/ピエタ



 ガラスのシリンダーが粉々に砕けて、踏み出した足の下できしんだ音を立てた。
 顔をしかめて足をどけ、指で金属の壁をえぐった傷跡をなぞる。よりにもよってまあ、ただの壁じゃなくて強化金属の防壁を切らなくてもよいものだろうに。執拗にきざみこまれた傷は深く、しかも、剃刀でえぐったもののように鋭利なものだった。こんな刃物は武器を見てまわった経験が長いバッツだって他に知らない。異様なまでに長く、鋭く、しかも鋭利だ。
《悪趣味だよな》
 彼、が悪いわけじゃないだろうと思う。あの武器を彼に手渡したのは遠い昔の知らない誰かだ。使いにくいという言葉でくくれる範囲を正直超えていた。使えるほうが正気じゃないなら、鍛造したほうはさらにおかしいのだ。あんなものは武器でもなんでもない。アイコン、というものなんだろうと思う。
 アイコン。象徴。商標。俳優。この場合は、彼を象徴するあの武器について。
 あるいは、アイコンは偶像。聖像。肖像。そして、それらにささげられる盲目的で熱烈な愛のこと。
 昔はそんな居場所から逃げようともがいたこともあったし、あるいは、誰かに描かれる偶像の中に自分を溶かし込んで平安を得ようと思ったこともあったんだろう。でも、そのどこも彼に居場所を与えなかった。今残っているのは形骸としての彼と、そして、金属の防壁をも切り刻む鋭利な刃だけ。彼は、そこにすがってなんとか自分を保とうとしているように思える。少なくとも、そこまで無残に縛られた魂を持ったことなど一度も無いバッツには、そんな風にしか思えない。哀れまれることもあがめられることも、彼はもはや望むまい。
「セフィ」
 バッツは、割れたシリンダーの陰に顔をのぞかせる。ペンキで舗装された地面がくまなく傷つけられ、数千本、数万本の銀色の針をばらまいたような陣形を描いていた。その中央に彼がいる。銀の髪が床にちらばり、合皮のコートの裾にしわが寄っていた。
「セフィ……」
 荒い呼吸。
 はあ、はあ、はあ、と息が聞こえる。彼を襲った荒れ狂うような激情はすでに去ったのだろう。心配していたような事態にはなっていないらしいと、ひとまずは安堵する。彼は無事だ。まだ生きてる。これよりもっとひどい事態なんて、今まで何度もあったじゃないか。
 銀色の髪の間から、黒く毛羽だった翼が突き出していた。猛禽の類のもつものの形、その、哀しいパロディ。鳥類がもつ空疎で軽やかな構造と、セフィロスの持っている不自然な形態はあまりに遠い。この翼は、やはり、アイコンなのだ。セフィロス自身を規定するものではあれ、どこかへと解放してくれる翼ではない。
「クラウド……」
「違うよ」
「……誰だ?」
 乱れた髪のあいだから、青い目がのぞく。青と、緑と、紫と、灰色。すべての色が入り混じり乱れる異様なひとみ。けれど美しい。そこだけはセフィロスは、いつであっても間違いなく美しいのだ。バッツはその瞳を見つめる。大丈夫。近づいても、もう斬られない。
「誰だと思う?」
「……」
「誰かな、おれは」
 床にころがった刀の柄に、びくりと、指が震えた。引きつるような動き。バッツは足を止める。敏捷な手足に緊張がはしった。いつであっても逃げられる。セフィロスの射程内で油断をするのは文字通り、命取りだ。
 だが、彼の手は、刀を握り締めはしても、振るう意思をもたなかった。武器として刀を振るうためでなく、単にすがる場所を求めてひきつる指が柄をさぐる。大丈夫。だが、その確信がいかにも苦い。バッツは苦い気持ちで力を抜く。セフィロスが、よじれた声で、「かあさん」とつぶやいた。
 どういう生き方をすれば、こんなに壊れた人間が出来上がるんだろう。人格も意思もずたずたに引き裂かれ、《英雄》を規定する拘束がはずれかけたとき、そこに覗くのは自らを縛るアイコンに頼らなくては、人間として統一された形すら保つことの出来ない悲痛な姿だ。
「かあさん」
「セフィ…… セフィロス。かわいい子」
 バッツはもはやためらわない。歩みだし、膝を突き、流れる鋼の滝のような髪の間に手を差し入れる。合皮に覆われた、端正すぎて逆に異形の肉体。誰かの理想の成れの果て。「かあさん」とまた震える声が呼んだ。さしだされる腕に答えて、バッツは手を伸ばし、彼の体をやわらかく抱く。
「セフィロス。私の愛しい子」
「……かあ、さん」
「愛しい子。あなたは私の、いちばんの宝物なの」
 自分の声で愛を語ることが、こっけいだと分かっていた。けれど彼が今一番切実に求めているものが、この《嘘》だということもまた、同時に、痛いほどに分かっていたのだ。
 己を思ってくれる人を恋うて、伸ばされる手の中から、セフィロスの求めるものを慎重に読み取っていく。彼の求める像を作る。彼の、《かあさん》を。それは女性ですらない。人ですらなかった。ひとつのイメージだ。無条件に愛し、抱きしめ、許してくれる、彼一人のための聖母のような存在。
「愛しているわ。可愛い子」
「……かあさん」
 地面を深く削った、傷だらけの文様の中心。
 黒い羽が震え、英雄は静かに嗚咽した。旅人は静かに彼の背中に手を回していた。短い時間。
 やがて、セフィロスは手をはなす。彫像のような手がゆるりと背中を離れ、銀の髪が肩をすべった。バッツは、目を上げた。そしてそこに、異様でうつくしい輝きを湛えた、二つの瞳を見つける。気遣わしげに覗きこむ。「落ち着いたか?」と声をかけた。
「ああ」
「―――良かった。今回、辛そうだったからな」
「いつから見ていた」
「最初から」
「……そうか」
 セフィロスは立ち上がる。背の翼が震え、そして畳まれ、流れる髪の中に消えた。バッツの背丈は、セフィロスの肩までくらいしかない。彼は、並外れた長身なのだ。長すぎて彼以外には扱えない得物を拾い上げ、そしてまっすぐに立ったとき、セフィロスはすでにいつもの《セフィロス》に戻っている。精緻に構築されたそのアイコンの揺るぎなさ。バッツはかすかに切なく思う。それを胸にかみ締めていると。
「世話をかけるな」
「んん?」
 普段、彼がまず口にしないような台詞だった。バッツは思わず目をまたたいた。
 こちらを見下ろすセフィロスの表情は、苦く、硬い。何か切実なものがそこにある。だが、またたきの間がすぎるとそれも消えた。いつもの、彼だ。バッツはそれを確かめる。確かめて、そして安心して、笑う。
「気にすんな。だって、友達だろ?」
 手を伸ばし、高いところにある頬に触れる。何の模倣でもない。ただ純粋に、気遣うだけのしぐさだ。
 表層だけを取り繕ったアイコンの集合体。ちぐはぐなキメラ。端正すぎる姿をした惨めな天使。
 だが、心が作り物でも、奪われるだけに生まれた命であっても、その魂は、間違いなく彼自身のものだった。だからもがく。あがき、生きようとする。
 セフィロスは、その手を振り払いはしなかった。友を名乗る旅人を見下ろし、そして、目を閉じた。短いシークエンス。
「……そうだな」
 その返事は、シンプルで、揺るぎない。
 そしてそのたった一言が、間違いなくセフィロスの心だった。この一言で報われる。バッツは、笑った。屈託のない無邪気な笑顔だった。……どこにいても、彼らは彼らでしかいられなかった。呪いのように。
 
 いつだか、遠い遠い過去の話である。






英雄さんには変なカタカナ語が似合います。
しかし損なスタンスだよこの人も。