/回帰潮



「ぬしがそのような体に生まれついたのはな」
 と、今年で何回目かの検査入院で病院にいた我のところへ、見舞いにたずねてきた大谷はいう。
「さしずめ、前生でさぞかし悪行を重ねた報いに相違なかろ。さもなくば、ぬしにばかりそうも病と不幸が降り注ぐはずもあるまい」
「おそらく、その通りであろうよ」
「あきらめよ。何もかもぬしの行いのせいよ」
 ヒッヒッヒ、と独特の吸い込むような笑い方をして、しゃりしゃりと梨の皮を剥く。おそらく大谷は、己の言っていることが正鵠を得ているなど、夢にも思っていないに違いない。
 ここ数日ばかり薬の副作用で気分が悪く、まともに食事が喉を通らない。そういって追い払おうと思ったのが、大谷はわざわざ季節外れの梨を探して買ってきた。我の好物だと知ってのことであろう。……忌々しい男である。
「それよりも刑部、我などに構っている暇があるのか。今の貴様の相方は、気難しくて手のかかる男だと言うていたであろうが」
「アレもそろそろ独り立ちを憶えねばならぬ頃合よ。いつまでもわれが手を引いて周り、あんよはじょうず、手のなるほうへ…… とは行くまい」
「もうすぐ大切な試合ではないのか?」
「無論。だからこその采配よ。地区予選がはじまるよりも前には、あれにはチームの他の連中とうまくやる方法を身に付けてもらわねば。投手だからといって何時までたってもお山の大将、といった具合では困るのよ」
「……その困った男を選んだのは、誰だ?」
「いかにも、われよ。困った、コマッタ」
 全身の血が薄くなっていて、体を動かすだけで大儀だ。体を起こせるか、といわれて、我は黙ってそっぽを向いた。大谷はまた引き笑いをして、薄く切った梨につまようじを刺してくれた。顔を隠した包帯も、相変わらずだ。皮肉まみれの持って回った言い回しも、相変わらず。だが今生の大谷吉継は、見た目に反して腹が立つほど健康な男だった。我とは、ちょうど対極にあたろう。

 あれから数百年。今は、はるか平成の御世。
 何の因果か分かったものではないが、我は、毛利元就は、ふたたび人間としての生を受けていた。

 戦もなく、餓えも貧しさもさほどはなく、ひとまずは平穏の世。そんな世の中で何の因果か、我は産まれてこの方、病院と薬とから一度も縁を切れない体として産まれてきた。母が言うには、最初に死にかけたのは生後三日。その次は二週間。これだけ何回も死に掛ければ、いい加減馴れも飽きも来る。三途の川を本当に渡りかけたのはたしか4ツのとき、そして、前生での自分が【謀神】とまで呼ばれた男だったと思い出したのも、そのときのこと。
 前生の我は、己の成すべきことをすべて成した人間であった。四歳の頭では仔細を理解することは不可能だったが、健やかで美しい肢体を持っていた己を思い、大人になったらああなれるかもしれない、と憧れるように思ったことを憶えている。とんでもない。あの後もうとうに10年が経過したが、今だに我の体は、満足に床を離れることもままならぬ。
 逆に、腹いせに我の健康まで吸い取っていったものなのか、すっかり頑健な人間になってしまいおったのが、この大谷刑部吉継だ。
 小児病棟に入院していたころ、水疱瘡をこじらせて救急車で運び込まれてきたのがこの男と知り合った縁。はじめて顔を見たとき、息が止まるかと思ったのを憶えている。己が謀殺した男であったからだ。業病に身も心も病み衰えた哀れな男。今生もまた病に苦しんで生涯を終えるか、と思い、この男には優しくしてやろう、と思ったのが運の尽き。ひと夏入院したらあっさりと全快した大谷は、体中に嫌なあばたを残した以外は、そのまますっかり健康な男になってしまった。しかも何故か、我に懐いた。以来腐れ縁はずっと続いている。あのとき何故この男に情などかけたのか。今生の我の采配の甘さには、自分でも嫌気がさしてくる。
「ほれ、口をあけやれ。食わせてやろう」
「要らん。自分で食えるわ」
「これは残念、ザンネン。いい年をして、赤子のように水菓子を食わされているぬしの姿がみたかったものを」
 相手は、甲子園を目指して日々捕手として体を鍛えている男である。殴ってもこっちの手が痛いだけだ。
 背中をささえられて身を起こすと、かすかな目眩と共に視界を金の薄片が舞い散る。だるい手を動かして口にいれてみると、酸味の強い梨の味が薄く引き延ばしたような吐き気を抑えてくれた。しゃりしゃりと無言でかじっていると、我が病院のテーブルに積んでおいた本をまた勝手に読み始める。
「また古文書か」
「ああ」
「母御がどこぞの図書館より、借りてきてくれたものか」
「いや兄だ。大学の書庫から持ってきたらしい」
「このような重い本、ぬしの手には余ろうになァ」
 我には、三人の兄がいる。これが全て前生での我の息子である。当然、当人たちは誰一人としてそのようなことは知らない。知らないが、情というものは記憶に付属せずについてくるものらしい。皆うっとおしいほど我に過保護である。今まで病院での生活はさんざ長く続いているが、おかげで孤独を囲ったことは一度も無かった。
「どれ、これは…… なんと、四国の地方史か。このようなものを読ませたら、われの相方など、一瞬で脳が茹で上がるわ」
「……今の、貴様のバッテリーは、なんという名だった?」
 大谷は少し不審そうな顔をして、名前を言う。石田三成ではない。性格や容姿を聞くに、おそらく、その転生でもあるまい。
「ぬしはこのことばかりは、幾度も聞きやるなァ」
「別に、貴様のような性格の悪い男につきあわされている、不幸な人間が哀れなだけよ」





 ―――あの頃の人々は今、いったい、どこにいるのだろうか。
 年齢が、あの頃の我に近づいているせいだろうか。次第に記憶は鮮明になり、あの頃の出来事が夜毎に夢に蘇る。地面を蹴る健やかな足の感触、全身をうごかすしなやかなばね。太陽の光を全身に受け、その力を得るままに己の力と知略の限りを揮った前生の自分。
 今生の我は、ただの一度も走ったことは無い。そもそも走れるように、この体は、出来ていない。歩くときには杖が要る。金属で出来た装具がいる。あまり長い時間日の光に当たっていると目眩がする。だが代わりに、今生の我は、無数の『絆』とやらの糸に縛られている。否、この言い方は公平ではない。今生の我は、前生の孤独を埋め合わせるかのように、溢れんばかりに愛される人間として生まれた。
 過保護な三人の兄と、いやになるほど情の深い父母。父親は、かつての鬼島津である。母親は、なんとあの暗の官兵衛である。(母親の正体に気付いた時は、さすがにショックで卒倒した。そしてそのまま入院させられた) さらに、インフルエンザで数日ほど入院したときの縁で知り合って以来、頻繁に我に逢いに来るようになった小娘がひとりいる。これは伊予の鶴姫である。鶴姫だけは我と同じように前生の記憶を持ち合わせている。おかげでどうやっても、縁が切れない。気が付いたらこれだけの人数が我の周りにたかっている。自分の身の回りのこともままならぬ身では、うっとおしい、と一蹴することもできぬ。
 我にとり、健やかな体の代償が、この人々だった。大谷にとり、健やかな体を手に入れた代わりに、前生を思い出せぬのが代償であるのやもしれぬ。今生の大谷も、気が付くと短気で天才肌で、どこかしら子どもじみた人間の面倒ばかり見たがっているように思える。ようするに、石田三成のような人間だ。大谷も、寂しいのやもしれなかった。瑣末な代償だと我は思う。瑣末な代わりに、すこし哀しい代償。
 
 ならばこの世のどこかに、今もあの頃の人々が、いるのだろうか。
 何らかの形で代償を支払いながら、どこかで生きて、暮らしているのだろうか。
 
 お市ちゃんやねえさまが、どうしているか、知りたいんです。鶴姫は無邪気に、けれど真剣な様子で、そう言っていた。
「ねえさまはあまり心配していません。前生でも、後悔無く、きっぱりとした生涯を送りました。でもお市ちゃんは……」
 不幸になった人間は、その分だけ幸福を手に入れているはずだと、鶴姫は言う。はたして、鶴姫の言うとおりだった。鶴姫が件の女を見つけたとき、彼女は妊娠四ヶ月の腹を抱えて優しい夫に付き添われていた。その夫が誰なのかは、言うまでもあるまい。鶴姫はちゃっかりと若夫婦の友人に納まり、今は、幼い娘が次第に大きくなっていく様子に夢中だ。
 
 不幸になった人間は、その分の幸福を。
 鶴姫の持論が正しいのならば、我には、探さねばならぬ人間がいる。きっと幸福に暮らしているはずだ。あれほど、前生で悲歎にまみれて死んだのだから。逢ってどうする、と思っているわけでもない。どうも、しようがない。たとい記憶があったとしても、今生と前生は別物である。我には謝る必要も、権利も無い。
 ただ、知りたいだけだ。
 アレは、どこでどのように、暮らしているのか。
 どのように幸福なのか。どのように償われているのか。我がこの身ではらった代償が、あれに、どのような形で支払われているのかを。





 ……ふいに、ぶぶぶ、ぶぶぶ、と振動音がする。
「大谷。病院では携帯電話の電源を切れ」
「あいすまぬ。……ハテ、これは、これは?」
 携帯電話の画面をたしかめ、大谷は小首をかしげる。「これは困った、コマッタ」とかなり本気の口調でつぶやく。「どうした?」と我は問い返す。
「毛利よ。ぬしに見舞いがきやったぞ」
「見舞い? 誰だ」
「ぬしの知らぬものどもよ」
 我は眉を寄せる。名前も知らない人間に、見舞いにこられる義理は無い。
「先だって、隣の県の高校と、練習試合があってな。そこの主将と一年の投手がひどく馴れ馴れしいやつばらで、うっかり主のことを話してしもうたのよ」
 馴れ馴れしいと分かるくらい、親しく話したということか。酔狂なことだ。
「……それが、来た、と?」
「そのとおり。幼馴染が病弱で、寝付いて床を満足に離れることも出来ぬと言ったら、己らも友達になってやろうと酷く盛り上がりよっての」
 我は思わず額を押さえた。
「我は病気だ、といって追い返せ」
「もう下のバス停まで来ておるわ。いまさらどうにもならぬ」
 昔どこかで言ったことがあるような科白だったが、今回はどうにも通じていない。大谷はまた可笑しそうに笑った。
「マア、そう嫌がるな。なかなか面白い連中よ。動物園が出張し、尋ねてきてくれたと思えばよかろ」
 大谷は立ち上がる。ついでに、ちかくにかけてあった上着を渡してくれた。さすがに寝巻き姿で見知らぬ相手に会うのは気が憚られる。大谷が部屋を出ているあいだに体を起こし、上着に袖を通そうとし…… 点滴を打っていたことを思い出し、諦める。遺憾なことに、こういったことはこれが初めてではないので、別に気後れは感じなかった。
 部屋のドアが開き、声が聞こえるまでは。
「すまんなあ大谷、元親がどうしてもメロンが食いたいといって聞かなくて」
「何言ってんだよ家康、見舞いつったら果物だろ。俺ァ一回こういうでけぇ果物籠を食ってみたくて」
「やれ、それは見舞いとは言わぬ。ぬしが食いたいだけという」
「だよなぁー」
「な、なんだよ。二人してよぅ」
 ……薄い胸の中で、脆い心臓が跳ねる。
 まだ見えない。カーテンが邪魔で。けれど、わいわいと言い交わしながら、大股でこちらに近づいてくる気配がする。聞き覚えのある声。歩調。あのあたりにまで漲るような快活さ、陽気さ。憶えている、おぼえている。この体では、一度も触れたことの無い海の飛沫の感触、匂い。眩しい昼の光と頬を撫でる潮風。憶えている、憶えている、おぼえている―――
 カーテンが開く。潮の匂いが強くなる。
「煩くてすまぬ、毛利。このやかましいやつばらが、件の他校の連中よ」
「お初にお目にかかる! それがし徳川家康と申す。それで、こっちが」
 喉の奥から、かすれた声が、押し出される。
「……もとちか」
 出鼻をくじかれて、目を丸くする顔。
 髪が、白い。肩が広く、背が高く、逞しい。眼帯を、つけている。もともと白い肌が日に焦がされ、うっすらと赤らんで見える。ひとみの色は、すみれ色だ。忘れたことなど無い。生まれる前から一度だって。
「元親」
「お、おう。俺は、長曾我部元親だ。……えぇとあんたは、毛利……?」
 頷いた。無様なことと分かっていたが、もう、言葉が出なかった。目の奥が熱くなる。喉の奥に砂利が詰まる。目の前に、あの男がいる。あの快活さも、陽気さも、全てが記憶のそのままに、五体満足のあの男が、ここに、いる。
「大谷。元親のこと、話してたのか?」
「いいや。……どうした、毛利。気分でも悪くなったか」
 首を横に振る。言葉が出てこない。あの男は、とたんに、叱られた犬のように不安げな顔になって、あわててベットの傍までやってくる。我の背中を手でさする。かつては潮で、今はおそらくは土で汚れた、肉刺だらけの硬い掌。
「うるさくしちまったのが悪かったか? おい、大丈夫か、ええっと……元就? どっか痛いのか? 泣くほど、辛ェか?」
「……いや」
 我はやっと、ひとことを、喉から搾り出す。

「泣くほど、嬉しいだけだ」



【fin】





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