今日も今日とてしあわせリレー






 朝起きると、わたしは今日もわたしだった。普通のことで当たり前のことなんだと思うけど、なんだか嬉しい。とっても嬉しい。
 


 まだ窓を曇らせた朝もやの消えない刻限に、病院から払い下げられた鉄枠ベットの上で、目を覚ましたばかりの少女が起き上がり、ぺたぺたと自分の胸や頭を触り、それから、まだ夢のさめやらぬ幸福に満ちた顔で、ふんにゃりと微笑む。誰も見てはいなかったけれど、それはまるで古い童話の挿絵のように幸福に充ちた一ページだった。
 少女の名前はティナ。
 彼女の一日は、こうやって、今日も幸せといっしょに始まる。



 ティナの髪の毛は、細くてふわふわとやわらかく、その上たっぷりとした量感のある癖っ毛だ。言ってしまえば頭の上に生まれつき綿飴をかぶっているのと同じである。目の粗いブラシでなんとかして撫で付けようとするも今朝も失敗した。ちょっとがっかりしながら、制服に着替えて食堂へ出る。
「あ、ティナ。おはよう」
「セシル先輩。おはようございます」
 食堂へ行くと、そこには、背の高く色の白い青年がひとりいた。寮監のゴルベーザ先生の弟、セシル・ハーヴィだ。ティナがいつものように席に着くと、セシルはすぐに、ティナ用のマグカップへとミルクたっぷりのあたたかい紅茶を注いでくれる。トーストの上に目玉焼きが乗せられ、ついでにソーセージまでくっついたプレートはきちんとあたためてある。水菜とサラダほうれんそうとルッコラのサラダにはたっぷりとちりめんじゃこが振りかけられている。これだけで誰が作ったかわかろうというものだ。
「セシル先輩、今日は、お泊りだったんですか?」
「うん。兄さんが帰り遅くて…… どうせお弁当も朝ごはんも作るんだしね。ティナ、ドレッシングは何がいい?」
「ありがとう。ゆず下さい」
 ティナがほっぺたをリスのように膨らませて、目玉焼き乗せトーストをほおばっているところを、セシルはテーブルの向こうからにこにこと嬉しそうに眺めていた。白いシャツにネクタイをきつめにしめて、代わりにアイボリーのセーターは袖が余るくらいぶかぶかたっぷりとしている。どちらかというと長身のセシルでもこうなんだから、たぶん、もともとあのセーターを着てたひとはとっても大きな人だったんだろう、とティナはいつも思う。たとえば熊さんみたいにおおきな人だったんだろう。そういう生徒だって学園にはいるのだ。
「ティナ、今日は早番?」
「ひゃい。…ふぉの」
「あ、食べてからでいいから!」
 セシルがちょっとあわてた様子でぱたぱたと手を振る。ティナはしばらくもぐもぐと口を動かして、ごっくん、と口いっぱいの目玉焼きトーストを飲み込んだ。
「その、わたし今日は早めに図書館なんです。あたらしい本が昨日入ったから」
 ティナは、図書委員だ。ついでにいうとその仕事以上に図書館という場所が気に入っていた。この学園は歴史も建物もぼろぼろになるくらい古いから、図書館の建物なんかは博物館にもなりそうなくらい年季が入っている。天井には飾り漆喰、窓にはステンドグラス。埃くさくて生徒たちにはちょっと敬遠されているけれど、ティナにとってはお気に入りの場所だ。
「ダンボールを開けて、先に中身を確認しておきたいなって……」
「そっか。そうすれば、午後からの活動が楽になるものね」
「あの、わたしが行かなくても、司書の先生がやってくれると思うんですけど」
「でも何があるか、気になるんだろ?」
 その通りだ。セシルはなんだってお見通しだと、ティナは尊敬のまなざしを向ける。セシルは苦笑する。
「ティナの考えていることってわかりやすいからねぇ」
「そう、なんですか?」
「うんそう。……ところでその髪、結ぼうか?」
「あ…… ありがとうございます」
 セシルの髪の毛も、癖っ毛の猫っ毛でおまけにふわふわだ。長く伸ばしているものだからいつも寝癖に苦労しているんだろう。立ち上がり後ろに回ってきたセシルは、受け取ったブラシで、亜麻色をしたティナの髪をていねいにくしけずりはじめる。もつれて毛玉になった髪をひっぱられるのがどれだけ痛いか、そして後でめんどくさいかを身をもって知っているセシルなら、こうやって任せても安心だ。思わず笑みがこぼれる。セシルが「どうしたの?」と問いかけてくる。
「ううん、なんでもないです」
 今日はしあわせ二つ目。セシル先輩が、朝からおかあさんみたいにやさしくしてくれた。
 いちにちのはじめにいいことがあった日は、それからいいことがたくさん一緒にくっついてくる。ティナの持論でジンクスだった。露草をひっこぬくのと同じ。力を込めて一輪目を抜いたら、ほかのお花もいっしょになってくっついてくる。
 いうことをうまく聞いてくれない髪の毛を根気よくなだめて、セシルは、ティナのお気に入りである水紅色のリボンを手に取る。ティナはサラダを大きな口でほおばる。しゃきしゃき新しい葉っぱを、ティナは、ウサギみたいにもぐもぐと口いっぱい頬張った。



 寮には朝の弱い子もいるから、セシルは遅刻しないぎりぎりの時間まで食堂にいるつもりだと言っていた。ありがとうございますを言って寮を出る。寮から学校までは森の中を歩いて10分。学校の周りをぐるぐる回らないといけないから、初等部から大学まで全部を確認してからやっと、後者にたどり着くことになる。
 朝らしくやかましいニワトリ小屋に挨拶をして、学校の構内を縄張りにしている太った猫に挨拶をする。それからようやく図書館にたどりついてもまだ登校時間まで30分以上はある。前に回ってもドアが開いていなかった… ちょっと困る。ティナがしばらく迷った末、本の返却用の小窓に頭をつっこんでいると、後ろからあきれ返った声がした。
「何をやっているのじゃ、そこの小娘」
「あ、先生……」
 まるで香料みたいに、深みがあるくせに甘く薫り高い声だ。だが、後ろから声をかけられた時点で、すでにティナは肩まで小窓に体をつっこんでいてしまっていた。前にもいかない、後ろにも戻らない。うんうん言いながらティナが苦労しているうちに、通称《先生》、アルバイトの司書である彼女は、重たい鍵を使って正しいドアを開けてしまっていた。
「ぬ、抜けな……」
「しばらくそこでもがいておれ。チョロチョロされるよりはマシであろうからの」
「せんせい〜」
「あと、いつも白では芸が無いのう。たまには縞でも履けばよいものを」
「―――!!」
 くっくっく、と喉で笑う妙齢の美女。ティナは力を込めてなんとか上半身を返却口からひっこぬいた。ブレザーのボタンが一個取れてしまった。しょんぼりしながら通用口に回ってくるティナを、彼女は、いつものように楽しげな目で眺めやっている。
 司書の先生、自称、《暗闇の雲》。本名なのか冗談なのか見当が付かない。しかたないのでティナは彼女のことを《先生》と呼んだり、《雲さん》と呼んだりしていた。《雲》は象牙色の肌とこぼれおちそうに豊満な体つき、うつくしい髪をした美女だったが、知識の深さと落ち着きすぎた所作、ついでにいうと奇妙に婆むさい口調のせいでさっぱり年齢が分からない。本人いわく「わしはもう婆あじゃ」とのことだったが、今日もティナにはちっともそんな風には見えなかった。
「先生、今日、あたらしい本が届いたって……」
「ああ、リクエストのあった…… なんじゃ小娘、今日はそれが目当てか?」
 残念じゃのう、と《雲》は唇に指を当てる。
「荷物は届いてるかもしれんが、事務員がこないと図書館には届かんぞ。正門が開くのを待たねば」
「あっ、あー……」
「釦の取れ損じゃのう。さても、哀れなことよ」
 《雲》に同情めいた口調をかけられて、ティナはしょんぼりと落ち込んだ。今日はしあわせマイナス一個。うっかりしてしまっていたらしい。考えてみれば、《雲》の言うとおりだ。
「ごめんなさい……」
「そちのような娘が、若い身空で年寄りのように早起きなどせんでもよかろうに」
「うぅ……」
「眠りの深い若者は、臥所で惰眠をむさぼっておればよかろうものを。早起きなどはわしのような婆あにまかせておればよいのじゃ。まぁ、今後は覚えておくことじゃの」
 《雲》の言うことは説教なのか同情なのかよく分からない。「すいませんでした」と頭を下げて、ティナはそのままとぼとぼと図書館を出て行こうとした。けれども。
「―――あぁ、そういえば」
 ふと、ティナの後ろで、《雲》がはたと手を打った。
 ティナが肩越しに振り返ると、《雲》はなにやら鞄の中にごそごそと手を入れる。なにかを取り出したと思ったら一冊の薄い文庫本だった。なんだろう? 《雲》が差し出した本は、表紙がセピア色にあせている。ぱちくりと目を瞬くティナに、《雲》はふわりと笑った。
「《タイタス・アンドロニカス》」
「……って、タイトル、なんですか?」
「おお、そうよ。血なまぐさいシェークスピア初期の悲劇じゃ。ごろごろと首の転がる酸鼻を極めた珍品じゃ。おかげで昨今はすっかりすたれてしもうて、本屋で探すにも苦労するわ」
 雲は、めんくらうティナに向かって、いかにも不器用な感じで片目をつぶってみせた。ほとんど両目をつぶっていた。ウインクのつもりらしかった。
「不肖の孫めがの」
 ティナは、とたん、弾かれたように顔を上げた。
「英詩の授業でシェークスピアをやれと言われ、こともあろうにこれを題材に選びよった。選んだはいいが資料がないとわしにむかって泣きつきよる」
「!!」
「探してきてやったものの、あやつめ、チョロチョロと落ち着きがなくてまともにわしに頭を下げにすら来ん始末よ。もう愛想も尽きたわ。この本はお前が探したことにしてしまえ」
 ティナは、そっと本を受け取った。ひらくと綴じがほどけてページがこぼれてしまいそうだった。ティナは思わず、本をぎゅっと胸に抱きしめる。顔いっぱいに笑みがこぼれる。
「じゃあ、わたしはこれを、オニオンに渡してくればいいんですね?」
「受け取った代金は駄賃じゃ。カルメ焼きでも買って食え」
「ありがとうございます……!」
 上品に、けれど何処かしらいたずらっぽく笑って、《雲》はくるりと椅子を回した。ティナはポニーテールに結った髪を揺らして、勢いよく頭を下げた。
 オニオン。どういう関係か分からないけれど、《雲》とはお互いに悪態を付き合う仲の少年。12歳の男の子。ティナの、たぶんボーイフレンド。そういう言葉の意味もよくわからないティナの、たぶん今、いちばん好きな人。
 うれしい。会いに行く理由が出来た。勉強家で負けん気の塊みたいな彼だから、《雲》の言うとおりなら、今頃英語の研究室があるあたりに詰めて、猛然とテキストに噛み付いているころだろう。これをもっていったら喜んでくれるかな。ちょっと見たところ、レトロな書体の英文と並んで、旧字体が並んでいた。これがあったらきっと参考になるだろう。喜んでくれると思う。きっと喜んでくれるはず。
 うれしい。朝から、これでしあわせが三つ目。オニオンに会えたら四つ目。喜んでもらえたら五つ目。なんだか、どんどんしあわせがつながってきてくれる。まるで真珠のネックレスみたいに。
 ティナは、肩越しにひらひらと手を振る《雲》にもう一度会釈をして、図書館を飛び出した。足取りはぱたぱた子犬のように軽い。今日はこれからあの子に会える。今日は朝からこんなにいい日。






 ティナ・ブランフォードの学園生活は、今日も、こんな具合に過ぎていく。







セクシーばあちゃんとふわふわ少女。ティナさんは今日も朝からしあわせ。