/夢と現



 この人、死んでいるの。きれいな人。生き返らせることは出来ないの?

 無理だ。

 残念ね。もし生きていたら、どんなにか好きになったでしょうに!



 ―――その生に置いて、彼女は、あの虚ろげな風のことを、何よりも愛していた。女が男を愛するようにではなく、母親が子どもを愛するように、もっというのなら、乙女が小鳥を愛するかのように、愛していた。
 やわらかい象牙色の髪。煙水晶のひとみ。手を広げて、高く不安定な場所をゆっくりと歩く仕草。振り返ったときの表情。コントラスト。
 どうして、彼女のような存在が、あの子を愛することを拒めただろう。境界線を見失った不安定な命。今にもバランスを崩してまっさかさまになりそうな、高い小枝にしがみついた仔猫!
 誰もいないから孤独じゃないし、一人ぼっちだから寂しくもない。矛盾にまみれた心が、あどけなく澄んでいた。その目を覗き込んだ最初の瞬間にもう、彼女は、あの子のことを愛することを決めた。誰のためでもなく自分自身のために。
 そう……
 すべて闇の中から這い出した存在というものは、人でなしの哀しい心を、ことのほかに愛するものなのだから。


 濃く薫りたつ血の匂いを感じて、《雲》が目を覚ましたのは、とある夕暮れごろのことだった。まぶたを開くと欝金色の目であたりを見回し、いったい何事が起こったのかといぶかしむ。闇の中からゆったりと身体を起こした。乳のように、霧のように白い肢体。
 甘い香りは、夜の百合のように濃厚で、むせ返るほどだ。うっとりと息を吸い、周りを見回す。呼びかける。
「誰ぞ、いるのかえ?」
「……ファム」
 《雲》は、思わず目を瞬いた。背後で風が音を立てた。笛を鳴らすような音がやむと、そこに、一人の青年の姿がある。《雲》が驚く間もなく、彼は、ぐらりと地面へと倒れこんだ。
 短い髪、色石の飾り、煙水晶の目。
「どうした」
 《雲》はふわりと彼のほうへと近づく。血の香りがいよいよ濃くたちこめる。まるで蜜のよう。くちなしの花のようだ。
 地面に倒れたままの彼は、少しばかり、途方にくれたように笑った。《雲》は起き上がる気力もないらしい彼をそっと膝に抱き寄せてやる。髪を指で梳きながら、顔を覗き込む。母親が子どもにするように。
「血の匂いがするの」
「……うん」
「何があった」
 細い指先で、肩から胸にかけてをそっとなぞる。そこには奇妙な傷跡があった。古くなって匂いが強くなった血が赤黒い痕を残し、衣装がざっくりと裂けている。けれど皮膚には傷一つない。《何の傷跡も残っていない》。
「おれはね…… おれ、あいつを殺したんだ」
「あいつ、とは?」
「あの、きれいな青い目をしたやつ。ファムも憶えてるよね。額に傷があって、大きな剣を持った……」
 ふいに、彼は、怯えたような顔をする。その面をとりどりの表情がとりとめもなくよぎった。恐怖、悲しみ、驚き、喜び、微笑み。
「何て名前だっただろ?」
「スコール。スコール・レオンハート、であろ」
「……ああ、そうだね、スコールだ。青い目のスコール」
 スコール、スコール、と彼は繰り返しつぶやいた。その名前を忘れまいとするように。
「あいつは、おれのことが、大好きだった」
「ああ、そうだった」
「おれを見ると泣きそうな顔になったし、名前だっていつも呼んでた。でもおれを殺したかったんだよね。なんでかわからないけど」
「そうであったのう」
「だからおれも、あいつと、殺しあってみることにしたんだ…… それで、おれもあいつも、どっちも死んだはずだったのに」
 なんでなんだろう? と彼は細い声でつぶやいた。手を持ち上げると、色石の手巻きが、ちゃら、と音を立てる。
「大怪我して、おれも死ぬはずだったのに、何故か、生き残っちゃったんだ」
 《雲》は返事をせずに、くりかえし、指先で彼の傷跡をなぞった。正確には《傷跡》ですらないだろう。肩からわき腹にかけての血まみれの肌。乾きかけた血の匂いは、雲には、くちなしか百合の花の香りのように、強く甘い香りと感じられる。これだけの血を流したならば、と《雲》は思う。
 間違いなく、人間は、死に至る。誰かに助けられることがなかったなら。
「虚ろげな風よ…… 可愛い旅人」
 《雲》は赤黒く汚れた指を、そっと、彼の頬に当てる。
「どうやらそなたの命を救ったものがいるようじゃの」
 彼は丸い目を見開く。
「おれを? どうして?」
 《雲》は目を細めた。むせるように甘い血の香り。
「さて、分からぬ。さても奇妙な話よの」
「……あいつのほうは? 青い目のあの子は?」
「さあ、おそらくは、死んだのであろうな」
 まなざしが不安定に宙をさ迷った。当惑を浮かべた愛しい子を、《雲》は、いつくしむような表情で見つめていた。指先で梳く象牙の髪がやわらかい。日焼けした頬の感触、膚の感触。
「残念か? あれに、先に逝かれてしもうて」
「どうだろう」
 彼はあいまいにつぶやく。
「よくわかんないや。こうなるなんて想像もしてなかったし」
 若者は逝き、青年は残される。
「殺しあいをしたら、どっちも死ぬんだろうなって思ってた…… あいつにだったら付き合ってあげてもいいって思ってたし」
「そうか」
「なんでこうなっちゃったんだろ。おかしいよ」
「そうであろうか」
「なぁファム、あいつ、なんて名前だったっけ?」
「―――さてな。わしも、もう忘れたわ」


 孤独も知らぬ、愛も知らぬ。
 そんな風に《彼》が生まれついたのは今生の輪廻における偶然で、なんらかの失敗の結果である、と多くの兵たちは思っていた。彼らは所詮まがいものの兵でしかなかったが、基本的には殆どが元々の世界での生まれつきとそう変わらぬ姿で生まれてくる。邪悪なものは邪悪なままに、狂気なものは狂気のままに。
 だが、今生の彼は傍目にもあきらかなほど普段と姿をたがえている。放浪を好み執着を持たない心は常の彼と変わらないが、今回ばかりはいささか度が過ぎていた。散漫な心は混沌の兵としての定めにすら事欠くありさまで、殆どの場合では彼は数に足りぬもの、一種の出来損ないであると考えられていたようだった。
 だが、それは思い違いだ、と《雲》は知っている。
 彼は狂ってもいないし、失敗しているわけでもない。
 人間の心は、たくさんの面を集めた切子のガラス球のようなものだ。太陽の光の下で転がせば、無数の面から入り込んだ光が、そのたびに違った表情を見せてきらめく。ときにその姿が不可思議な彩を見せたとしても、それは《珍しい偶然》以下でも、以上でもない。



 途切れ途切れに言葉を交わしているうちに、彼は、うとうとと寝入ってしまったようだった。《雲》は畳んだ膝の上に小さな頭を抱いたまま、指先で髪を梳き、とりとめもなく物思いにふける。が、ふいに近くに気配を感じる。その持ち主の混乱がかすかな虫の羽音のように伝わってくる。《雲》は、振り返りもしないままで、くつくつと笑った。
「―――何が可笑しい」
 低く不機嫌な声が聞こえてくる。《雲》は振り返りもしなかった。
「よういらしゃったの、英雄殿。そんなに此れが気になってか?」
 大股に地面を踏みしめ、近づいてくる足音がした。手首や腰に帯びた飾りがかすかに触れ合う音。肩越しに降り返ると、丈高く痩身な、鋼の滝のような銀髪をした男がいる。
 英雄で、天使。銀の髪のセフィロス。己の刀の届く場所で正確に足を止めたセフィロスに、《雲》は、猫が喉をならすような笑みを漏らす。
「その様子、どうやらおぬしがこれの命を拾ったようじゃの」
「……」
「さても奇妙な気まぐれよ。己の人形以外に奇妙を持たぬはずの己が、何故こんな気まぐれをおこしゃった?」
「……知らん」
 答えるセフィロスの声は、怒りすれすれの不機嫌さに満ちていた。
 その長身と、体格から考えると、異様なまでに美しい骨格をもったセフィロスという人間。どこまでも人工的な丹精さが付きまとうこの男は、けれど、今ばかりはひどく困惑しているように感じられた。さても奇妙なことよのと《雲》は可笑しげに目を細める。
「《これ》は、お主好みの玩具だったかえ?」
「……」
「それとも情が沸いたかの。どちらにしても、さても奇妙な気まぐれであることよ」
「……」
 《雲》はひそやかに微笑み、膝に抱いた青年の髪をそっと撫でた。やわらかい髪が血でこわばっている。指先に血の薫りが移り香となって残る。
「《暗闇の雲》」
「ふむ?」
「そいつは、《失敗作》で、《狂っている》のでは無かったのか……?」
 セフィロスの声は低い。ほとんど呻いているようだった。
 ふむ、と《雲》はつぶやき、はじめて、肩越しに振り返った。
「誰がそのようなことを言うた。さしずめ、ガーランドか皇帝あたりか」
「その両方だ」
「なるほど。正しいか間違っているかはさておいて、たしかに奴らのいいそうなことではある」
 狂気、正気。どちらも人の見方によりけりだ。切り子のガラスを、ひとつの方向からしか見られないものが好む類の言葉ではあるけれど。
「おぬしはどう思うたのかえ、英雄殿? こやつは正気と、はたまた狂気と?」
 セフィロスからの応えはなかった。《雲》は、薄暮の色のひとみで彼を見つめる。
「分からん」
 セフィロスは、吐き捨てた。彼らしくも無い困惑が声に滲んでいた。そして、棄てるように何かを地面に投げ出す。《雲》は目を細めて《それ》を見つめる。何か装飾品のようなもの、ひしゃげた銀細工のようなものだった。
「それが、寄越したものだ。だが私には不要なもの、目を覚ましたら返してやるがいい」
「ほ、ほ、ほ」
 《雲》は思わず笑みこぼれた。声を上げて笑い出す。セフィロスの顔がとたんにこわばる。怒りを露わにした声で、「何がおかしい」と吐き棄てる。
「そなたにもそのような《情》があってか、と思うての。さても感傷的なことよ」
「それは、その男のほうだろう」
「まさか。《これ》はお主に遣ってしまったものになど、今さら頓着もせぬわ」
 英雄は眉を寄せる。奇妙で美しい双眸が、困惑にきらめく。
「先の問いに答えてやろう。こやつは《正気》か、《狂気》か? わしにとってはどちらでもないわ。ただこやつの狂気も正気も、いささか珍らかであるとは思うが」
 美しい女の姿をした妖しの膝の上で、青年は、あどけない子どものように寝入っていた。かすかな呼吸に胸が上下していた。何の夢も見てはいないだろう。この虚ろげな風は、夢を見ることなど決して無いのだ、と《雲》はいとおしむように思う。
「英雄殿、天使殿。そなたにとっては何が《正気》で何が《狂気》じゃ? 珍らかなもの、美しいもの、醜いもの、すべてを愛して気もそぞろに、見たことのないものばかりを追うているのは《正気》かえ? どのような場所にいようとも、己の愛するものを愛し、心の思うままに喜びを喜び悲しみを哀しみ、一瞬ごとの生を全うするのは《狂気》かえ?」
 謎かけめいた《雲》の言葉に、セフィロスは黙りこむ。《雲》は睦言のように柔らかくささやく。
「《正気》も《狂気》も知らぬ心は、全てを受け入れるものよ」
 そうして、それは。
「それはそれは、残酷なこと……」
 ふと、《雲》の膝の上で、青年が身じろぎをする。セフィロスは目をまたたく。《雲》はいとおしげに頬を撫でる。ぼんやりと目を開いた青年は、《雲》を見、そして、その肩越しにセフィロスを見た。
「……ファム。それに、セフィロス?」
 どうしたんだ? と青年はつぶやいた。まだ半ば夢見るような声で。
「バッツよ。あやつはの、お主に渡したいものがあって此処まで来たようじゃ」
「渡したいもの…… おれに?」
 目線が不安定にさまよい、やがて、無造作に投げ出された銀の細工物を見つける。目をまたたく。まどろむように。
「あの子の首飾り?」
「虚ろげな風よ」
 セフィロスがふいに、問いかける。青年は目を瞬く。
「ひとつ問おう。お前にとって、あの男は、いったい何だった?」
「あの子が、おれにとって?」
 しばらくの間、青年は黙って目を瞬いていた。やがて小さく礼を言って起き上がり、子どもっぽく拳で目をこする。仕草はたどたどしくて、まるで、ほんの小さな子どものようだった。
「よく、分かんないや」
 やがて、彼は答える。
「あの子がおれにとって何だったかなんて、わかんないよ」
 でも、もしも。
「もしあの子がおれと一緒にいられたなら、きっと、大好きになっただろうなあ」
 青年は、バッツは、銀の飾りを拾おうとはしなかった。ただただ、あいまいにつぶやく。
 《雲》は黙って聞いていた。セフィロスは酷く彼らしくない表情を浮かべていた。
「もしそうなることが出来てたら、ほんとに、ほんとに、心から好きになってただろうなぁ……」
 バッツの口ぶりは、まるで、夢の話をするかのようなものだった。

 ……表情も声もまた全てが、夢見るように、あどけないものだった。

 





私の中にすごくヘンな二次設定が定着してます。
雲さんは実は某東方キャラと同一人物とかね

\ババァ!! 俺だ!! 結婚してくれー!!/