/渚にて



 そこに岸辺があった。
 ひとりの青年がいた。
 青年は死に掛けていた。流れ出した血があたたかく砂を濡らし、仰向いて瞳を閉じていた。あさく開いたくちびるにはまだ息が通り、ときおり咳き込むたびに弱弱しく胸が震えたが、致命傷を負っているということはあきらかだった。
 わき腹に深い傷があった。傷はざくろのように華やかに咲いていた。
 白い髪がぺったりと頭蓋に貼り付いて、どこか子どもっぽい輪郭を強調していた。
 象牙色のまぶたが震えるたび、あたらしい血が傷口から流れ出した。血がにじむたびに新しく砂が濡れた。砂は砕いたガラスのように白く粗い。踏むたびに足音が大きく響いた。気付いたのか、青年はうっすらと目を開いた。煙水晶のようなひとみ。
 男は黙って青年を見下ろしていた。風は凪ぎ、長い髪は鋼の滝のように背中を滑り落ちている。長躯にまとわる黒い衣装は大鴉のようだ。青年は不思議そうな顔をした。いくつか目をまたたいた。杏の実の形をした、おおきな目だ。
「……―――」
 乾いた唇がうごき、かすかに言葉を押し出した。壊れた笛のような音がした。
「……め」
 ゆるゆると表情がほどけた。青年は笑った。夢見るように。
「とどめ、が、ほしい」
 唇の端だけではなく、鼻からも耳からも血が流れていた。血に汚れた表情があどけなかった。
 男は顔をゆがめた。彼は今までに一度も、こんな顔をして死んでいこうとする人間を、見たことが無かった。

 バッツと出会ったときのことだった。

「お前は、死を望むのか」
「……あんまり」
「ならば、生きたいのか?」
「……どう、だろ」
 何が可笑しいのか、くすくすと笑おうとして、けれどバッツは、低い声で呻くことが出来ただけだった。弱弱しく咳き込むと、傷口からあたらしく血がこぼれる。呻く。死に行くものの声。
「痛っ、て……」
 真綿の髪、象牙の膚。煙水晶のひとみ。セフィロスは無感情に、踏みにじられた虫のような姿のバッツを見下ろした。肩から腹にかけて、袈裟懸けに切りつけられた傷が致命傷だった。即死しなかったということは急所は逸れているのかもしれない。だが、放っておけば、間違いなく命は無いだろう。それを確かめて、目を上げる。
 岸辺には、静かに波が打ち寄せていた。砂を洗う水は透き通っていて、遠くに目を凝らすと、ぼんやりとした灯りのようなものが見える。争いの気配を感じてやってきたけれど、どうやら既に勝負はついていたよう。周りを見回しても死に掛けたバッツ以外に人影は見えず、かすかに砂に戦いの痕らしい軌跡が残っているだけだった。
「相打ちか」
 目を見つめてといかけると、バッツはかすかに顎を引いた。首肯したらしかった。
「相手は誰だった。まさかイミテーションではなかろうな」
 次はかぶりを横に振った。知らない、という意味だろう。
 つまらない。そう思ってセフィロスは小さく鼻を鳴らした。お互いに面識も無い敵と殺し合い、その結果は相打ちでおわった、たったそれだけの話ということか。バッツは楽になることを望んでいるようだったが、手を汚してやるだけの義理もなければ責任もなかった。
 セフィロスの問いかけに答えたことで、力を使い果たしたらしい。ぐったりと横たわった頬が砂に触れ、煙水晶の目も眠たげに閉じてくる。放っておけばあとどれくらい生きるだろうか、とセフィロスは思う。急所をはずしているのだったら、このまま衰弱して息が止まるまで死ぬこともできまい。死に掛け、蟻にたかられた小動物を見るような不快感が胸をむかつかせた。セフィロスは踵を返した。
 そのまま、大股に砂を踏んで、歩き去ろうとする。だが幽かに背後から気配を感じて再び足を止める。バッツがこちらを見ていた。目が細めて笑う。表情はどこか少女のようだ。かすかに指を上げて、ささやく声が息に混じる。
「……ばいばい」
 そのときになって、セフィロスは、ようやく気付いた。
 片方の手が、硬く握り締められている。もはや息も通わぬほどに衰弱しながら、バッツは何かをきつく握り続けている。



 正義にも悪にも興味を持たず、ただふらふらとさまようだけの虚ろげな風。セフィロスはバッツの存在をそう知ってはいたが、どこにいて何をしているかを意識するほどにも興味を持ったことが無かった。ただ時折、他の混沌の兵たちの口からその名前を聞くことはあったけれど。何もせず、何を考えているかも分からぬ彼はある種の者たちにとっては悩みの種だったらしく、特に皇帝の口からなどは苛立ちと共にその名を聞くことも多かった。
 あいつは失敗作だ。
 形骸だけで、何も無い。
 そういうこともあるのかもしれないと、セフィロスは漠然と思っていた。現実がどうであれ己の意思を持たず、命令にすら従わないのならそれは単なる失敗作だ。
 彼らの神は見た目はたいそうな姿をした、むずがるだけの赤ん坊だった。結果として、混沌の兵としての命を受けた彼らはそれぞれがてんでに勝手な目的を持って動くこととなる。
 この世界では、己が望むことを自分で決め、そして動かなければならないのだ。そういった中で己の望みを持てないのなら、兵たちは模造品たる人形とさして替わらぬ程度にしかならない。
 セフィロスにとっての望みをいうのなら、主にすべては彼の人形に帰結する。可愛い人形は、この世界においても己の影に怯えて逃げ回っていた。彼を痛めつけ、追い詰め、あざ笑うことでその想いを吸えば、セフィロスはそれで満足することが出来た。
 いつかは心だけでなく形ごと喰らうにしろ、あるいは剣を交えて雌雄を決するにしろ、この世でたった一つだけ熟させることの出来た甘い果実を簡単にもぎ取ることはできない。
 長い間セフィロスは、彼の人形がゆっくりと痛み、膿んでいくさまを見守るだけで過ごしていた。収穫を待つ、長い長い時間。
 だがあるいは、セフィロスは、収穫までの時間を、無限に引き延ばしたいだけだったのかもしれない。
 定められたチェス盤の上で動き回る駒たちの姿は、同じ駒の姿から見ても皮肉なものと見えることがほとんどだった。あがくもの、流されるもの、操られるもの、無知なもの。興味を抱く相手もいれば、ほとんど関心のわかない相手もいた。そして、真綿の髪もつ虚ろげな風は、セフィロスにとってもっとも関心の無い相手の一人だった。
 ふらふらと、あてどなく一人で歩き回っている。剣を抜き、争いに臨むことがあれば、恐るべき戦士ともなる。だが、それ自体が実に稀なことだった。たいていの場合のバッツは、何が目的かも分からずに歩き回っているか、あるいは走り回っている、何かに見蕩れているだけ。
 一度だけ、声をかけられたこともある。今と同じ浜辺のことだったと思う。
 何がしか用があって通りかかったときに、波打ち際で熱心に何かを拾いあつめているバッツを見た。何をやっているのかと足を止めてしばらく見ていた。やがて、彼が探しているものが、浜辺に打ち寄せられた貝やさざれ石の類だと気付いた。
 足を止めて透明なかけらを水の中から拾い上げ、空をてらすぼんやりとした光にかざし、感嘆のため息をつく。それからもう一度回りを見回す。ちゃらちゃらとかすかな音が聞こえた。拾い集めた貝や石が、ちいさなパックの中で触れ合う音だった。
「なぁ、ええと…… セフィロス?」
 唐突に話しかけられて、セフィロスは我に返る。眉を寄せて青年を見る。彼は屈託のない表情で、溶けかけた薄荷の飴のような、ちいさいかけらを示してみせる。
「これって何なんだろう? おまえ知ってる?」
 一瞥して、すぐに、ただのガラスの欠片だと分かる。思わずため息が漏れた。カササギやカラスのように、この虚ろげな風は、意味もなく何かを拾い集めているだけなのだ。
 返事もせずに踵を返した。後ろで、大きな目を瞬いている気配がした。相手をする気にすらなれなかった。
 そのはずだったのだけれど。


 日が暮れるほどの時間が立って、何故か気持ちが落ち着かず、セフィロスは再び同じ岸辺へと戻ってくる。
 満ちてきた潮に足を洗われながら、バッツはまだ、生きていた。
「……虚ろげな風よ」
 セフィロスが声をかけると、眠たげにとじていたまぶたが、ゆっくりと開く。煙水晶のひとみがセフィロスを見上げた。不思議そうな表情がかすかに浮かぶ。まだ意識があるらしい。
 血も止まりかけ、赤黒い傷跡が風にさらされていた。片手は握られたままだ。セフィロスよりも後には誰も、この死にかけた男に構おうとはしなかったらしい。
「まだ、私の声が聞こえるか」
 しばらくたって、ゆっくりと、バッツは目を瞬いた。うなずいたようだった。最期の息がかすかにくちびるから漏れていた。もはや長くはあるまいとセフィロスは思う。長い刀を抜き放ち、砂浜へと突き立てた。正宗の刃が斜めに光を浴びる。異様な長さと鋭さを持つ刀身が、真珠のような清らかさできらめく。
「私の問いに答えたら、望みどおり、止めをさしてやろう」
 短い時間。
 ゆっくりとうなずく。
 セフィロスは白い砂に膝を突き、バッツの上へとかがみこんだ。
「―――お前は、何故、あのように虚しい生き方をしていた?」
 鋼の髪が、滝のように肩からすべりおちる。ひとみがまたたく。天幕のように自分の上へと覆いかぶさる銀の髪を不思議そうに見上げる。
「何も望まず、何も産まず、何も行わない。そのような生き方を望むのは、お前がただの形骸にすぎないからなのか?」
 バッツは、しばらくたって、ゆるく横に首を振った。違う? 予想外の答え。
「お前は、この世界で生きることに、なんら意味を見出していなかったのではないのか」
 ちがうよ。
 再び首を横に動かす。血の気を失ったくちびるがかすかに動いた。それが微笑だと気付いて、セフィロスは、思わず眉を寄せた。
「あのような生き様が、お前の望み通りだったというのか」
 肯く。
「……ただ、無為にさまようことが? 抗う意志も、戦う意志も持たずに?」
 再び、目だけで、頷く。
 目が細められ、ゆるゆると唇が笑みを浮かべた。セフィロスは短く息を詰めた。ひとたびその目の中に見つけて驚いた表情が、再び、そこに浮かべられている。
 まどろむような、やわらかい、あどけない笑み。
「……れ、は」
 ひゅう、と喉が音を立て、言葉らしきものがそこからこぼれる。セフィロスは息を呑んで、死に掛けた青年のくちびるをみつめる。バッツは痛みに顔をゆがめながら、ひとつひとつの音を、唇から押し出す。
 ビーズを繋ぐように音を繋ぎ合わせて、それでようやく、意味を読み取ることができる言葉。
 おれは、
 しあわせだった。
 でも、おまえは、
「つら、そう…… だね……?」
 ちゃり、と音がする。セフィロスは身体を起こす。バッツの、硬く握り締められていた指がほどけ、中にあったものがこぼれた音だった。砂の上にちいさなものたちがこぼれ、触れ合って音を立てる。いくつもの小さなかけら。たわいもないものたち。
 白い貝殻や、めのうの欠片。
 波に洗われて、やわらかく磨耗したガラスの破片。
「あげる」
 そして、銀の細工物。
「おれの、だいじな」
 セフィロスはようやく思い出す。銀細工の飾りの正体に。
 そういえば、この虚ろげな風を、必死に追いかけていた男が一人だけいた。秩序の女神の兵だった。まだ若いが強い手足と確かな太刀筋を持った若者。瑠璃のひとみと鷹羽の髪。
 とっさに目を上げて辺りを見回すが、だが、彼の若者がそこにいたらしい痕跡は、すでに何も残ってはいなかった。波が洗い流してしまったのだろう。死んだものは光となって消滅し、そこには痕跡すらも残されない。だから、ここには、何も無い。火薬の臭いも、血肉の残滓も、何も。
 ひどく意外なものを感じながら、ふたたびセフィロスは、バッツの顔を見下ろした。まどろむようにやわらかな表情。あどけない幸福の色。
 あげるよ、とくちびるが繰り返した。
「だいじな、」
 
 だいじな、せかいの、ぜんぶ。








たぶんFF5の世界だと、浜辺に漂着するすりガラスなんてものはない。
FF7の世界の海岸は、はだしで歩けないだろうなぁ…