まどろむ蝶々



 むき出しになった肉を護るため、体を包んでいた粘液がどろりとはがれたとき、むせかえり、空気におぼれそうになるのが怖くて泣いたことを覚えている。セシルは、それより前は普通の人間のかたちをしていた。手足がしなやかにのびていく早さに心の成長が追いつかない幼げな少年。それが、あの日、糸を引きながらぼたぼたと滴る粘液を見下ろしながら、永遠に失われたということを識った。赤い血とあたたかい手足と麦の色をした髪をなくすことで、弱虫だったセシルは、はじめて、まっすぐに自分の足で立つ力を手に入れた。そうなのだと思った。
 そうじゃなかった。
 自分は、それよりずっと前から一度も、一人で歩ける強い人間なんかじゃなかった。
 弱いまま生きるということ。弱さの別名がもろさだけでなく、ときに【やさしさ】だということを知るまで、それから長い年月が必要とされることになる。

 ―――黒い貝の、青みがかかった虹色に似ている。
 はじめてフリオニールがセシルを見たとき、思ったことは、それだった。
 かたちは、人に似ている。痩身で背が高く、手足のながさがどことなく華奢な印象を与える。その体格は年若い青年のもの、それも素裸にちかい姿をしたときのものだ。そのかたちをくまなく、貝の内側のような青光りを帯びた『殻』が覆っている。
 普通のやり方では、身に着けることも、まして、その姿で動き回ることも不可能なような姿を、セシルはしていた。手足の関節が複雑に入り組んだ構造をつくり、肩や膝に突起があり、頭部をつつむ線が生物質のなめらかな流線を描いている。そんな姿。
 鉄でもなく、革でもない。より珍しいものである漆やエナメル、七宝の彩でもない。セシルの鎧はところどころが黒曜石を割ったようなガラス質の光沢を帯びていたが、ときに光を受けるときには螺鈿さながらの文様が細かく入り組んだ螺旋を見せた。青と緑と灰色と、そして黒。そんな色だけで虹を描こうとしたなら、それでようやく彼の姿に似た風貌を作り出せるだろうと思われた。
 ……人間なのか。
 ……それとも、人間に似ているだけの、"何か"なのか。
 彼の面差しはどことなく甲虫のたぐいのそれに似ていて、淡い琥珀色のもので覆われた目の辺りの向こうには、どんな動物に似た視覚器官の姿もみつけられなかった。だいたい、場所からしておかしい。もしも単に樹脂をはめこんだだけの目庇だったのなら、あんなものを身につけて、まともに戦えるだけの視野を得るのは不可能だ。
 フリオニールははじめいぶかしみ、それから少し警戒もしたが、他の仲間たちを見ているうちにすぐにもセシルの存在になれていった。クラウドがいた。彼は、ある種の鉱石のような奇妙な光を帯びた目をしていた。人間そのままの姿のくせに敏感ですばやい尻尾を持ったジタンがいた。臆病ではにかみ屋の少女にみえるティナは自分は半ば人間ではないらしいとためらいがちに告白した。そういうことなのだろうと思うことにした。柔軟な理解力をもっていなければ、過酷な戦場で生き残り続けることはむつかしい。
 それに、極めて異様な意味でではあったが、セシルは、とても美しい容姿をしていた。
 そんな異様な姿をしているくせに、物言いやしぐさがどことなく柔和で、ときおりはにかんだように言葉を控える様子はどこか内気な印象すらあった。フリオニールが思い出したのは、昔、まだ彼がほんの子どもだったころ、夜の中で驚嘆と共にその姿を見た生き物たちだった。
 暗い水底にすむ目の無い魚、真夜中に羽化して朝を待つ蜻蛉、固い殻を割れば震えるようにやわらかな果肉を見せる果実。セシルは、青貝のような黒い虹色によろわれた、ふるえるように敏感なもろさをもつ存在だった。それでいて彼は勇猛な戦士でもあるのだ。
 そこまで思ったとき、仲間として受け入れることにもはや抵抗は無かった。考えるべきことは他にも山のようにある。だからフリオニールは、セシルという【にんげん】の存在についてかんがえることを早々にやめた―――
 ……そうするべきだ。あとから考えれば、さきに、彼にもそう忠告しておくべきだったのだろうけれど。




 天体というものの無い場所でも、時のめぐりは存在するらしい。顔をしかめて泣きべそ顔をしているティーダに、フリオニールは、「大人しくしてろ」と声をかけた。ナイフの刃を火であぶりながら。
「うぅ…… うー」
「たいしたことじゃない。心配ならこれでも噛んでろ、ほら」
「ってか、消毒もしないでナイフでえぐるとか、どんだけ乱暴なんッスか!? ううぅ」
 泣き言めいたことをいいながらも、ティーダは、言われたとおりにフリオニールが手渡したバンダナをぎゅっと結ぶ。その結び目を奥歯にかみ締めた。フリオニールは鋭利な刃物の先端をためすすがめつ、ブーツを脱がしたティーダの足を自分のひざに乗せる。足の裏と甲、裏表が同じ場所にぽつんと小さな傷跡がある。ブーツの底をつらぬいて、足を貫通した傷。
「行くぞ。歯をかみ締めてろ」
「うん。……ッッツ!!」
 ぶつりと刃の先端が皮膚をえぐると、見る間に赤い血が珠となってもりあがる。ティーダは布をかみ締め、ぎゅっと目をつぶって顔を背けていた。作業そのものは一瞬ですんだ。フリオニールが迷いの無い手つきで傷口をえぐりとり、肉の中に残されていた金属の破片を摘出する。あふれる血を布でおさえながら、傷口にむかってポーションを注いだ。痛みはすぐにやわらいだはずだ。ティーダは大きく肩を上下させるようにして息を吐き、フリオニールは血まみれになったナイフを布でぬぐう。
「マジ、痛かった……」
「痛いで済んでよかったよな」
「ぜんぜん良くないッスよ!!」
「そうか? 骨に刺さったままで皮膚がふさがったら、えぐる程度じゃすまないぞ?」
 うっ、とティーダが黙り込む。血の気が引き、げんなりした顔になんとなくほっとしたようなものを憶えつつ、フリオニールは治療に使った小型ナイフを腰帯の内側へ戻した。
 おそらくは建物の内部のような場所だ、蜂の巣のような六角形の構造に壁を覆われ、光源もないのにどこかしら薄明るい。ティーダはそれでもしばらく気持ちが悪そうに自分の足首のあたりの具合をたしかめていたが、やがて、ため息混じりに布を足に巻き始める。
「マジ陰険ッスよね、設置型のトラップとか……」
「引っかかったのが迂闊だったな。足止めされているところを一網打尽、じゃなくって本当によかったよ」
 そう――― それは、トラップだったのだ。
 このエリアに足を踏み入れた瞬間、とつぜん崩落した床と、その下にびっしりと埋まっていた鋭利な金属の棘の群れ。とっさに反応できたフリオニール、やや遅れていてトラップを踏まなかったセシルはよかったが、ティーダなどは思い切り棘を足で踏み抜いてしまったのだ。その後、おそらく連動してだろう襲ってきたイミテーションをセシルが撃破し、一行は事なきを得た。
 ……事なき、とか言ったらティーダが気の毒かもしれないが。
 ぶつぶつ言いながらブーツをゆるめ、足を突っ込むティーダを、フリオニールは少しばかりの申し訳なさと共に見る。トラップからティーダを引きずりあげるとき、あやまって何本かの棘をへしおるような形になってしまったのだ。外からキズを治癒しても内部の異物は残ってしまう。ポーションを使えば治る傷とはいえ、ティーダには無駄な痛みを味あわせてしまったと思う。
「なぁ、セシルはどうしてるッスか?」
 そんな風に思って、ぼうっとしているとふいに、ティーダが言った。
「え?」
「なんかさっき、けっこうマジ気でダメージ受けてた気がするんッスけど……ひとりにしてて平気かな」
「いや、そばにいる。平気…… なんじゃないかな」
 ちらりと目線を横にずらすと、いつもセシルが決して手放さない武器が、壁の向こうに見えている。あまり距離を置けば、あれは勝手に姿を消して持ち主のところへ戻ってしまうだろう。セシルはそうやって距離をとっていないということを合図するのが癖だった。
 ティーダは目線を上げ、下に落とす。困惑の表情だった。
「怪我、してたッスよね」
「……みたいだったな」
「ほっといてもいいのかよ?」
「セシル自身が見てほしくないって言うんだから、しかたないだろ」
 いつものことだった。セシルは、自分が傷の手当てをしているところを見られることを、極端に嫌うのだ。
 足首を動かそうとして、まだ、ちょっと違和感があると思ったらしい。顔をしかめながらティーダは首をかしげる。
「一緒にいりゃいいのに。どうすんだろ、オレみたいに変な怪我だったらさ」
「……」
 戦いの経験が少ないらしいティーダならともかく、本職の軍人らしいセシルにそれはないだろう。だが言っても無駄だから無視をする。ティーダは口を尖らせる。
「なんか水っぽいッスよ。どーせだからフリオニールに確認してもらったほうが、オレだって気が楽なのにな」
「水っぽいじゃなくて《水臭い》じゃないのか? …見られたくないんだろ。なんか事情があるんじゃないのか」
「あの鎧を脱いだら…… 実はオンナノコ、とか?」
 ブッ、とフリオニールは吹きだした。ティーダはけらけらと笑う。
「ふ、ふざけるなっ。だいたい、あんな背の高い声の低い女がいるかっ」
「わかんないッスよー、世の中には体格に恵まれたコだっているッスもん。それにあの腰! あの細さはけっこうスゴいと思うけどなぁ〜?」
 女性相手にうぶなフリオニールだと思って、この言い草だ。「鎧の下はすっぱ、すっぱ〜」とティーダはフリオニールをはやしたてる。
「わー、びっくりッスね! 全身鎧の美少女戦士!」
「だからーっ」
「しかもブラコン。超がつく感じの」
「……っ!!」
 フリオニールはとうとう真っ赤になってしまう。とうとうティーダは腹をかかえて笑い出した。ひーひー言いながら足をばたつかせている年下の少年に背中を向けて、「勝手に笑ってろ!」とフリオニールは背中で怒鳴る。
「妄想してるーっ、妄想してるだろーっ」
「やかましいわっ。妄想はお前一人で十分だ!」
 情けない捨て台詞をはきながら、フリオニールは方法のていでその場を逃げ出す。ティーダの血で血まみれになった服をぬぐわなくては。このエリアにはかなりの確立で、ちょっとした噴水や水盤のようなものが設けられているはずだったのだが。
 予想は当たったらしく、すこしはなれた場所で瑪瑙でできた水盤を見つけた。フリオニールは両手の血を洗い落とし、ついでに、自分の顔も洗った。頭を冷やしたかったのだ。ぴしゃん、と自分の頬をたたくと、ようやく少し冷静になってくる。
「あのアホ! 馬鹿ティーダ!」
 緊張感のないお子様め。だが、頭の中で悪態をつきながら、ふと、フリオニールは真珠色の影が記憶の端をよぎるのを感じた。
 白い真珠色。水滴のような青珠を散らした…… セシルの髪。白い、夜を飛ぶ蝶々のような。
 セシルは、時々、戦いの中で違う姿を見せることがある、とフリオニールは思う。そういったときはたいていは己の敵に手一杯でまともにその姿を見る余裕が無い。だが、視界の端に感じてはいた。もうひとつの姿。触れれば銀の鱗粉の散りそうな、漆黒の騎士とはまったく違う意味で、非人間的な印象をもたせるその姿を。
 漆黒の虹。白い真珠色。どちらが本当のセシルなんだろう? きっと、常に見る黒い姿のほうが本当のセシルなのだろうと思う。あの姿で彼は歩き、走り、そして戦う。けれど、だとしたら真珠色のあわやかな影、もうひとつの姿はいったいなんなのか。
 ふと水盤を見れば、水面に映る姿は象牙色のひたいに銀灰色の髪をしたいつもの自分の姿だ。フリオニールはひとときじっと己の姿を見つめ、けれどすぐに、せんないことだと頭を振る。甲冑から血を拭い落とすため、足を水盤の上に乗せようとした。だが。

「―――フリオニールっ!?」

 ふいに、悲鳴が、聞こえた。
「!?」
 セシルの声だ。フリオニールは弾かれたように身を翻した。段を飛び越え、片手を当てて壁を飛び越える。半透明の構造の向こう。二人のいた場所。
「セシル!? どうし――― ッツ!?」
 何かを言いかけた瞬間、突然、正面から何かがぶつかってきた。ティーダだった。何を、というよりも先に、苦しいほどの力で腕を握り締められる。手が震えていた。日焼けした顔が真っ青になっていた。震える指で、ティーダは、自分の背後を指した。
「あ、あ、あ、…あ」
「何、が」
「あ、あれ、あれは、何」
 フリオニールはハッとして、目を上げた。
 そこにセシルがいた。
 セシルはゆっくりとした動きで、床に転がっていた頭部の甲冑を拾い上げた。そして、いつもの通りに自分の顔を覆った。顔を上げてこちらを見る。表情などわかるわけがない。黒い真珠母と黒曜石の面差し。
「ごめん……フリオニール。急にティーダが、僕のほうに来たから」
 いつもの、温和で穏やかな、セシルの声だった。だがフリオニールもまた、一瞬だったが、《それ》を見た。甲虫の殻に似た仮面の向こうにあるもの。
 げほっ、とティーダが奇妙な風にむせ返った。ふいに熱いものを腕のあたりに感じた。ティーダの目から、ぼろぼろと、大粒の涙がこぼれていた。べったりと顔にはりついているのは恐怖の表情だった。
「見られたくないものを見られちゃって…… 驚かすつもりじゃなかった」
 そう、とセシルは小さな声でつぶやいた。怯えるように。
「怖がらせたかったわけじゃ、ないんだ」







 驚き、とっさに足が逃げた拍子に、直したばかりの傷がティーダのバランスを崩した。ひどく足首をくじいていたティーダを、フリオニールは、ひとまず階段の後ろにある小さな場所へと座らせてやった。マントをはずして渡してやると、ティーダは頭からすっぽりとかぶって小さくなる。まるでお化けに怯えた子どものように。
 セシルのほうは落ち着き払っていた…… 一瞬はそう見えた。
「ごめん。僕が、ティーダをびっくりさせちゃったんだ」
「びっくりって…… なんであいつ、セシルのところに行ったりしたんだ。来るなって伝えておいたはずだったのに」
「僕が心配だったみたいだね。だいじょうぶか、って声をかけてくれたから」
 でも、とセシルは言いよどむ。
 フリオニールは見た。青貝の、螺鈿の、黒曜石の皮膚が、かすかに震えていた。
 フリオニールは唇を噛む。それも一瞬だった。すぐに、強い声で言った。
「どんな理由にしたって、来るなって行ってるのを覗きにいっていいわけないだろうが。あの馬鹿ティーダ!」
「あはは…」
 力なく苦笑する、そんなセシルの声は、いつもと同じように異様で美しい黒い騎士の姿には見合わぬやさしいものだ。フリオニールは見たものの記憶を反芻した。仮面をはずした素顔。その姿。
 その、異様で、忌まわしい素顔。
「……セシル」
「……」
 フリオニールは、ためらいがちに、手を上げた。そっと指でセシルの腕に、細い筋が複雑な遊色を織り成す上膊のあたりに、触れようとする。セシルは動かなかった。抵抗も、しなかった。
 そっと触れる。はじめ指で、それから手のひらで確かめた。この甲冑に触れるのは初めてだった。さまざまな武器や防具に精通したはずのフリオニールの手のひらに、真珠母めいて光る甲冑は、まったく未知の感触を伝えてきた。
 あたたかい。そして、強靭ではあるが、硬くはない。薄く頑丈な組織が幾重にもかさなりあい、複雑な構造がしなやかな靭さを作り出している。なるほど、貝に似ている、という想像は間違いではなかったのだと、フリオニールの頭のどこか、想いではない部分が驚嘆する。
 貝は、己の内側から特殊な体液をはいて、石灰質の薄い膜を作る。それが幾重にも幾重にも重なったとき、あの奇妙で美しい光沢が生まれる。虫は幾度も己の皮を脱ぐことで成長する。大きくなりきらない飛蝗が殻を脱ぐとき、内側から現れる体は、間違いなくそれ自身の体内で鍛えられて生まれた殻と棘に覆われている。
「……ずっと、鎧だと思っていた」
「鎧なんだよ。はずそうと思えば、はずすこともできる」
 セシルの声に、奇妙な苦さがにじんだ。
「でも、僕の体の一部でもある。―――この鎧は、僕の体から《生えている》んだ」
 この世の中には、そういった生き物がいる。セシルは恬淡と語った。もはや口調に揺らぎなどはなかった。
「昔ね、僕は暗黒の力を使うために、いろいろなことを試したことがあったんだよ。あの力は人間の体には大きすぎる。生身で使えば命を削る。どうしても使いたいなら、生身のままの自分をあきらめなきゃいけない。そういうことがあってね」
「……体を作り変えた?」
「成功したのは僕一人だった。僕以外にも暗黒騎士を志した人はいたけど、ここまで全身を作り変えた人はいなかったね。《作りかえられなかった》と言ったほうがいいかもしれない。腕だけや、足だけ、という程度のことをやった人はいたけど」
「なんでそんなことを……」
 フリオニールは力なくつぶやいた。せん無いことと知りながら、言わずにはいられなかった。
 強靭でしなやかな甲冑であり甲殻。だが、その代償はあまりに大きい。フリオニールは、ほんのわずか前に、それを目の当たりにしてしまった。あまりといえばあまりに無残な代償。
 皮膚をうしない爛れた肉。
 変形しむき出しになった骨。
 そして、顎から鼻筋にかけての部分だけが奇跡のようにほとんど無傷で、やわらかく繊細な造作をそのままに残していた。それが逆に目を覆うほどに痛ましい。本来ならば瞳のあったはずの場所。そこには、ひきつれた傷跡が残るだけだった。
 仮面の両脇、人間の目がありうる場所から離れたところにあるふたつの琥珀が、フリオニールを悲しげに見ていた。なぜこの場所に《目》があるのか、もはや理由はあきらかだ。セシルはより広い視界を得るために、己本来の目を犠牲にしたのだ。
「侵略のためだった」
 セシルはいった。はっきりと。
 フリオニールは目を見開いた。だが、セシルの声は揺らがなかった。常のようにやわらかく、やさしい。
「僕の母国は、戦争をしていた…… より強い兵が、死ぬことの無い兵器が、必要だった。僕はそのためにこの体を進んで手に入れた。バロンの仲間たち全てのために」
「戦争…… 侵略だって?」
「そう」
 セシルは、指を握り締めた。もっとも複雑な構造をした器官。どのような職人が手がけた篭手でも到底たどり着きようがない精緻を極めた構造。
「僕がこうなったのは侵略のため。もっというなら、人殺しのためだ。僕は、親とも慕った人の命令に従うために、この体を、引き受けた……」
 声も無かった。
 頭の中が、真っ白になりそうだった。
 こちらをみているのかすら分からない琥珀の目の中に、フリオニールは一瞬、かつて見たことのある多くの存在の影を見た。己が欲望のために無辜の民を殺すもの。命令がためと己の心を捨て大地を蹂躙するもの。フリオニールの全てだったものを奪ったものたち。帝国の手先。彼らの姿を、フリオニールは、セシルの中に見た。
「なんで…… そんな…… バカな。お前が!?」
「そうだよ」
「冗談じゃない! お前みたいな優しいやつが、どうしてそんなバカなことしたんだ!」
「……」
「人殺しのために、人間を棄てただって!? なんでそんなことしたんだよッ。そんなことのためにそんな身体になったなん……」
「フリオニールッ!!」
 言い募りかけた言葉が、途中で途切れた。
 フリオニールは振り返る。セシルもまた。のろのろと足を引きずるようにして、こちらへと少年が歩いてきていた。マントを地面に引きずりながら。まだ、今にも倒れそうに真っ青な顔をしたまま。
「やめろよ、そんなこと言うの。……酷い、そんなの」
「ティーダ……」
 二つの、くっきりとした目が、二人を見た。今にも泣き出しそうだった。捻った片足を引きずりながらこちらへと歩いてくる。フリオニールは思わず立ち上がり、ティーダのひじの辺りをささえる。
「あんな…… ひどい。あんなに無茶苦茶なキズ…… セシル、自分でわかってて、やったんッスか」
 震える声で問いかけるティーダに、セシルはしばらく返事をしなかった。静止した姿は異様な姿の彫像のようだった。けれどやがて。
「―――うん」
 セシルは、うなずいた。
 ティーダはグッと息を呑む。泣き出すどころか、今にも胃の中身を吐いてしまいそうだった。ティーダがかすかに震えているのをフリオニールは感じた。当たり前だろう。戦場を行ったこともない17歳の少年が、あんなものを見たなら。
「痛く、無かった、んッスか」
「……痛かったよ。ものすごく」
「後悔、しなかったんッスか」
「何度も、後悔したよ。部屋中の鏡を壊した。自分の顔に触れなかった。もうずっと、誰にも素顔なんて見せてなかった」
「じゃあ、どうして、そんな」
 セシルは黙った。少しの間。
 答えは、今までの頼りないものとは比べ物にならないほど、簡潔で、明瞭だった。
「強くなりたかったんだ」
 セシルが顔を上げていた。こちらを見ていた。青貝の四肢。螺鈿の甲殻。しなやかでありながら強靭。この世に二つと無い、異様さに充ちた美しさ。
 強くなりたい。
 フリオニールは己の胸に込みあげた思いを疑う。
 それは、かつて己が抱いたものと、まったく同じ想いではなかったか?
 だが、フリオニールの傍らで、太陽の匂いのする少年は、くしゃくしゃに顔をゆがめた。喉の奥から押し出す声が、涙に霞んでいる。
「わかんねぇよ」
 足を引きずり、歩き出す。フリオニールは立ち尽くしたまま動けない。ゆっくりと、どうしようもなく遅々としてセシルの前にまでたどり着いたティーダは、彼の前にがくりと膝をついた。手を伸ばす。触れようとした。黒く、そして青い光沢を帯びた頬に。琥珀をはめこんだ瞳に。
 けれど。
「わっかんねぇ…… わかんねぇよ!」
 指が震えた。おそらくは、恐怖と嫌悪に。ティーダは螺鈿の甲殻に触れられない。誰かのために流される血を、積み上げられ踏みしだかれる死を知らない少年は、セシルの選び取った苦痛と醜さに耐えられない。
「なんで、そこまで……っ」
 ぱた、ぱたと、涙が滴り落ちた。その雫は透明だった。海の飛沫に似た雫。血ではないもの。セシルのために、流されるもの。
 フリオニールは立ち尽くしたまま、ふいに、セシルが微笑むのを見た気がした。錯覚だったのか、それとも、しかと己の目で見たものだったのか、フリオニールには分からなかった。
 セシルは微笑む。手を伸ばす。指は、海の泡の白さ。指先の爪は青みがかかった薄い貝殻。
 ひとみの色は青かった。髪は、貝の吐くものをそのまま糸と成した真珠色だった。くちびるの色が薄い。まるで皮膚の下に流れる血潮が、ただびとのような赤い色では無いとでもいうかのように。
「ティーダ、きみはいい子」
 浅瀬の色のひとみが、おおきく見開かれる。セシルはその目元を指でぬぐった。貝のようにすべらかで傷ひとつない手だった。
「うまく言えないけど…… 僕はたぶん…… 君みたいな誰かのために、こうなろうと思ったんだ」
 セシルは少しこまったように微笑った。どこかはにかむような笑い方は、いつもと変わらぬ、間違いなく彼らの知る、セシルのもので。
「僕は一度だって君みたいに泣けなかった。だから、誰かにはそうであってもらいたかったんだと思う。―――僕は、どうしようもなく、間違ってしまったけど」
 立ち尽くすフリオニールを、セシルは見上げた。青い目だった。黒い騎士と変わらぬほど、非人間に思えた。いたたまれずフリオニールは顔を背けた。どうしてもセシルのいう言葉を許せない。許してはいけないと思う。けれども。
「怖がってくれていいと思う。僕は、すごく醜いから。でも…… 認めてくれてありがとう。僕はティーダも、フリオニールも、大好きだよ」
 すこしはにかむように微笑むと、真珠色の髪が揺れた。銀の粉が散るようだった。ティーダはその笑顔に目を奪われ、自分の目元をぬぐうことも忘れている。
 ……白い蝶々。フリオニールはふいに、そう思う。
 硬い殻のなかで形をわすれて融けゆきながら、さなぎは蝶の夢を見る。あの美しい、脆い生き物の。はたはたと羽ばたいて光る粉を散らし、夜に惑う生き物の。
 







 いつか、フリオニールはセシルのことを許すこととなる。その愚かさも醜さも、彼が踏みしだいてきた死をも。
 けれどその日が来ても、彼は、忘れることは無かった。このときに見た無残な姿の醜さも、その隠したやわらかい美しさも。
 月の子どもは、まどろむ蝶々。
 ……いつか、彼らは、それを知ることとなる。










月は悲哀、月は諦念、月は海容。