いなくていいこ




 朝方になって気がつくと布団の中で丸まって寝ていた自分に気付く。あれ、朝なのになんか暗い。目をこすりながら起き上がって外を見る。気がついて窓を開ける。吹き込んだ風が冷たくて、氷でなでられるように頬をなぞった。
「……雪か」
 気付いたら布団をはだけていたらしい。ぶるりと一度震えてから、ジタンは、枕元にひっかけておいた上着をあわてて引っつかんだ。体が冷え切ってる。つめたい。窓を閉めて暖房のスイッチを入れる。部屋の中があたたかくなる。窓に当たった細かい雪が、ざらめ粒みたいに溶けて光った。



 雪は苦手だ。
 嫌な思い出しかないから。



 ジタンとミコトの兄妹が義理の兄と暮らしているのは喫茶店の二階で、階段と風呂のせいでせまっくるしいスペースには、六畳間がひとつに四畳半、あと、今はこたつが部屋の大半に居座っている小さな居間があるだけ。客が来ない時間だったらさっさと着替えて階下に下りるに限る。
 ジタンがそそくさと着替え、顔を洗って階下に降りると、紅茶の匂いがする温かい店には客の姿がひとつもなかった。カウンターの中で皿を洗っていた兄が…… つまり、茶色い髪のバッツが…… ジタンに気付いて、「よう」と片手を上げる。ジタンはカウンターの傍の席に腰を下ろす。
「よー、遅刻学生」
「今日は休みだろー。雪だしさあ」
「あれ、ミコトは出てったけど?」
「あいつはまだ期末終わってない」
「あぁ、そう…… そういやジタンはテスト終わったんだっけ」
 昨日で期末が終わり、クラスメイトたちとカラオケに言って打ち上げまがいの大騒ぎをした。そのあと夜遅くまでメールのやり取りで眠れなかった。時計を見ると10時半。なんとも半端な時間帯だ。バッツが笑いながら暖かい紅茶をポットごと出してくれる。
「ねみぃ……」
「寝ればー?」
「腹へって寒くて目が覚めちゃったんだよ」
「そっか。んじゃ、昼飯食ったらまた寝れば」
「……おいバッツ、オレのことなんだと思ってんだ」
 ジタンは思わずぼやくが、温かい紅茶をひとくち飲むと、何もかもがどうでもよくなってしまった。たっぷりの黍砂糖で甘くしたロイヤルミルクティー。ぬくもりが手足の先までじんわり広がる。体の内側からとろとろと溶け出すような感じ。
 子猫のようにあくびをするジタンに、バッツはくすくす笑いをかみ殺す。使い込んだ鋳鉄のフライパンをコンロにかけて、さいの目に切ったベーコンの脂を落とす。じゅうという音と共に香ばしい匂いが立ち上る。ちかくの店から毎朝届けてもらうパンは全粒粉をたくさん使っていて重みがある。そこにベーコンとチーズをはさみ、上に目玉焼きをのっけて、黒こしょうを挽いたものを振り掛ける。クロックマダムとかそういう名前だったっけ。たっぷりとした食感は、むしろ、ハンバーガーか何かを食べているような感じがする。
 鼻歌を歌いながら、パンと目玉焼きを手早く同時に焼き上げて、スープをあたため、ブイヨンで煮込んで冷やしておいた野菜を盛り付ける。店のテーブルはバッツが趣味であつめたものだから、どれもてんでばらばらのデザインだ。ジタンはぺったりと分厚い板に頬をくっつける。傷だらけの天板と、あめ色になるまで重ねられたニスの艶。
「なんか、雪、降ってる」
「あぁ、朝方からな」
 じゅうじゅうとフライパンで脂のはじける音の向こうから、バッツが答える。
「ミコト大丈夫かな…… 傘とか、靴とか」
「だぁいじょうぶだって」
「積もりそうだったら迎えに行った方がいいか?」
 ぽつぽつと、どうでもいいような言葉で答える。横目で窓の外を見ると、ざらめになった雪粒が、二重サッシの窓の向こうにこびりついている。やな雪だ。小鼻に皺を寄せる。ジタンは呻きながらそっぽを向く。

 雪は嫌いだ。嫌な思い出しかない。
 寒くて、ひもじくて、不安だった思い出しかない。

「……なぁー、バッツ」
「ん?」
 ぱたん、ぱたん、と金色の尻尾が左右にゆれた。ビロードのすりきれた豪華な椅子。
「憶えてるかな、昔、雪合戦とかたまにやってただろ」
「……」
「オレとお前とでさ。憶えてない?」
「……さぁ、どうだったかなぁ」
 暢気な声。バッツが何を考えているのか、一緒に暮らしだして8年くらいすぎた今でも、よく分からない。尻尾がゆれる。横目で眺めるカウンターの向こう、横向きになった義兄の背中。
「雪が降ったらさ、こう、同意も得ずに、お前の背中にぱーんと」
「あぁ、そういうこと、あったかも。……ジタン、コントロールがすげーいいんだもん。おれ、雪だらけでさ」
 バッツが笑う…… やわらかい笑い声だった。やわらかくてあったかい。さらさらの雪が、びしょびしょのつめたい雫に溶ける。変な錯覚にジタンは苦笑する。窓の向こうの雪を見る。
 むかし、昔。
 まだ逢ったばっかりのころ。ぜんぜんバッツのことなんて信じていなかった頃。
 妹と二人で捨てられて(そうあれは捨てられたとしか言えなかったろう)、全身の毛を逆立てるようにして、世界中の全てに牙を剥いていた頃。
 雪が降るたび、ジタンは、湿った雪を素手でかたくかたく丸めて、雪玉を作って、バッツの背中に投げつけていた。
 音も立てずに雪玉がはじける。まだ学生服をきていた背中が雪まみれになる。ふりかえって、なんだよ、という。今みたいに落ち着いてもやさしくもなかった声。なんだよ、と困ったようにジタンに向かって言う声。
「怪我するかもって思ったこととか、なかった?」
「さぁ、どうだろ。忘れたなぁ」
 たぶん、嘘だ。忘れてるはずが無い、とジタンは思う。
 あのころ、何度も、何度でも、背中にむかって雪玉を投げた。バッツの背中が雪まみれになって、自分の指が冷え切って真っ赤に晴れ上がるまで。
 ほんとは、あれは雪合戦なんかじゃなかった。はっきりと、【こうげき】だった。遊びのふりをして何回も試した。あなたはオレたちを棄てませんか。あなたはオレたちに嫌われても、オレたちを認めてくれますか。
 石の入った雪玉は、痛かったはずだ。……違う、痛いなんてもんじゃない。当たったら間違いなく怪我をしたはずだ。
 でも、ジタンは結局のところ、石のはいった雪玉を、バッツの背中に当てたりは、しなかった。
「ほい、朝飯完成。さあ食え」
 バッツがカウンターをくるりと器用にくぐり、ジタンの目の前に、プレートを下ろしてくれる。ジタンは我に返り、慌てて顔を上げる。その拍子に肘がぶつかってティーカップが音を立てる。
「うわ」
「そんなに急ぐなって」
「えっと…… うん」
 答えて、ばつのわるい気持ちでフォークをとって、それから皿の上を見て、「あ」と声を漏らす。バッツがにんまりする。トーストの上の目玉焼き。それが。
「今回は、サービス。卵二個焼き」
 歌うようにバッツは言う。くるりと目を回してみせる。
「食ったら寝ろよ。そしてでかくなれ〜、育て〜」
「ちょっ…… チビって言うな!」
「言われたくなきゃ育てよな」
 歯を見せて笑う。バッツはテーブル越しに手を伸ばして、ジタンの蜂蜜色の髪をくしゃくしゃと撫でた。あったかい、大きな手のひらだった。
「雪なんて積もらないさ。だからさっさと飯食えよ」
 じわりと、あったかい。さっきの甘ったるい紅茶と、よく似た感覚を、身体に感じる。
「……うん」
「よし。じゃ、なんか音楽でもかけるか! これでモーニングも片付いたしな!」
 ばねのある動きで椅子からたちあがり、そして、CDの積み上げてある壁際のオーディオセットのほうにあるいていく。ジタンはその背中をしばらく見ていたが、やがてフォークを手に取ると、いつもの、出来立ての、そしてたっぷりと量のある手作りの朝食へと、とりかかる。
 





ブログより採録しました。
元ねたは鏡音曲の”いなくていいこ”とそのネタになったとあるお話。
ログと曲名はこちらのとおり。


【鏡音リン】いなくていいこ :http://www.nicovideo.jp/watch/sm6336334
inakute-iiko クリスマスまとめ:http://sezu.ktkr.net/inakuteiiko.html