ざらざらキッス








 たぶんあれはまだ子どもの頃だっけ、ほんの一時期一緒にすごした母子がいた。子どもは当時のジタンよりもさらに小さいくらいのほんのガキで、でも、同じ子どもとして子守程度の面倒はみているつもりだった。でもある日を境に、その子は、ジタンを怖がってそばに寄り付かなくなってしまった。
 ……たしか、木登りをしてたんだっけ。
 ……木の上に上ってリンゴをとってやっていたら、ころんと転げたその子が、膝をすりむいて怪我をしたんだ。
 なんの気もなしに傷をなめてやった。そうしたら、その子はわっと泣き出した。そのまま逃げ出して母親のエプロンにすがりつく。その甲高い泣き声を、ジタンは、立ち尽くしたまま聞いていた。
「あの子になめられると、痛い!」
 痛い? どうして?
 ジタンはべろりと自分の手の甲を舐めてみた。ざらざらしていた。表面がとげとげしていて、猫の舌そっくりなのだ。でもそのときまでみんながそうなんだと思っていた。自分だけ違うなんて、思ってもいなかった。
 痛いというよりもびっくりしたせいだろう。その子どもが泣き喚く声が聞こえていた。母親が不安そうにジタンを見ていた。足元にリンゴがいくつも落ちていたけれど、たぶん、食べてくれないだろうなという気がした。ただの想像だったけれど、あの子がオレを怖がってるんだったら、このリンゴだって、たぶん、口にしてはもらえないだろう。
 リンゴがかわいそうだった。まだ熟しきってもいないのに、木からもぎとられて。ころころと草の上にころがった青いりんご。甘酸っぱい匂いと蜜蜂のささやき。

 そんなことを唐突に思い出したのは。 

「ほい、ジタン。お前の分な」

 ―――間違いなく、この、甘酸っぱいリンゴの匂いのせいなんだろうなあと、ジタンはぼんやりと思っていた。
 ぽん、とまた木の上からリンゴが放られて、ぽんぽん、と草の上に跳ねる。ジタンは我に返った。あわてて頭上を見上げると、「なんだよ」と口を尖らせる子どもっぽい顔が枝の間にみえる。枝の揺れる音がして、首がひっこみ、代わりに二本の足がにゅっと突き出す。バッツは器用に枝の上で体勢を入れ替え、足から地面に着地した。ジタンは放られたリンゴを慌てて受け取る。
「ぼーっとしてんな。どうしたんだよ?」
「いや、別にっ」
「ふぅん?」
 ごつごつとした太い幹、テントみたいに立派に張った枝振りをしたリンゴの木には、小さくてすっぱい実が鈴なり。
 頭の上にはひとひら程度の青空があり、回りにはパイの一切れ分くらいの草地があって、そこから向こうはこのあたりでは珍しくないさらさらとした白い砂地だ。どこかから流れ着いたリンゴの木が一本、まるで、大洋に浮かぶ孤島のようにぽつんと立っている。二人で歩いている最中に見つけたのがコレ幸いと木陰で休憩と決め込んだのがついさっき。そして、「リンゴ食べよう!」とバッツが言い出したのは、「休もう!」といった次の台詞だった。
 即断即決。というよりも行き当たりばったり。いかにもバッツらしい。が、そこらへんの能天気さはジタンも嫌いじゃない。むしろ大好きだった。齧った瞬間、がりっ、という生の芋のような触感とたまらないすっぱさ。ジタンは思わず「げっ」と声を上げてしまうが、バッツのほうは平然としたもので、食べたら腹を壊しそうな青リンゴをがりがりと皮ごと齧り取っている。
「なんだよこれ、まだ熟してないんじゃないか?」
「んー、いや、もう完熟だろ? 虫喰ってるのもあったし」
「ガリッって言ったぞ!」
「そりゃもー、野リンゴですから」
 ここらへんはいかにもバッツの専売特許といったところ…… ジタンはちょっとあきれた気分で木を見上げる。鈴なりに実を付けたりんごの枝は、けれど、まったくしなる様子も曲がる様子も見せずにのびのびと葉を広げている。あんまり見ない感じだよな、とジタンは思った。
「青いから生だと思ってたぜ」
「いや、こういうリンゴもわりと見るよ?」
「どこで? 食えないよな、これ」
「うん。だから人里じゃなくって、森とかで」
 なるほど。
 食べる気にはどうしてもならない硬いリンゴを、ジタンは、感心半ばの気持ちでぽんと投げ上げる。ひとつ、ふたつと拾ってお手玉をはじめる。
「でもバッツは食うんだよなあ。お前、ほんとに人間か? ってくらい何でも食うよな!」
「えー、人間じゃなかったらなんだよぉ。見てくれ悪くても美味いもんは美味いじゃん」
「その発言がね、《人間》というよりも、《人間っぽい別の種族》っぽいんだよ」
「……そうかぁ?」
「バッツの集めてきた食材って、スコールやクラウドには見せらんないよなぁ」
 とにかく、バッツは食えるものならなんでも集めてくる。蛇やかえるは序の口で、大きな木を見つけたりすれば根元を掘って虫の幼虫まで掘り出してくる。かとおもったら蜂の巣だって平気で壊すし、どうみてもただのやぶとしか思えないところからこれは食えるこれは食えないと大量の雑草…… もとい野草を収穫してくる。
「完成品、みんな美味そうに食ってくれるじゃんか」
「あれ絶対に食材みたら食えないと思うよ?」
「やーね、都会っ子って。好き嫌いは良くないと思うな……」
「ん?」
 ぽんぽんとリンゴをお手玉していたジタンは、ふと、こちらをみるバッツが、ぽかんと口をあけているのに気付いた。目がくるくると飛び跳ねるリンゴを追っていた。思わずジタンは顔をほころばせてしまう。尻尾で器用にそこらのリンゴを二つほど拾い上げた。合計で五個になる。
「うおぉぉ」
 くるくるとめまぐるしく手が動く。ぽんぽんと投げ上げられては落ちてきて、またすぐに跳ね上がる青リンゴ。初歩的なジャグリングだったがバッツは完全に目を丸くしていた。思わず悪戯っけが出てくる。片手を開けるように器用に調整して、尻尾でちかくにおいてあった短剣を引き寄せて……
「よっと!」
「うわっ!?」
 抜き放った剣で宙を凪ぐ。一瞬にして串刺しにされる五つのリンゴ。ジタンはにやりと笑うと、「どうよ?」と顎をそびやかしてみせる。
「おおお!すげえ!」
 目を丸くしたまま、夢中で手を叩くバッツ。この反応があるからやめられないのだ。けれど、とジタンはすぐ気づいて、「あ」と思わず声を漏らした。
 串刺しになったリンゴが五つ。
「……ごめん、これ、食い物だった」
 さっきから想像している《だれかさん》だったら確実に怒り出しそうな展開だったが、バッツはぶんぶんと首を横に振る。
「ううん、ぜんぜんいい! 今のすごかった!」
「あー、マジで? なんか食い物粗末にしちまったかなと思ったんだけど……」
「いいよ、そのまま持って帰ればさ。どっちにしろ焼きリンゴにしてみんなに食わせてやろうと思ってたんだ」
 なるほど。
 ちょっとばかり気恥ずかしい気分で草の上に座りなおす。バッツは串刺しになったリンゴをみながら、しきりに、すげえ、すげえ、と繰り返していた。なにやら手が動いているのは、ジタンの技を盗みたいという気分にでもなっているのか。バッツだったら簡単に覚えられるだろうな、とジタンはふと思う。
 こういうのは地道な練習を繰り返さないと、身に付けるどころじゃないのだけれど。
 ―――バッツだったら簡単かも。
「憶えたい? こういうの」
 とたん、跳ね返ってくるような反応。
「おぼえたい! ……あ、いや」
 けれど、返事が途中で急にしおれる。なんだよ、とジタンは目をまたたく。バッツは手を動かしながらいろいろと考えていたらしいが、どうしても納得がいかないところがあるらしく、だんだん、目がより目になってくる。―――幼児か、お前は。ジタンは思わず「ぶっ」と吹き出す。
「おいおいバッツ、なんだよその顔!」
「え、だってなんか今の無理だよなって思って…… それ、おれ、それがないもん」
「それって…… コレ?」
 ぴょこん、と動かす。金色の尻尾。「そうそれ!」とバッツは声を上げる。
「いいなぁ、その尻尾。おれ、ジタンの真似だけは絶対に無理だよ。だって、無いもん」
「……」
「いいなー」
 ちょん、ちょん、と左右に尻尾の先端を揺らす。バッツの視線がうらやましそうに追いかけてくる。ジタンはひどく複雑な気持ちになる。胸の中がすっぱい。生のリンゴを齧ったみたいだった。
「別に、そんないいもんじゃないよ?」
 ちょん、ちょん。
「目立つしな、何しろ」
「ええ、いいじゃん。便利そうだし、面白いし、それにけっこーカッコいいよ」
 ちょん、ちょん、ちょん。
「簡単に言うなよなー。あったらあったで割と大変なんだぜ?」
「大変そうだとはマジ思うけど、でも、やっぱジタンには《尻尾》がないと」
 ……ちょん。
 なんなんだろうな、とジタンは思った。やっぱり胸がすっぱい。半ば無意識に視線を落としてしまう。
 16年間生きてきて、自分自身という生き物への折り合いは、それなりにきちんと付けてきたつもりだ。けれど、バッツのくれるような開けっぴろげで裏表のない賞賛は、やはり、そんなジタンにとっても居心地の悪さを感じさせてしまう。これがオレなんだよ、と開き直っていても、内心奥底には尻尾のある小さな生き物がうずくまっていて、周りの人間からの奇異なものを見る視線に怯え続けている。―――そういう生き物の存在を改めて自覚させられるのは、やっぱり、そう、《居心地が悪い》。
 言葉を捜して、少し黙って、やっぱり何を言ったらいいのか分からなかった。目をまたたいているバッツに対して、しょうもない強がりを言っても仕方ない気がする。ジタンは苦笑いをして、ぺろりと舌を出す。
「ごめん。なんかさ、そこまでほめられると、なんか変な感じがする」
「そうか? だったらごめん」
 ごめん、という答えまで直球だ。やっぱりごまかさなくてよかったな、とジタンは内心で思う。変な風に傷口を掘り返されるのはやっぱり嫌だから。
 けれど。
「でも、おれはジタンがうらやましいけどなぁ。本気でなれるんだったら、割と、ジタンみたいな格好になってみたい」
「―――へ?」
 あまりに唐突な返事に、ジタンも一瞬、二の句が告げなくなった。
 同じ格好?
「うん。そういう…… なんていうんだろ、ジタンの仲間? になってみたい」
 バッツは真面目な顔をしていた。思い切り本気だ、とジタンは思った。あっけに取られて返事もでない。バッツは大真面目な顔のまま、「たとえば」とジタンの顔に指を伸ばしてくる。
「目がネコみたいっていうか…… 菱形になってたり」
「……」
「爪がちょっと出し入れできたりするし」
「……その」
「牙もあるし、ジャンプも高いし、足も速い。しかも尻尾もあるし、毛皮もあるし」
「毛皮って、トランスのこと?」
「うん。あれ、かなりうらやましい。モッフモフでさ」
 ―――幼児じゃないんだから。
 ジタンはあきれ返った。バッツが事情を知らないのは分かっているが、ここまで開けっぴろげに自分の種族を賞賛されたのは始めてだった。そこまで考えてふと、バッツの言っていた言葉を反芻する。ジタンは自分の手のひらを見下ろした。しなやかなバックスキンの茶色い手袋。
「どうしたんだよ?」
「あのさバッツ、どうしてオレが爪の出し入れできるって知ってたわけ?」
 バッツのほうが、変なことを聞かれた、とでもいうように、首をかしげた。
「だって…… 見てれば分かるだろ」
 分かるわけがない。
 トランスしているときには特徴として顕著で、そうじゃないときも人間とはかなり異質で…… ジタンの手は少しネコに似ていて、爪の伸び方が普通と違い、そして、ネコのように指の先端から爪が出し入れできるようになっていた。木登りをするとき、はだしで走るとき、自然と地面や壁に爪を立てて、誰よりも俊敏に動き回ることを助けてくれる。
 けれど、ジタン自身にとっては、決して嬉しいものではない。
 誰かの手を握り締めたり、抱きしめたりするとき、勝手に飛び出してきて、相手の膚に爪を立ててしまう手。
「オレ、バッツのこと引っ掻いちまったこととかあるの?」
「無いよ。なんでそうなるんだよ」
 バッツは鼻の頭に皺を寄せる。
「面白い爪だなぁって思ってずっと気にしてただけだよ。なぁ、よかったら手袋はずして見せてくれない?」
「ん……」
 断るのもまずい気がして、ジタンはもそもそと手袋をはずす。バッツは自分の手よりもずいぶん小さなジタンの手を宝物みたいに受け取って、「すっげえ!」と目を輝かせた。
 やすりで削ってあるけれど、本来はかなり尖っている。形が菱形に近くて肉に食い込んでいる。手に力を入れると飛び出してくる。「すごい、すごい」を連発しながら手をひっくり返したり裏返されたりされて、ジタンは何も言えなくなる。胸の中がすっぱい。硬いリンゴみたいに。

 ―――あの子に舐められると、痛い!

 ほかのみんなは、こんな風じゃないんだ。そう自覚した頃、むやみに寂しい気持ちになることが多かった。別に他の誰かがジタンを責めたわけじゃない。でも、どこにいても、誰と居ても、やりきれなくて、つまはじきにされてるみたいで、そんな自分がひどく惨めで悔しかった。
 そういう自分から逃げ出そうともがいて、結局はムリで、全部受け入れるしかないと腹を据えて、ちゃんと折り合いを付けられるようになって。それできちんと自分の足で立って歩けるようになっていたつもりだったのだけれど。
 《そうでも、なかったのかもな》
 食べられないリンゴを齧ったようなざらついた違和感と、苦くすっぱい感覚を胸に憶えて、ジタンはそう自覚させられる。
 《―――やっぱオレは、こういう自分が嫌なのかもしれない》
 後ろ向きでうじうじした考えが嫌になる。ジタンはことさらに悪戯めいた表情で、「なぁ、バッツ?」とささやいた。
「ん?」
「他にも違うとこ、あるよ。見せてやろうか」
「え、そうなの? どんなとこ?」
「……こんなとこ」
 すっ、と身体を伸ばして、バッツの頬に、くちびるをよせる。
 棘だらけの薄い舌を出して、ざらりと、頬を舐めてやる。バッツが、ひゃっ、と変な声を上げた。ジタンはきらきらと笑う。悪戯っぽい気持ちと、ざらついた痛み。
「ほぉら、どう?」
 目を丸くして、頬に手を当てているバッツの前で、あんぐりと口を開け、舌を出してみせる。
 小さな牙と、薄い舌。子猫のようなピンク色。
「ざらざらしてんの、ココが」
 表面が棘だらけの、薄い、敏感な舌。人間のものというよりも、猫科のたぐいの生き物に近い。
 透き通るように白い小さな牙。ざらついた舌。
 ぺろりと指先を舐める。目を細めるようにして笑う。すっぱい感じ。胸の中がすっぱくて、苦い。
「―――コレはさすがに困るだろ。もうさ、びっくりされちゃうから、好きなコが出来ても、うかつにキスも出来ない」
 バッツはぽかんとした顔で、ジタンを見ていた。ほっぺたにおっかなびっくり指で触れて、それから、視線を落とす。ジタンもバッツの顔を見ていられない。気まずく目をそらしていると、ふいに、「……しっぽ」とバッツの声が聞こえた。
「へ」
「ぺったんこになってる」
「!」
 こわばった尻尾が勝手に体の傍に縮こまっている。ジタンはとたんに頬がカッと熱くなるのを感じた。目を伏せるジタンを、バッツはしばらく眺めていたが、やがて、笑顔になる。手を伸ばしてくる。きらめくような蜂蜜色の髪をぽんぽんと撫でると、子どもに虫歯を確かめさせるように、唇のよこに指を当て、口元を覗き込む。
「ざらざらは嫌いなんだ?」
「……そんなの……」
「びっくりしたけど、おれはいいと思うな。うん、すごく、いいと思う」
 バッツは笑った。いつものバッツの笑顔だった。屈託なく、開けっぴろげで、そして、なんの裏も嘘もない。
「面白いじゃん。好きなコが出来たんだったら、きっと、面白がってくれると思うな」
「……なんで?」
「えっと、だってさ、うーん…… 特別製だろ、それ?」
 ジタンは目をまたたく。不安がきらめく青緑色の目。森の中の湖水、珊瑚の浅瀬にきらめく光、日に透かしたエメラルド。
「どこの誰とキスするのとも違うってことは、特別製。暗いとこでも、目をつぶってても、それだけでちゃんとジタンが分かる。それってすごいことなんじゃないかな? ……まぁ、おれ、女の子の気持ちってよくわかんないけど」
 ニッ、とバッツはジタンの目を覗き込むようにして、笑う。薄茶色の目が細くなる。顔立ちそのものは女の子みたいに可愛いくせに、顔一杯の笑顔でくしゃくしゃになってしまう、バッツの、いつもの笑い方だった。
 ジタンは目を伏せた。顔をあわせていられない。胸の中がすっぱい。食べられないリンゴみたいな気持ち。青くて硬い。急に泣きたい気持ちになる。
「ジェノム、って言うらしい」
「ん?」
「オレみたいな尻尾のある生き物のこと」
「へぇ、そうなんだ!」
 バッツは目を丸くする。くるくる表情が動いてひと時もとまろうとはしない。たぶん説明したってわかんないはずだ、と子どもじみた声が胸の中に聞こえる。この気持ち、分かるもんか。一人ぼっちで、自分に似た人が誰もいなくて、寂しくて悔しくてやりきれなくて、そんな気持ち、誰にも、オレ以外の誰にも。
「バッツ、もしもなれるんだったら、ジェノムになってみたい?」
「みたい!」
 ―――バッツの返事には、なんのためらいもなかった。
「いいなぁ、そしたらジタンに尻尾つかった手品も技も、全部教えてもらえるし。それに爪も出し入れできるようになるし、眼が縦になるし」
「舌もざらざらになるし?」
「うん。ちゃんと牙も生える。……いいな、それ」
 一瞬、ジタンは、バッツと眼を合わせる。何かを挑むようににらみつけた目線と、バッツの目線が、正面からぶつかり合った。
 そこで、誤魔化してもらいたかったのかもしれない。開けっぴろげで何も考えない言葉なんて、大人らしい慰めで、嘘だと、思いたかったのかもしれない。
 けれどバッツは眼をそらさなかった。やがてきゅっと薄茶色の眼を細めると、また手を伸ばして、ジタンの髪を撫で回してくしゃくしゃにした。それから立ち上がる。短いマントが一瞬だけ草を撫でる。
「―――さ、そろそろ行こう。スコールたちが心配する」
 その串刺しも持ってくぞ、と明るい声で言われる。バッツは立ち上がり、あたりに転がったままの青くて小さなリンゴを拾い始めた。ジタンはそんなバッツの後姿を眺めていた。どうしたらいいのか分からなかった。なんて思ったらいいのか、なんて言ったらいいのか、ぜんぜん分からなかった。
 ふと手元を見ると、小さなリンゴがある。青くて硬くて、小さくて酸っぱい。食べられない青リンゴ。
「これ、灰に埋めて焼いたら、美味い焼きリンゴになるぜ」
 バッツの声は弾んでいた。
「豚肉があったら、一緒にラードで炒めて食うんだけどな。ほんとはリンゴ酒が一番だけど」
「……バッツ!」
「おぉ?」
 急に、ジタンは、跳ね上がるように立ち上がっていた。後ろからバッツの腕にしがみつく。バランスを崩したバッツがリンゴを落とした。びっくりした眼がジタンを見る。丸くて大きい眼。ジタンはひどく急いた口調で言う。
「ほんとに、ほんとにバッツ、オレと同じになりたいのか? なっちまってもいいわけ?」
 バッツは黙る。眼をまたたく。それからちょっと笑う。粒のそろった歯並びが、ほんの少しだけ、口元から覗いた。
「本気だよ。マジで」
 でも、とバッツはくしゃりとジタンの髪を撫でた。
「なろうと思っても無理なんじゃないかな、って気もするけどさ」
「……」
「ごめんな、ジタン」
 バッツの指先は、硬くて、丸い。剣を握るだけではなく、旅の中でいろんな物に触れて、硬くなった指先。どこか丸っこい印象の指。傷ついて分厚い爪。
 変なことを言った自分に気付いて、頭が真っ白になるくらい恥ずかしくなった。何か言わないといけない。けれど、喉に何かが詰まったようで、何もいえない。胸の奥に詰まった何かが言葉も気持ちもどっちもふさぐ。たぶんりんごだ、とジタンは思った。
 硬くて酸っぱい小さなリンゴが、胸の中に、つっかえている。
 バッツは小さな声で、ごめんな、ともう一度言うと、蜂蜜色の髪に頬を摺り寄せるようにして、ジタンのことをぎゅっと抱いた。リンゴの匂いがした。甘くて酸っぱくて、そして、五月の風のような、優しい匂いだった。








食べちゃいけない知恵の実みたいに、上手に飲み込めない気持ち