見知らぬ空







 夜中になって水浴びをしてテントに戻ってくる。今日はあとは交代で見張りを立てて寝るだけだ。そんないつもの日の、あるときの話。
 ティーダが見つけたのは、すでに熾火に落とされた焚き火のそばでなにやら背中を丸めてうずくまっている後姿だった。薄茶色の髪。それが、薄い光を逆光に受けて、白雲母のようなきらきらした色に映えている。
「どしたんッスか?」
「わっ!?」
 ひょいと後ろから手元を覗き込むと、バッツは、文字通り、ぴょんと飛び上がりそうなくらいに驚いた。おかしい。ティーダは笑いを抑えながらバッツの手元を覗き込む。驚いた拍子にとっさにかかえこんだらしい何かを、バッツは、胸にぎゅっと抱きしめていた。
「え、何、何。なんかいいもん見てたの?」
「いや良いもんだけど…… それより! 脅かすなよ! 顔から焚き火につっこむかと思ったじゃないかよー」
 ぶーぶーと文句を言うバッツは、やっぱり、子どもっぽい。それより、そんなにびっくりしなきゃいいのに。それとも、そんなに手元の宝物に集中していたんだろうか?
「焚き火に顔は怖いッスね」
「怖いっつうか、やばいだろ。ジューっていうぞ、じゅうううって」
「うげえ」
「分かったなら反省しろよな」
 口を尖らせるバッツの隣に、ティーダはすとんと腰を下ろす。火の匂いがする。青灰色の目で、いかにも興味津々という風に手元を覗き込んでくるティーダに、バッツは、「これ」と手元の何かを広げてくれた。紙だろうか? 巻き癖のついた薄っぺらいものだった。ティーダは首をかしげる。
「なんスか、そのこ汚い紙」
「こ汚いってゆーな。最近の若いやつは…… これさ、地図。セシルが見つけたけどいらないっていうから、別のアイテムと交換してもらったんだ」
 地図? ティーダはバッツの手元を覗き込む。言われてみれば確かに、半ばかすれかけた線が紙の表に残っているのが分かった。はがれかけた箔押しの飾り、わずかに残った青い顔料が海の部分を彩り、赤や緑がすこしだけ残っている。バッツはうれしそうに指で地図をなぞる。
「これ、海図かな。港が書いてあって、海に線が引いてあるから、航路の図だとおもうんだ」
「へーえ!」
「こっちが南で、こっちが北。ってことはたぶん、これが海流を示してるんじゃないかな」
 あちら、こちらとシンプルに、けれど的確に説明をしながら、地図のあちこちを教えてくれる。言われたとおりに見ていると、ただの薄汚れた紙にしか見えなかったものが、あっという間に『地図』に見えてくる。地図。本来なら記述することのできないはずのものを、紙の上に記録しようとした結果。熱心に指で地図をおさえているバッツをちらりと横目で見ると、焚き火のちらつきを受けた目がきらきらと光っていた。いつものことだけど、とティーダは思う。
 ―――まるで、子どもみたいなひとだなあ。
「これ、どこの地図なんッスか? このあたり海って見ないッスよね」
「知らないなぁ。たぶん、すごい遠くだと思う。おれも見たこと無い地形だし」
「なんか、宝物の地図とか」
「違うよ。ただの海図だろ」
 行ったことのない、行く予定もない土地の、地図。そう思うとバッツのはしゃぎようがなんだか不可解だ。ティーダは思わず首をひねる。
「それ、なんに使うんッスか?」
 バッツは顔をあげた。ティーダは首をひねる。まだ少し濡れた髪を、片手でひっかきながら。
「すんごい遠くの、行く予定も行く必要も無い場所の地図って…… それ、バッツはどうしようと思ったんッスか」
「どうしよう、って……」
「なんに使うのかわかんない」
「ストレートだなあ」
 バッツは苦笑する。ストレートというよりも、むしろ、失礼だったかな、とティーダはふと思った。こういうことを言うとスコールやフリオニールなら怒るし、セシルやライトだったら説教モノなのだ。しかしティーダはバッツが他人に対して怒っているところをあまり見たことがない。というよりも、記憶を探る限り、そんなところは一度も見たことがないような気がした。
 そんなところが、子どもっぽいと思うのかな、とティーダはふと思う。周り中から失礼だと怒られるが、ティーダだって人間の上下関係くらいちゃんと知っている。年上は年下に説教くさいのが普通。だから、誰を相手にしても絶対に上としてふるまおうとしないバッツは、なんだか妙に子どもに見えるのかもしれない。
「地図は面白いよ。いろいろ想像できるだろ?」
「よくわかんないッス……」
「ほら、だってさ、『地図がある』ってことは、そこに行った誰かがいるってことじゃないか。知らない土地だけど誰かが住んでて、行くことが出来て、知らない何かがあるんだよ。すっげえことだろ?」
「うーん」
 納得がいかない顔でしきりに首をひねっているティーダに、バッツは、「たとえばさ……」と指を伸ばす。もうかすれかけた青い線のひとつを押さえる。
「ほらここ。島がある。こうやって、首飾りの石みたいにつながってくっついて、斜めに延びてる」
「あ、ほんとだ」
「こういう土地って多いんだよ。大きい島や小さい島がつながってるんだ。そういう場所だと、島同士を船で行き来したりして、よく似た人たちが住んでるのに微妙に違う暮らし方をしてたりする」
「へえええええ」
「よくあるのは、使ってる布とかの織り模様が違うとかさ。あと、祭事のときにあげる祝詞に違う言葉が入ってたりってパターン。それに島ごとにすんでる生き物がちょっとづつ違うこともある」
 バッツは、指で地図をなぞりながら、まるで、明日にも旅立つ場所について話すような、熱心な口ぶりになっていた。ティーダも知らず知らずのうちに引き込まれてしまう。ただの、かすれかけた一枚の地図。それが、身振りや言葉で広げられるだけで、あっという間に何十倍、何百倍もの大きさをもったランドスケープとして、想像の中に広がっていく。
「これ、海流だと思う。だからこのあたりだと、ここからこっちにかけては簡単に移動できるんだろうな。ところが、こっちだとちょっとルートがずれると外海に出ちまう。外海は小さな船だと行き来できない」
「じゃあ、大きな船で行きゃいいんじゃないんッスか?」
「それにはここの島の間が狭いんだ。大きな帆をかける船だったら通り抜けるのは難しいな」
「それじゃ、普通の船じゃ、ここから外には出られないんだ……」
「考えられるのは、最初から外海に面した場所で船を建造すること。で、そうじゃなかったら、海流に逆らって自分で泳げるような生き物に乗っけてもらうしかない」
「そんなん、いるの!?」
「いるかもしれないし、いないかも。でもおれだったら探しに行っちゃうな。こっちが気になるからさ」
 ここに、とバッツは楽しげに指で別の場所を押さえる。
「この海峡はすごく狭いから、たぶん、島からこっちの半島が見えるよ。隣の大陸だ。見えるのに行けないって、すごく気になるじゃないか。おれだったら、行きたくなっちまうだろなぁ。あたらしい土地って」
「あたらしい土地……」
「気にならないか?」
 バッツは悪戯っぽく目をくるりと動かしてみせた。薄いあめ色の目。きらきらした薄茶色。
「晴れた日に高いところとかに立ったら、遠くに、ちょっとだけ島影が見えるんだ。鳥なら行き来できる距離だよ。でも、行けない。海流に邪魔されるから」
「……」
「気にならないか?」
 バッツの声がはずんでいた。ティーダは一瞬、ほんの一瞬だけ、そんな光景を、まるで本当に見たかのような気持ちになる。
 緑豊かな孤島。波頭の白から淡い緑、より深い碧、そして深みの青へと、万色を抱いてはるかへと広がる海。地球の形にしなる水平線。
 海鳥の声、きらめくように白い翼。海鳴り。波の音。嵐の夜には帆のように翻り、暗雲に紫電のきらめく空。
 誰かの歌。哀しくも美しい祭祀。少女の舞。
 遠くにかすむ島影。
「……うん、すごく、気になる」
 ふと、ティーダがつぶやくから、バッツは目を瞬いた。けれど何も言わなかった。ほんの一瞬だけ気遣わしげにティーダの顔を覗き込む。だが、次の瞬間には、くしゃりと髪をなで上げられている。日焼けした額をぐいとむき出しにされて、「わ!」と声を上げてしまう。
「ティーダって、なんか、海のそばの生まれって気がするな」
「そ、そう?」
「うん。日焼けしてるし、潮焼けもしてるし」
 バッツは、ティーダの顔を覗き込んで、ニッと笑う。やっぱりティーダには、『子どもっぽい』と思える、屈託のない笑顔だった。
「いいな。行ってみたい。ティーダの海って、きっと、おれの知らない海なんだろうし」
「知らない海……」
「おれ、知らない場所が好きでしょうがないんだよ。旅人だからな」
 ぱっ、と手を離し、ついでに指で鼻先をぱちんとはじいていく。ティーダは思わず目を白黒させた。バッツは声を上げて楽しそうに笑った。


 それからちょっと話をして、眠気が差してきたので寝床に戻ることにする。そうして火の近くをはなれたティーダは、テントの後ろのあたりで別の仲間と鉢合わせをした。真珠色の髪。セシルだった。
「あれ、ティーダ。まだ起きてたの」
 長くてふわふわした髪が、まだわずかに水気を残して肩のあたりにおちていた。なんだか、触るだけで傷をつけてしまいそうで、指を伸ばすことすらためらわれる風情。「うん」とティーダは素直にうなずく。
「なんか話してたら楽しくなっちゃって…… でも、もう寝るッス」
「そうか」
 セシルは目を細めた。そして、火のほうを少し見る。バッツはまだそこにいて、背中を丸めるようにして、熱心に地図に見入っていた。明かりに影がゆれていた。
「セシルからもらった地図を見てたみたいッス。すごく楽しそうだった」
「ああ、あれ。……すごく熱心にねだられたからなあ」
 セシルはちょっと困り顔をする。簡単に想像できすぎて、ティーダは思わず笑ってしまった。
「知らない場所が好きで好きでしょうがないんだって。むちゃくちゃ楽しそうだったッスよ」
「そう……」
「……セシル?」
 ふと、白い面差しの青年が、ひどく複雑な表情でバッツの後姿を見ていたと気づく。ティーダは首をかしげる。セシルは振り返り、困ったようにちょっと笑った。
「ああ、いや。バッツが少しうらやましかったんだ」
「オレもッス」
「ティーダでもなんだ」
「セシル、オレのことなんだと思ってるんだよー」
 ティーダは素直にそう思う。目を閉じる。一度、胸の中に感じた記憶を再生しようとする。けれど無理だった。自分には、バッツのように生き生きと、見知らぬ場所を思うことはとてもできない、とティーダは思う。けれど。
「でも、ちょっと可哀想でもあるよ」
「え?」
 セシルが意外なことをつぶやくから、ティーダは目を瞬く。セシルはじっと、焚き火の前に座ったバッツの背中を見つめていた。
「見知らぬ場所が好き、か。……それじゃ、バッツには、足を止めることなんて絶対にできないんだろうね」
 そんなこと、考えてもいなかった。
 ティーダは胸に驚きを感じる。思わずふりかえる。バッツの影がちいさな炎にゆらめいていた。セシルは独り言のようにつぶやく。
「バッツがあんなに無邪気でいられるのは、きっと、自由に愛されているからなんだろうね」
 移り気な風のような心。どこにいても、常に遠くを思わずにはいられない。たとえ安らぎの中で愛する人々のもとに憩っていても、夜ごとに、夢の中に見知らぬ空を探さずにはいられない。
「生きることのいちばんシンプルな喜びと悲しみだけが、バッツにとってはリアルなんだろうね。うらやましいけど、なんだか、少し可哀想なことのような気もするんだ。……まぁ、僕らしい考えすぎかもしれないけど」
 セシルは最後はちょっと冗談めかして言って、苦笑混じりに笑う。けれどティーダは笑う気持ちにはなれなかった。夢中で地図を見つめる背中を、思わず、じっと見詰める。
 バッツは、そんな仲間たちの視線になど、気づく気配もなかった。大好きな見知らぬ場所、遠いどこかに想像することに夢中なのだろう。体はここにあっても、思いは遥かを駆け巡る。そんな青年の背中は、やっぱり、どこかが小さな子どもみたいだった。
 そう思ってしまう自分に気づいて、胸のどこかがちくりと痛む。そんな自分にティーダは少なからず困惑した。










帰る場所も、たどり着く場所もない。それが旅の心。