「……うわぁ!?」
「っ!」
 無意識に前に出ようとした瞬間、体が、前にのめった。
 秀吉はとっさに腕を伸ばす。慶次を抱きとめる。その瞬間、鳥肌が立った。軽い。あまりに軽すぎる体。
「慶次! 無理はやめなさいと、言っているのに!」
「たはは…… ごめん、ごめん。びっくりしちゃってさあ。まさか、会いに来てくれるなんて、思ってもなかったから」
 あわてた口調のまつに叱られ、へへ、と慶次はくすぐったそうに笑う。抱きとめた腕の、濃緑の軍服に、頬を摺り寄せる。髪からはりんごの花の匂いがした。昔と何もかわらない匂い。笑顔。
「秀吉、秀吉」
 片方だけの腕で、抱きついてくる。その力は記憶の中にあるものと比べたら、哀しいほどに頼りない。
「ほんものの、秀吉だぁ……」
 かみ締めるように呟いて、顔を上げて、笑う。
 秀吉は、何もいえなくなる。
 







 彼らは昔、無二の親友だった。
 

 同じ国で生まれ、育った。同じ学び屋で学び、ごく当たり前のように親しくなった。
 ―――そして共に、戦火ですべてを失った。
 
 






 随行者たち二人ははじめ満足に動く手足もない慶次への対応へ困惑も顕わだったが、「あんま気にしないで」という慶次の一言で、どうにかく頭を切り替えた。一人はまつに指示されてモノを運んだり薪を割ったりと力仕事、もう一人は何かと慶次の横について立ち働きの手伝いをしてくれる。
 体の不自由な知己がいるから、と短く答えた『ひとり』のほうを慶次はえたく気に入ったらしく、晩飯が始まる前からしつこくからかっては怒鳴り声をあげさせていた。いつもの慶次だ。
 苦しい暮らしだろうにガチョウを一匹絞めて、詰め物をして焼いたものを食事に供してくれる。飲み物には酸っぱいリンゴ酒とエールが準備され、キャベツやカブの酢漬け、こんがりと焼いた丸パンは山盛りに準備された。風呂の準備もしてくれる、寝床も用意してくれる。気取ったところがまるでないのに、何ひとつ不自由のないもてなしが懐かしかった。
「中佐」
 食事を終えて、皿を運び終え、湯を沸かすために裏手に回る。そんなあたりで随行者の片割れがようやく問いかけてきた。たまりかねた、という様子だった。
「何だ」
「慶次殿はその……中佐とはどのような縁をお持ちなのですか。軍属にはとても見えぬが、あの怪我は」
 まつの力では、慶次の入浴の手伝いは辛い。察したのだろうもうひとりが服を脱がせてやっているところを見てしまったのだろう。言いかけて、口ごもる。朴訥な反応に、頭のどこか軍人である部分が、この若者はまだまだ青い、と冷静な判断を下す。
「確かに慶次は軍属ではない。その逆だ」
「逆?」
「テロリスト、国家反逆犯、平和活動家…… どう呼んでも構わぬ。数年ばかり前まで強制収容所にいたはずだ」
 はっ、と息を呑む気配が隣から聞こえてきた。
 重い石炭の包みを積みなおしながら、秀吉は、淡々と言う。
「国外の支援活動家と接触をとり、亡命の手引きをしていたはずだ。それだけとは思わぬがな。それで収容所に入れられたのが三年ほど前」
 日付まで憶えている。あの当時のこと。
「……収容所が空爆を受け、あの体になったのが、一年ほど前だ」
 個人的に所持していた情報ラインから、その話を聞いたとき、自分はどう思ったのか。
 すでに秀吉には仔細を思い出すことが出来ないし、出来ることならば生涯思い出したくないとも思う。刹那とはいえ、自分が抱いてしまった醜い願いのことが忘れられない。
 あのとき確かに秀吉は、慶次が死んでいてくれていたら、と思ってしまった。
 己の理想に准じ、そのまま潔く死んでくれていたら。思い出を汚すことも、かつて抱いたお互いへの尊敬や親愛を壊すことも無く、見事な幕切れを迎えてくれていたら。
「中佐」
 ふいに傍らから、気遣わしげな声がする。
 はっと我に返り、隣を見ると、随行者が心配そうに秀吉の顔を覗き込んでいた。
 ―――己は、迂闊な表情を、見せたのだろうか。
「そのお言葉の通りならば、我々は慶次殿を逮捕せねばなりませぬ」
「……」
 少し黙ってから、彼は、決心した様子で口を開く。
「わしは何も聞かなかった、でようございましょうか」
 目を上げる。気配が聞こえる。陽気にからかうような声と、ソレに対して怒る声。聞きなれた調子だった。声だけならば、慶次のあの様子はわからない。頭がおろかな錯覚を描いてしまいそうになる。思い出と現実が入り混じる。目眩がしてきそうだと、秀吉は短く目を閉じた。
「佐吉には、知らぬ存ぜぬは通せそうにありませぬ」
「……そうだな」
「黙っておきましょう。それでようございますな?」
「そのように」
「心得ました」
 会話の声が途切れると、草原を渡る風が、おそろしいほどに音高い。
 ざわめく波が高まっては途切れ、また闇の底から打ち寄せてくる。小さな村は夜遅くなれば物音もない。山羊も鶏も声を潜め、わずかな人の声などは逆に草原のおそろしい沈黙を際立たせるかのようでしかない。

 この場所は昔からそうなのだ。
 十年も、百年も、千年も前からずっとそうだ。
 
 

 夜。
 風の音が酷い。
 秀吉に準備されたベットは慶次の部屋の寝椅子で、目を開けたまま部屋を見回すと、闇になれた目にさまざまなものが映る。
 寝台の横に吊るされた装具と松葉杖。さまざまなものをはがした痕のある壁。古い、タピストリ。茶色く日焼けした本。写真。
 後ろ向きにした写真立ての中身はすぐに推測がついて、胸の中が奇妙に軋んだ。
 あの写真立ては、まだ皆が一緒に居た頃から、代わらず、あそこに置かれたままか。
「……ひでよし」
 ふいに、寝返りを打つ気配がする。声がする。
 やはり眠れていなかったのか――― そう思って目を開けると、寝返りを打ってこちらを向いた慶次の顔がある。にこりと笑う。ほの白く窓からさしこむ月光に照らされた面差し。片方しか開かない目。
「やっぱ、おきてた?」
「……ああ」
「久しぶりだよな、こうやって同じ部屋で寝るの」
 くすくすと、慶次は笑う。長い髪が解き流されて顔をふちどっていた。昔から自慢にしていた絹のような髪。以前より荒れて痛んではいるけれど、月の光を受けるやわらかな光沢は、まだうつくしいままで保たれていた。
「昔話とか、聞きたい話とか、ほんとはいろいろあるんだけど」
 慶次は、明るい調子で言う。
「なんだかうまくいかないな。上手に話がまとまらないんだ」
「そうか?」
「そうでもない? だったら嬉しいなァ。つっても、こっちの暮らしは対して変わらないから、目新しい話は殆どないんだよ。まつねえちゃんのめしは相変わらずの美味さだし、二人のあいだも相変わらすだし」
 ひとつ、ふたつと楽しげな声で、慶次は、楽しげなことばかりを数えだす。
「あ、今日つれてきた連中さ、いいやつらだね。でっかいほうは美味そうに飯を食うし、ほっそいほうはすごく気配りできてて親切だしさ。あれ、秀吉が育ててるの?」
「どうだろうな。ほとんどは半兵衛だ」
「半兵衛も元気なんだ。……そっか。そうかあ」
 笑みこぼれる。その瞬間の、心から嬉しそうな表情。
「あいつ、元気にやってるんだ。なんか、今、すっげー安心した。あはは、迷惑がられるだろうなぁー」
 ―――変わっていない、と秀吉は思った。
 違う、変わっていないのではない。変わっていないと、思わせたいのだろう。同じ舞台で、同じ登場人物で、慶次は必死に、こわれてしまったかけらを繋ぎ合わせようとしている。もう磨耗しきってうまくかみ合わない欠片でも、上手にあわせれば、昔のようになると思って。自分でも信じても居ないことを、なんとかして、作り上げようとして。
 しきりに髪を撫でる。開かない方の目を誤魔化そうとしているのか。腕をうしなったほうを体の下に敷いている。見せないようにしたいのか。けれど、体の上にかけた毛布は、膝の下あたりで中にあるもののふくらみを無くしている。見栄っ張りの慶次。満足に動くこともできなくなった身の上を、こうまでなってしまっても、隠したいと思うのか。
 秀吉は、たまらず、起き上がった。
「慶次」
 呼びかけると、びくり、と慶次の肩が震えた。
 立ち上がり、ベットに腰掛ける。軋む音がする。髪を大きな手のひらでなで上げる。傷跡を露にされて、怯えたような色が目を掠める。閉じたままのまぶたをちいさく押し上げると、白濁して真珠のようになった眼球がそこにある。
「……慶次」
 切り株のようになってしまった、腕。
 引き連れたやけどの痕。足。太ももの半ばで失った右足と、膝の下で切断された左足。
 いつ失ったのか。どれだけの痛みがそこにあったのか。腕に彫られた刺青を見つけたとき、秀吉の胸は突き刺されるように痛んだ。かな釘でひっかいたような文字列は、おそらくは囚人番号か。ひとつづつ確かめられている間、慶次はだまってうつむいていた。唇を噛んだ表情が痛々しかった。
 やがて、呟いた言葉は。
「ごめん」
「……」
「ごめんな、秀吉。……こんなナリに、なっちまってさ」
 泣き出すのだろうかと、ぼんやりと秀吉は思っていた。けれど慶次は顔を上げ、無理やりのように笑った。涙などひとぶつも見えなかった。もう枯れ果てているのだろう、と唐突に気がつく。
 収容所での二年。
 空爆で手足を失ってから、さらに一年。
 慶次はいったい何を見てきたのか。どれだけあがいたのか。嘆き、慟哭し、怒り、そして、絶望したのか。
 片腕がふいに宙を掻く。もう片方の腕がおずおずと背中に回る。抱擁を求めているのだと理解する。秀吉もまた、ためらいながら手を伸ばす。
 若い日に、枕を並べて眠ったこともある部屋で、再び、お互いの体を抱きしめあう。服の背を必死で握り締める片手と、ただまさぐるように動くだけの棒のような手の感触が、無性に哀しかった。かつてはあんなに、強い腕をしていたのに。広い胸と肩をして、リンゴの花の香りをさせ、ただ溌剌と、笑うだけの人だったのに。

 
 何もかもが変わってしまっているけれど。
 もう、思い出の日々など、けして戻ってはこないのだろうけれど。






「戦っていやだね。俺は兵隊にはなりたくないなぁ。それよか、恋がしたいよ。誰か心から惚れた人を見つけて、一生いっしょに暮らしたい」
「それが、大の男の言うことか?」
「悪いか?」
「それは惰弱ぞ、慶次」
「……別に、弱虫って思われてもいいよ。本当のことを言ってるだけなんだし」
「愚かな……」
「そう、俺は愚かなんだろうな。でも、もし俺をバカってういうなら、秀吉の方は可哀相」
「何故だ」
「それじゃ、秀吉は一生、恋なんて出来ないだろ?」

 かわいそうな秀吉。そういってさらさらと慶次は笑った。同情も軽蔑もそこにはなく、ただ己を思う心の温かさだけが通じてきた。
 どこまでも続く草原。体の下に敷き、倒した草の青い香り。頭上にはどこまでも高い空。草に横たわり空だけを見て、戦争も平和も、お互いの顔すらも見えはしなかった。

「秀吉の夢ってなんなんだ?」
「我か。……強くなり、この国を平らげる。男ならば誰でも望む夢だろう」
「そういう言い方しちまうと、俺は男じゃなくなっちゃうなあ」
「貴様の夢は『恋』か」
「うん、そお」
「強い男にならねば、己の恋も守れまい。貴様の夢はあべこべだ、慶次」
「そうかな…… そう? 俺は間違ったことは言ってないつもりだけどな。だいたい、そうやって延々と強くなろうと競争しつづけてさ、いつになったら大事な人がつくれるんだよ」
「誰もがそのようにして、己の国を守り、そして生きる路を切り開くのであろうが」
「あはは、ンなことしてたら、気付いたら枯れ木になっちまってるよ。それよか俺は、このまんまの俺のままで、幸せに暮らせるようになりたいよ」
「愚か者め」
「うん、そうだね」

 そうだね。
 ほんとうにそうだね、秀吉……










 秀吉は、この国の強制収容所で、政治犯達がどういった扱いを受けていたのかを知っている。
 犯罪者など人間ではない。なんらかの後援があるのならともかく、そうではない囚人が『病死』することなど日常茶飯事だ。慶次は多くの難民たちを国外へ逃がしていた。つまり、海外に後援者を持っていた。だから死ななかった。命を永らえさせられた。それだけの命。それだけの扱いが、この国の摂理に逆らったものの末路だ。
 誰が、収容所への『誤爆』を支持したのか。秀吉はそれも知っている。報復することは出来るかもしれない。だが止めることは出来なかった。そもそも止めてどうなる? そうやって平和を叫ぶ政治犯に肩入れをして、要らぬ勘繰りを周りから受けることになるのか? そんな行動は賢いとはとても言えない。そう、秀吉の副官は言った。彼の言うとおりだった。
 慶次はそのことを知っているのだろうか。知っているのかもしれない。そうではないのかもしれない。どっちにしろ、慶次は秀吉を責めないだろう。けして誰も責めないことが、慶次の選んだ道だった。弱いままで、誰も殺さないままで、誰に対しても人を傷つけてはいけないといい続けること。それが慶次の戦いだった。敵のみえない、勝利のない戦い。その結果が、慶次をああした。
 銃を取らない戦でも、人は死ぬ。
 慶次はいつから、そのことを知っていたのだろう。




 翌朝。
 眠れないままでふたり、黙り込んで毛布の下で黙り込んでいた。気がつくとよろい戸の間からかすかな光が差し込み始める。ふいに、つぶやく声が、獣脂の臭いがする闇の中から聞こえてくる。
「朝になったよ、秀吉」
「……」
 身じろぎをする気配がする。薄目を開いて寝台のほうを見ると、栗色の長い髪が毛布の端にひっぱりこまれるのが見えた。
「憶えてるかな」
「……なにを、だ」
「昔はさ、よく、朝まで喋りこんでてさ、酔い覚ましに外に出たよな…… って」
 秀吉ははっきりと目を開いた。
 闇の中に、寝台の上でちいさく丸まった毛布の背中が見えた。
 床の上には金属と革の装具。松葉杖。むかしはきれいだった髪。荒れて波打ったひとふさが、毛布の下から垂れ下がっている。
「慶次」
 秀吉は、寝台から、起き上がった。
 驚いて、目を開く。こちらをみあげる慶次の目。秀吉は窓を開け放つ。風と草のにおいが部屋へと吹き込んでくる。まだあたらしい藍色を残したままの空。ベットの上からこちらを見る慶次の目は、びっくりしたように丸く見開かれていた。その目の端が赤かった。秀吉は手を伸ばした。慶次を、抱き上げた。
「ちょっ、なっ」
 おどろいて、秀吉をおしのけようとする腕。その、すりこぎのような丸い先端。
「な、何」
「外へ行くぞ」
 抱き上げた体が軽かった。慶次は痩せ、体からは筋肉が落ちていた。手足を失ったせいだけじゃないだろう。小さくなった体を抱き上げることも、その慌てたような抵抗を抑え込むのも、簡単なことだった。片腕で胸に抱き上げ、もう片腕で毛織のコートを壁から取る。まとめて抱き上げて大股で部屋を横切る。たった三歩で縦断できる小さな部屋。
「おい、秀吉、何」
「朝日を見せてやる」
 言い放つと、慶次は黙った。
 家の中はひっそりとしていた。まだ、叔母は眠っている。つれてきた二人は一つのベッドを分け合って眠りについているだろう。閂を外して外に出ると、風からは、朝露と草の匂いがした。

 小さな古い町は、草の海に浮かんだ孤島。
 狭い路地をくぐり、どこまでも続く草の海のほとりに降りた。太陽はゆるゆると地平線の向こうから昇ってくる。紺から藍へ、藍から白へと、空は色を変えていく。石段を急ぎ足でくだり、いつかの記憶が残るぶどう畑のほうへ。もう何百年も前に詰まれたスレートの石垣。ふるい木戸を押し開けると、目の前にはさえぎるもののない平原の風景が広がった。
 朝日が空気を、シャンパンのような淡い金色に染めていた。
 風から水の匂いがする。夜明けが近い。
 憶えのある光景だった。
 いつか、何度も何度も、飽かず語り明かした夜の果てに、眺めたことのある光景だった。
 草の上に腰を下ろす。朝露が服の裾を濡らす。秀吉は、腕の中を見る。慶次は目を大きく開いて、夜の明けていく方向にみとれていた。
「……ひさしぶりだ」
 ぽつりと、こぼれる声。
「貴様でも、か?」
「うん、ひさしぶりだよ。……ここに戻ってきてから、はじめてだ」
 ふいにくしゃりと、慶次が笑う。
 笑おうとしたのだろうと、かろうじて分かるだけの表情を、むりやりにつくる。
「……だって俺、もう、ひとりでここまで来るの、難しいから」
 そっと、慶次の両手が、秀吉の肩を押した。
 片方の手は、なつかしい慶次の手だった。手のひらの感覚が肩に残っていた。もう片方は無い。何もない。
 笑うように顔をゆがめた慶次の頬を、ぽろりと一粒の涙がこぼれた。くしゃくしゃと慶次は笑った。栗色の長い髪が、半ば焼け爛れた顔を、やわらかくふちどっている。
「なあ秀吉、俺をみて」
 声をなくす秀吉に向かって、慶次は腕を広げた。泣き笑いの顔のままで。
 膝から下をなくした足、腕。
 焼きつぶされた目。
「俺、ずっとずっと、戦が嫌いだった。秀吉は戦争が好きだったから、ちゃんとそのこと、言えなかった。でも今なら、ちゃんと理由が言えるよ」
 だって、と慶次は言った。
「だって、つまり戦争ってさ」
 声が風に吹き散らされる。朝の訪れる方向から吹く、朝露の匂いのする風に。


「戦争って、俺みたいなやつの、ことなんだよ……」


 慶次は泣きながら笑っていた。秀吉は、何も言えなかった。出来なかった。
 ただ、友の肩を抱き寄せること、すら。




fin...?



よくわからないのでここまでしか書けませんでした
でも私にとって慶ちゃんて、つまり、こういう子だったんです



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