影踏みごっこ






 ガキんころは、俺様にゃあ、怖いもんは一個も無かったね。
 うそだろう? ってとある野郎に笑われたこともあったが、こればっかりは本当なんで仕方ない。そりゃ、毎日毎日、無鉄砲な生き方はしてたさ。ブリッツの腕一本で這い上がってきた人生だ。この傷だらけの全身を見ても貰えば、だいたいのことは分かると思うがね。
 とはいえ、警戒心がビリビリして眠れないときだの、興奮や不安で頭がいっぱいになってるようなこたぁ珍しくもなかった。そいつも【コワイ】って表現するんだったら、まぁ、事情は変わってくる。だがよ、この歳になって俺様がようやく理解した【怖い】ってもんは、あのころには一回だって感じたことがなかったような種類の感情だった、ってのは確かだ。

 【怖い】ってのは、ようするに、【明日が無い】ってことなんだと思う。

 明日が無い。つまり、未来がない。
 明日には、もう、この世界に俺はいない。朝日を浴びて眼をあけて、青空の上にお天道様を見つけることがない。ぴっかぴかに磨いたコインみたいな、あのでっかい光の塊を、もう二度と、見られないってこと。
 それが【怖い】ってことだ。
 自分から選ぶにしろ、他人から押し付けられるにしろ、もう二度と明日のお天道様を見られないっつうのが、【怖い】ってことの本質なんだろう。
 二度と明日なんてきてほしくない。時間が止まって欲しい。もうお天道様を仰ぐ元気なんてひとかけらも残っちゃいない。…まぁ、どれでもいいやな。そういう自分に気付いて、それで、そんな風になっちまった自分ってもんを、自分の力じゃどう頑張ってもすくいあげられない。
 そういうときに感じる、足元の地面がぽっかり薄いガラスになって、どこまでもどこまでも続く深い深い穴ぼこの上にでも立ってるような気分になっちまうってこと―――
 それが、【怖い】ってことだ。
 俺様が、人間として生きてた時間の一番最後に、ほんの一瞬だけ除きこんだでかい穴ぼこの正体だ。



 そのガキの眼ェを初めて見たとき、妙なことに、俺はそのときの感覚を思い出していた。
 【怖い】ってことの本質。【明日】を失くすってこと。でかい穴ぼこの上にへたりこんで一歩も動けねぇってこと。
 俺は、腕も上がらないくらいに叩きのめしたガキの顔を覗き込んだとき、そこに二つの穴ぼこを見つけて、思わず息を呑んだ。
 ガキがどう思ったのかは知らねぇ。黙ったまま自分の顔を覗き込んでいる男前(俺様のことだよ、当然)を無気力に見上げていたのは短い間で、そのうちそいつは、顔を横に向け、眼をそらした。
「……殺せ」
 まいったね、こりゃ。
 っていうのが、正直な感想だった。
 そらした喉にはちゃんと喉仏があったが、肌の肌理は細かくて、まるで女の喉みたいだった。軍人のような体作りに時間をかける連中特有の肉が薄い体つきをしていて、ひろく開いた襟元から鎖骨の突起が見えていた。でかいトップをぶらさげた銀鎖が首輪みてえだ。
 膝を砕いてやったから、離してやっても一歩も歩けないはずだった。痛みのせいか青ざめた肌に脂汗が浮いて、ひゅー、ひゅー、と荒い呼吸が聞こえていた。
 思い切り踏んづけてやっている肩からも、完全に力が抜けていた。
 硬く閉じた目のふちで、意外なほど長い睫毛が震えていた。眉にきつく皺が寄せられていた。今日昨日って顔じゃないな、と俺は思った。唇をかたくかみ締めたような表情は、長い長い時間をかけて、このお綺麗な顔の上にきざみつけられたもんなんだろうと思う。
 それで、あの眼だ。
 二つの目ん玉。
 思い切り深く潜ったところで、どこまで続いているのかわかんねえ海の底を覗いたときみたいな、やたらめったらに深い青。そういう色の目だった。
 それで、穴ぼこだった。
 どこまでもどこまでも、【恐怖】ってもんが、押し込められている目だった。
「おい、テメェ、なんて名前だったかね」
「……あんたに、なんの、関係がある」
「なんだっけかな、ええと、この首輪…… ああそうだ。あのいいケツしたネエちゃんの」
 アルティミシアって名前だったかな。化粧はケバいが、とんでもなくいい女だ。ただしああいうお高くとまったやつは俺様のタイプじゃねえ。残念な話だ。
 俺は手を伸ばし、首輪の坊やの服を掴んだ。坊やは低く呻いた。痛かったらしい。「我慢しろよ」と一声かけて、俺は、坊やを担ぎ上げる。荷物を肩にのっけるのと同じ要領だった。
「離せ……」
「おおっと、暴れんなよ」
「離せ! 貴様らの玩具にされるくらいなら、殺された方が……ッ」
「玩具になんかしねえっつの」
 俺様は思わず笑っちまった。っていうか、笑う以外にどうしろっつうのか。
 きれいなくせに穴ぼこみたいな目をした坊やは、殺せ殺せとやかましく強がる。だが、最初から俺は気付いてた。こいつはずっと震えていた。

 どういう人生を送ってきたのかね。
 俺様じゃあ人生まるごとかけても最後の一瞬にしか出くわすことの出来なかった【怖さ】が、この坊やの二つの目には、結晶みたいに硬くなるまで、ぎゅうぎゅうに凝縮されてやがる。
 
「離…せっ」
「ジェクト様の根城に帰ったらな」
「俺を、どうするつもりだ…」
「まぁ、戻ってから、考えるわ」
 どうも人間、死線ってやつを潜っちまうと、人生観が変わっちまうらしい。
 昔だったらチラッとオモシロそうだと思いはしても、ここまでの手間なんざかけなかった。だが今ばっかりはこの坊やの【怖さ】が気になる。気になるからには確かめるっきゃねえ。ちょうど具合良く坊やは俺様の獲物だった。持ってかえってじっくり話して…まぁ、坊やの身の振り方は、その後できめりゃあいいわな。
「なぁ坊主、何回も聞くけどよ、名前はなんてェーの?」
「名乗る気は、ない……!」
「ああそ。ちなみに俺様はジェクト様だ。憶えておきな」
 担いだ坊やは、まだ、震えていた。何が怖いのか分からないが、白い歯が、形のいい唇を血が出そうなくらいかみ締めてる。もったいねえな。かわいい唇なのによ。
 今さらになってちょっと後悔する。大怪我してるのにこの担ぎ方は可哀相か。膝とかブラブラしちまってるしなあ……
 まぁいいや、と俺はすぐに思い直した。次があったら横抱きにでもしてやりゃいいさ。

 ―――まぁもっとも、”次”とやらがこの後何度も、何十回も来るなんて、さすがのジェクト様にも予測不可能だったわけだが。

 その時点では。






ジェクトさんとスコールの擬似親子的関係って萌えるね、って話でした