グリーングリーン 長い長い時間が立っていた。まぼろしでも見たような気持ちでたたずむ水のほとり。 空は薄水色に晴れている。緑色のやわらかく濁った水の表には、あたりに望む山々の鏡像。面影は印象派が描く柔らかさをまとって写りこんでいる。まだ己の運命が信じられない様子で赤剥けた膚をさらした斜面。春の木立。百舌の鳴き声。 しばらく雨が降っていなかった。巨大なコンクリートの堰からは細く流れる水が黒い帯を描いている。ダムにはまだ、滔々と水が湛えられていた。今年の梅雨が乾いていたとしても、これだけの深さがあるのだったら、その奥に沈められたものが姿を見せることはないだろう。 笑えばいいのか泣けばいいのか。彼はそのことに、ひどく頭を悩ませた。 思い出す。木々に埋もれるようにして、ゆっくりと忘れられていく山奥の寒村。桃や梅が多かった。寒さがゆるむころには畑が赤から淡紅までの靄のようになった。左右から覆いかぶさるような山々は夜中に毛布を着せ掛けようとする母の腕のようだった。道路が割れていた。管理が悪くてアスファルトが荒れていたのだ。自転車で走るとすぐに尻が痛くなった。みんな大いに笑ったものだった。がたがたと自転車が跳ねるたび、籠につっこんだバットが跳ねた。 鉄条網がいたるところに張り巡らされていた。大人たちは気性が荒く興奮するとすぐに殴りあった。あれはやくざと言うべきか、作り物のように訛りの濃い男たちの姿をよく見かけた。診療所のガラスが割れるときには不思議なほど澄んだ音がした。ぱりん、ぱりん。母が膝をかがめてガラスを片付けていた。その細い方。おぼろげな記憶。 「バッツ」 呼びかけられて、振り返った。そこには少女が立っている。少女……? いや、もう少女だ。子どもじゃない。彼は、バッツは、顔をほころばせた。 「もしかして、クルル?」 「久しぶり。レナおねえちゃんたちに、ここに来てるって聞いたんだ」 「ん」 癖のある金髪を頭の後ろでゆわえて、白いやわらかそうなワンピース、カナリアの羽の色をしたカーディガンを着ていた。昔はほんの子どもだった。けれど、今は手足が細くてもしなやかに伸びて、ワンピースの襟から見える喉首がやわらかい曲線を描き始めている。バッツは、思わず眼を細めた。 「きれいになったなあ…… 誰かと思ったよ」 「やだな、そういう言い方やめてよ」 くすくすと笑いながら、少女は、クルルは、バッツの腰の辺りを小突いた。笑いながら逃げる。しつこくつっついてくる。そんなやりとりが時間の経過が作り出すぎこちなさを一瞬で溶かす。紅茶に落とした角砂糖のように。 「おねえちゃんたちと同じ学校って聞いたよ」 「ああ。相変わらず手ごわいぜ、ファリスもレナも」 「え、また部活やってるの?」 「ううん。でもさ、なんだかんだで目立つから、あいつら」 「バッツもでしょ?」 「べっつにー?」 バッツは肩をすくめて見せる。クルルは可笑しそうに笑った。声はきらきらとしていて、小鳥のさえずりのようだ。 「でも、とにかくよかった。元気そうで。おじいちゃんも心配してたもん」 「何言ってんだ。おれはいつでも元気だぜ?」 水面を、ふいに、風が渡ってくる。森の匂いと、日向で温んだ水の匂いがする。うなじのやわらかい毛をやさしく撫でる。バッツは眼を細めた。 「きれいになっちまったんだな」 「うん……」 水の匂いがするだけだ。桃の花の香りも、梅の花の香りもしない。割れたガラスや誰かの怒りの匂いも。 短く目を閉じる。バッツは、思い出した。ほんの短い故郷の思い出。幼馴染たちとのあどけなく罪のない日々。人々のいさかい。母の涙。すべてをくるみこんで何もかもを許し何にも意味を与えてはくれない木々の匂い。 すべて、遠い日々の話だ。 ふいに、クルルの表情に後悔のようなものが走る。「バッツ、あのね」と何かを言いかけた。けれど。 「あのさクルル、ここ、釣りとかできる?」 まるでさえぎるように、大きな声で、能天気なことを言われる。 「釣り?」 「うん、そう。いかにも大物が居そうじゃんか」 「―――まだ、無理だよ。ダムだもん。魚なんてちょこっとしかいないよ」 「そうか? ファリスとかだったら、ネッシーとか釣れない?」 「無理だよ〜」 バッツはにやにやしながら、クルルのうなじのあたりをつっつく。クルルは口をへの字に曲げて逃げようとする。しつこくつっつく。しまいにクルルは、笑いながら、手を振り回してバッツを振り払おうとし始める。 「もー、やだー、やめろー。セクハラだよー」 「おっ、いうようになったじゃん」 「バッツのばーか! おバカー!」 二人できゃあきゃあと騒ぎながらお互いにお互いをおいかけまわす。子犬のようにじゃれあう声のほか、何も聞こえない。山奥の静かなダム。風が吹くとやわらかい緑の水面がざわめき、印象派の絵画のような木々の姿を、うつくしくゆらめかせる。 すべての喜び悲しみは、水の奥深く、今はただ静かに眠っている。 ある朝ぼくは目覚めてそして知ったよ この世につらく哀しいことがあるってことを |