/潮騒


 今日、『征夷大将軍徳川家康』からの使者が安芸を尋ねてきた。

 予めしたためておいた文を渡し、また、以前に与えておいた文が戻ってきたことを確かめる。万事は元就の謀の通りに進んでいるようであった。坂東の曠野は次第に拓けて人を集め、各地の武将たちを『大名』へと封じる策も上々に進んでいる。
「銀葉をこれへ」
「は」
 白雲母の皿をうやうやしく侍従が差し出す。元就の手の中で、極光色の焔が上がる。まもなく一巻の文は一つまみの灰へと変わった。戦国の世をはるかにすぎて、元就の異能だけは今だまったく衰えを見せぬ。涼やかな双眸に一瞥されて、江戸からの使者の目には、まぎれもない畏怖の色が浮かんでいる。
「『将軍』へ、伝えよ。万事、恙無く進めるようにと」
「……はっ」
「以上だ。下がれ」
「はっ」
 使者も侍従も下がった。元就は立ち上がり、御簾をあげる。すると目の前に広がるのは、きらめくような瀬戸の海。この場所からは厳島の大鳥居は見えぬ、眼前に広がるのはただ島々を交えた内海の光景である。
 初夏、この海の色は、一色ではない。
 海流がそれぞれに色を交え、青砥と青磁、青鈍や青鋼がゆるゆるとまじりあい、おおらかなうずまきの模様をえがく。島々の断崖は真砂の色で、その上に茂る緑の色は翡翠のように濃い。日光が眩しい、と元就はわずかに目を細めた。この内海を戦船が行きかうことが無くなってから、すでに、十数年が経過していた。
 戦国は終わった。毛利元就が、その手で幕を下ろした。
 そして訪れた太平のこの世は、『徳川幕府』によって治められている。

 ―――もとより、元就には、天下を手におさめんという野心など、ありはしなかったのだ。

 厳島、そして安芸の宮島は、はるか神代より定められし天津神の聖地である。ここを護ることを己のさだめと心に決めたのは、もう、記憶も薄れるくらい遠い昔のこと。元就が天下を平らげることを欲したのは、単に、戦国の世の喧騒を嫌ったからに他ならない。天下が平らかならば、この安芸も平穏だ。それ以上の価値も、それ以下の価値も、元就は天下に求めなかった。
 戦を求め、この海を騒がさんとする豊臣は滅した。その過程で必要だったから、東夷のものどもも滅ぼした。内海を騒がせる海賊も殺した――― 否、あれは殺したといえるのだろうか。元就はわずかに秀麗な眉をひそめた。この想像だけが今も胸に刺さり続けるちいさな棘だ。死んでまでも忌々しい男よ。元就は小さくつぶやく。

 
 ―――コロしてやる!!


 銀の髪の、雪白の肌の、美しい男だった。長じては荒武者となって鬼を気取っていたようだったが、幼いころはまるで、白いすみれのように愛らしかった。元就は生まれる前からあの男を知っている。元就は実に、とうに齢百を超えている。通常ならば翁であろう。さもなくば白骨だ。しかし元就は今だ老いを知らない。元就は、生まれながらに人の世の穢れを知らぬ身だった。
 産まれて齢ひとつ、三つ、五つ…… 母は幼かった松寿丸の髪をなで、十月十日の間、毎夜天人の歌う夢を見たことを語ってくれた。歩くよりも先に祝詞を読み、松寿丸さまは麒麟児よ、神の御子よと畏れ敬われた。所領を奪われて齢十、元服を迎えて十四、妻の妙玖を迎えて十六。常人のように齢を重ねたのはそのあたりまでだろうか。それより先の元就は、決して変わらぬ白いかんばせ、涼やかな双眸を持ったままで生きてきた。
 安芸の平穏を求め、謀略を持って中国を平らげんと求め、東へ、西へ。あの頃の己になら、あの海賊に似たところがあっただったろうか。この皮膚の下を流れる血が、若者めいて熱く滾っていたこともあるやもしれぬ。隆元を頭に三人の息子たちを指揮し、長い時間をかけて周囲の国々を傘下へと下した。あの頃は馬を駆り、先陣を駆けたこともあった。我らしからぬ先走った愚かさよと、ふと、かすかな笑みがくちびるに浮かぶ。
 愛する妻は、年老いて死んだ。息子たちもまた、父よりも早く歳を取り、死んだ。妻子は元就を恐れなかった。愛しい夫であり、敬愛する父であると思ってくれた。が、それも彼らが最期だった。それより先の子孫たちにとっては、元就は、生ける神だった。ヒトならぬ、存在だったのだ。
 老人の血は、若者のものよりも冷たい。元就も、それは変わらぬ。象牙色のなめらかな肌の下、流れる血は、翁のものなのだ。まだ血気にはやる若人に、齢百を数える翁に思うことは、分からぬ。元就が願うことは、今はただ、己の故郷である安芸の平穏のみだった。そしてそれは叶えられた。戦国の野心に逸るものたち全てを、周到に一人づつ、滅ぼしていくことによって。

 
 ―――てめえをコロして地獄まで連れて行くッ!


 ふと、熱い風が吹く。濃い潮の匂いが頬を撫でる。
 思えば、と元就は考える。我がこのようにして平穏の世を手に入れるには、こうして100年を待たねばならなかったのではないか。この海をきらめかせる日輪の輝きを、日ノ本全てへと降り注がせるものが産まれるのを、待つ必要があったからなのではないか。
 この敷島は、日の出る国。日輪の加護の元にあって初めて、この国は平らかであることが出来る。天照大御神の御世より、それは変わらぬ。しかし元就は、この国全てを照らす日となることが出来なかった。おそらく、それは己の器ではなかったのだろう。しかし、何故このようなことを考えて平穏でいることが出来るのか。元就はそれが、己のことながら不思議でならない。
 今、はるか江戸に配した駒は、ただの駒にすぎぬ。しかしあの金色の少年は、正しく、太陽であった。その心栄えには日ノ本に生きるもの全てを照らす金色の光があった。その金無垢の魂は、死してなお、この国を照らして余すところを知らぬ。少年が死んだ後、元就は東照権現の名を少年の諱とした。江戸を治めるのは良く似た顔をした駒である。その策を献じるのははるか西に座する元就である。しかし、この日ノ本を治めるのは、神君徳川家康なのだ。己が殺させた少年を、元就は己の手で神にした。
 
 
 ―――俺は…… 俺を、心から憎む……!


「神に、人の世の幸福など、望むべくも無い」
 元就は誰よりもそれを知っている。己自身がそうだったから。少年は、絶望し、哀しみ、悲歎に暮れて死んだだろう。そのようなことは、どうでもいいことだ。神は、人にはなれない。人を救わねばならぬものが、どうして己の幸福などを望める?
 神は孤独だ。日輪は、孤独だ。夜空には無数の星があっても、晴れ渡る蒼穹には太陽しかない。月すらも白昼の空では姿が霞む。少年は、神だった。人間としてどれほど絶望しようと、哀しもうと、そんなことは民草にとってはどうでもいいことだ。そして神というものは常に、民のために存在している。


 ―――すまねえ、家康……
  

「元就様」
 ふと、控えめに呼ぶ声がする。入れ、と応えると、見慣れた神祇官が白木の箱を捧げもち、慇懃な仕草で部屋へとはいってくる。元就は御簾を降ろす。いささか日に当たりすぎたようだ。まぶしさに眩んだ目に、部屋の中が暗い。
「陶工より、予てよりお申し付けの器を、ご検分戴きたいとの所存にございまする」
 箱を封じていた紫紺の紐を解き、欝金染めの絹を開く。すると、そこにあるのは混じりけのない純白に焼き上げられた器。元就の掌に載ってしまうほどに小さい。そっと掌に載せ、壊れ物に触れるというよりも、か弱い小動物に触れるようにその膚を撫でる。わざわざ唐渡りの陶工を呼び寄せて作らせた白磁器は、白百合のように清らかで、透き通った風情を湛えている。
「小さい……」
 無意識に、くちびるからこぼれる言葉。神祇官が驚いたように顔を上げる。その表情が、ほうけたようなものに変わる。彼は目の前の神にも比した主君のかんばせに、あってゆるされるはずのない表情を見た。
「こんなにも、小さくなってしまうものか、長曾我部」
 洗い、白くなるまで晒した骨を粉にし、陶土に交える。それを秘伝の炉で焼き上げて、器とする。
 そのような秘法があると知ったから、わざわざ唐にまで人を探しに行かせた。そうして作らせた器は、波にあらわれた骨よりもさらに清らかに白かった。透き通るような白さだ。波頭の泡にも似た、白さ。その表面に、ひとしずく、水滴が落ちる。そうして初めて元就は、自分がどのような顔をしていたか、気付く。
「元就様……」
「良い。貴様は、下がれ。用があればまた呼ぶ」
「……はい」
 うろたえた表情を伏せた顔の下に隠し、神祇官はひっそりと下がった。あとは波の音だけが残る。元就はそっと、細い指先で器のふちをなぞる。滑らかな感触だった。
「あれは、神になろうぞ、海賊よ」
 元就は今日の文で、神君の墓所を築く計画を、さらに進めるよう伝えた。方位は江戸の東。表面上は今だ存命であるはずの将軍を、死後に神として祭り上げるための宮を築いている。中に祭られるのは、彼の少年。真実の、東照権現。今はわずかばかりの白い骨となり、ひっそりと安芸の宮の奥へと保管されている。
「貴様は、これから永の時を、あれを護ることとなる」
 白く、小さな器は、骨壷。
 この徳川の世が磐石となり、その世の永の繁栄を護るための神宮が完成したとき、その最奥には彼の少年が、この小さな器に収まり、神として祭り上げられることとなるだろう。
「貴様は強い無念を、後悔を、抱いて死んだ。その想いのまま、これから永く永く、その眠りを護ることで、あれに償い続けるがいい」
 無念と憎悪を抱いて死んだものが、その想いを昇華したならば、御霊と呼ばれるものとなる。償え、と命じた言葉は呪となるだろう。……元親はきっと、家康を護り続けるだろう。死して、白く清潔な骨となっても。もう二度と憎しみが家康を傷つけぬよう、争いの世がその心を哀しませぬよう、護り続けるものとなるだろう。


 ―――わかっているさ、俺がすべて悪いってことぐらいな


 この国では、昇った太陽はやがて、海へと沈む。月も星も、何ひとつとして輩とすることのできぬものを、海だけは受け入れる。そのようにして、この世は巡る。神代のころから、この世界はそうやって動いてきた。これから未来も変わることなく、太陽は海へと沈み、そして、世界は回っていくのだろう。
 これで、すべては成る。
 これで、遣り残したことは、もう、何も無い。


 ―――家康……
 

「ふふ…… は、は」
 小さな、白い器を胸に抱くようにして、元就は笑った。涙の粒がくりかえし、くりかえし、象牙の頬をこぼれおちた。
「は、は、は」
 潮騒が、聞こえる。夏の瀬戸内は、やさしい海だ。砂は白く、砂金を交えて波にきらめく。夜には、波も海ほたるに光る。ゆるゆると海流は渦を巻き、熱い風は潮の香りに交えて遠い国の空気を運んでくる。
 しかしもう、その海を誰よりも愛したものは、いない。白い帆を満杯に張り、好天を喜び、汗をきらめかせて櫂を漕ぐものたちは、どこにもいなくなってしまったのだ。
 元就は、小さな白い器を掌に、笑った。声を上げ笑いながら、泣いた。


  ―――虫の好かぬ男だ。最期まで。


 潮騒と嗚咽とは、ひそやかに、響き続ける。

 





毛利元就、最初で最期の恋の終わり



BACK