/風を慕う
狭くて白い部屋からは、同じ景色が見える。
周りを囲んでいるのは硬くてつめたい死んだ石で、同じ場所にずっと倒れていても、いつまでもあたたかくならなかった。逆に体温を吸い取られて身体がひえていく気がする。流れた血が乾いて床にこびりつく。おれは、そのしみをみつめて、やっぱりおなじ石になれないかと思っていた。
ムリだった。
「……ららら、ら、…タタタ」
ごろりと身体を動かして上を向くと、頬にすこしだけ光があたった。おれは、まぶしさに目を細める。硬いガラスに幾重にも隔てられたものであっても、やっぱり、太陽の光はあったかい。あったかいし、まぶしい。大好きなもののひとつ。
「タ、タタタ…」
空が、四角く、小さく、切り取られていた。
太陽が空をよぎり、光がこの部屋に差す。それは一日の中のほんのわずかな時間で、おれは、その時間だけ生きた存在になっていた。他の時間はずっと死んだ石でいられるのに、残酷だ、とときおり思ったりもする。でもそれは太陽のいない時間だけだ。たとえば知らない人間に身体中をいじくられるときとか。鉄や、つめたい火や、他のなんかのせいで、死ぬほどいたい思いをするときとか。
「ら、ららららら、ら、ら… た、タタタ」
石になりたい。小さくて硬くて、死んだ石みたいになって、なんにも思わなくなりたい。
あんまり辛くて、そういうときはそんなことを思ったりもする。
でもダメだった。やっぱり、太陽を感じると、空を見ると、おれの中の一部分は生き返ってしまう。やっぱりこの光が好きだと思い、そして、それに手を伸ばして、触れたいと思ってしまう。今日もやっぱりおれは手を伸ばしてしまった。透き通るような光のなかを、傷だらけの指が、すりぬける。
触りたいなあ。やっぱりムリか。
爪が無い。羽も。今の自分の手を見ると、これはどうみても人間の手だと思う。
「ら、らら、らー、ららら、」
うまく、うごかない。今日はたぶん、ついさっきに死ぬほど床をかきむしったせいだと思う。身体の中を針でさぐられるのはとても痛かった。そして、辛かった。人間の身体はもろくて、喉も胸も、叫びすぎると壊れそうに音を立ててきしんだ。でもそのほうがましだと思う。まやかしの身体なら、何をされても本当じゃない。おれの中の、ほんとうに本質的な部分に、触れられるほどじゃない。
ああでもやっぱ、痛いなあ、畜生。石になってしまえば、よかったのかなあ。
「タタタ、タ、…らららら、…ら、ららら」
でも、そんなキモチとはぜんぜん関係なしに、おれの指は空をつまびくようにして、いつか、歌ったことのある旋律をつぶやいていた。この小さな部屋は退屈なところだ。苦痛がないときは退屈がある。おれは仕方ないから歌を歌う。懐かしい歌をつぶやき、自分をまぎらわせ、この現実をちょっとでも和らげようとする。そんなこと無駄なのは分かっていたんだけど。
風が聞こえない。この部屋は。
さみしい。風がほしい。空が、光がほしい。おれを抱きとめてくれる大きな場所。エレメントに充ちた軽やかな空間。ふるさと。おれの居場所。風の充ちる空。
ここは寒い。ここは狭くて、ここは冷たい。痛くてさみしい。
外に出たいよ。ここはいやだ。風が聞こえないから。
だして。だれか、ここから。
もう飛べなくてもいいから。
羽も歌も、空も、なくていいから。
ここから出してほしい。おれに、風を、返してほしい。
そのためならなんでもする。
どんなことだって、してやるから。
「おもい、はるかなる、…ふるさと……」
音に乗せて、つぶやくようにそっと歌う。それが太陽への今日のさよならだった。窓の外からゆっくりとフェードアウトして、今日も、お日様は狭い窓のそとへと、逃げていってしまった。
壁をすり抜けた向こうから、つぶやくような歌声が聞こえてくる。
焔の幻獣は、硝子のフラスコの中で身じろぎをした。ああ、あの声。聞こえてくる。光とたわむれ空に歌う風の獣。永遠の幼子、あどけなくも気まぐれな風。久しくその姿を見ていない。彼は、その名を呼んでみた。声ではない声。音ではない音で。
《聞こえないのか、イルルヤンカシュ。……イルルヤンカシュ》
《やめなさい、イフリート。あの子はすべてを忘れているわ》
《シヴァ》
隣のフラスコのなか、きらめく霜にびっしりと覆われた硝子の向こうから、氷柱をぶつけあわすような声がした。針のような霜に覆われた硝子、けれど、隔てられてもなにもないのと同じことだ。青い肌を持つ氷の美姫は、ゆっくりと身体をおこす。長いまつげがしばたき、切なげに目が細められる様子が、見えたような気がした。
《いくら呼んでも聞こえるわけがない。やめたほうがいいわ、そんなことは》
《……あやつは》
《あの子は、”かたち”を棄ててしまった。可哀想なイルルヤンカシュ》
イフリートは思い出した。ほんのわずか前のこと、あの風の仔が受けた仕打ちのことを。
親しい知り合いだった…… 焔は風を求めて燃え、風は焔にまつわるものだ。だからあの獣のことは知っていた。
風のエレメントが形をとった存在。言ってしまえば、そう、純粋な風の申し子のような存在だった幻獣。ときにお互い戯れあい、舞を舞うように戦いを演じ、長い長いときをすごしてきた。気まぐれゆえに人に知られることも捕らえられることもなかったその存在と、けれど、何百年ぶりかに再会した場所が、まさか人の手によってとらわれた檻の中になろうとは、思ってもいなかったけれど。
あの仔から、人は、《力》を取り出そうとしていた。そのつもりだったのだろう。イフリートは何度も何度も、その魂がきしみ、絶叫を上げるのをきいた。嵐の中で空が裂け、悲鳴を上げるようなその声。
絶叫がよわよわしい悲鳴に代わり、いつか、哀切な啼き声にまでかぼそく変わった…… いつかイフリートは、自分の耳がその声を捕らえられなくなっていることに気付いた。そして、彼が見つけたもの。それは風を待とう獣ではなく、二本の手足を持った、人の形をした存在だった。
それほど耐えがたかったのか。動き続けることが本性である風が、ひとつところに囚われているということが。だが、あの仔が逃げ込んだ場所は、それもまた決してなんら救いにならないような袋小路でしかなかった。このような場所で人の形をした存在としていきることが、どれだけ苦痛に満ちたことか、あの仔は知っていたのか。
最後に見たときの姿を思い出す――― 銀で作られた重い鎖。封印にとらわれた人のかたちを。
もろい体が赤く腫れあがっていた。あるいは青黒く、あるいはどす黒く。思いのままにならぬ場所に逃げ込んでしまった獲物に、残酷な誰かはひどく腹を立てたらしい。背中に大きく何かが焼き入れられていた。おそらくは文字。何かの管理番号のようなものか。
けれど、どのような手段を弄したとて、風は捉えることは出来ない、とイフリートは思う。
《イルルヤンカシュ。…イルル》
呼びかけて、イフリートは、声をとぎらせた。隣の檻で氷の娘が痛々しげにこちらを見ていた。だが、かまうものか。イフリートは呼びかける。細い歌声はもはや途切れ、力なく石のゆかに横たわる気配がする。鎖がたてる音。
《誰でもいい。人の子よ。風を抱きし人の子よ》
彼は、空を見ているだろう。光を思い歌を思い、風を思って。
だが、たった今彼が逃げ込んだその場所が、どれほどあやうい場所であるのか、その魂は気付いているのだろうか?
《死んではならぬ、人の子よ。生きろ。生きて逃げろ。どこまでもどこまでも地の果てまで。お前の魂に帰るまで。風よ、お前の心は、決して空と光とを、忘却することは出来ぬ》
けれど。
たった一つだけ。
《だが――― 忘れるな、風の子。お前の本質を、風の心を。自由の魂を》
人の心は、ときに、あまりに簡単に、囚われてしまう。自らを地面に縛り付けてしまう。絡みつく鎖は彼の魂から本質を奪うかもしれない。鎖よりも硬く、強く、また、取り返しのつかないほどに。
―――その重い鎖の名を、人は、”想い”と呼ぶというが。
《忘れるな。お前の魂を縛るものは無い。"想い”も"絆”もお前を縛ることは出来ぬ。誰に愛されようとお前の心は風の心でありつづける。だから―――》
忘れるな、とイフリートは呼びかけた。繰り返し繰り返し。風の歌はもう聞こえなかった。あるいは疲れ果てて眠ってしまったのか。その器である人の身体のほうが。
それでも、イフリートは、何度も呼びかける。
祈るように。
バッツ幻獣設定パロ。
幻獣イルルヤンカシュ 属性:風 とか考えてました
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