/トランジェント



 お前いつかバイクと心中するぞ、と、あいつの愛車を引き取ったときに、馴染みの工房のやつに言われた。
 バイクは走り続けていないと倒れてしまう。だが、スピードを出しすぎると、どこかの境界を越えた瞬間、この乗り物は乗り手の意思をまったく無視して暴走するただの鉄の塊になる。弾丸と同じだ。放たれたタングステン弾のスピードは音を追い越して静寂の領域を通り過ぎる。俺はそのとき、その言葉を自分の記憶に刻みつけようと思った。教訓としてじゃない。目標としてだ。
 ザックスはもういない。あいつは、たぶん《沈黙》の向こうへと言ったのだと思う。あれだけ騒がしいやつだったんだ、さぞ退屈な思いをしているだろう。俺があいつに追いついて、少しでもその《沈黙》を埋める役に立てるのなら、それでいいと思う。それが、いいんだと思う。

 そして音の無い、変な夢から目を覚ましたら、俺は油くさい小さな工房の隅っこだった。

「あぁ、クラウド、起きた?」
「……?」
「身体冷えてるだろ。そこ、暖房入れたぜ」
 言われたとおり俺の身体はぎしぎしときしむくらいに冷え切っていて、起き上がろうとしたら背中が嫌な音を立てた。顔をしかめて狭い場所から這い出す。どこかの車から外してきたらしいシートだった。夜だ。工房の中は作業燈で明々と照らしだされていて、おかげで、いてついたような冬の暗闇が、吸い込まれそうなほどに深いもののように感じられる。
 誰だろうか。寝ぼけていて、まだ、そいつが誰なのかよく分からない。俺がぼうっとしていると、「そこにヤカン」とまた暢気な声で言われる。
「コーヒー入ってる。おれにもちょーだい」
「……あぁ」
 ザックス、じゃなかった。
 1584ccのモーターサイクル。過剰なパワーを抑えこむための風防パーツがまるで甲冑のようだ。エンジンをかけないと、鎧を着せた中世の馬みたいに見える、と昔思ったことがある。その腹の下にもぐりこんでいたやつが、足で地面を蹴って、這い出してくる。油が頬にひっついていた。使い込んだつなぎ姿。
「砂糖たっぷり、ミルクも」
「子どもか」
「なんだよう、頭使うと砂糖がいるんだってガラフが言ってた」
 薄茶色の髪と、同じく、薄い茶色をした大きな眼。思い出してみるとぜんぜん似ていないな。おきっぱなしのマグカップはどこのみやげ物だかわからない変な柄のものだった。言われたとおりに注いでやる。石油ヒーターの上におかれたヤカンの中で、コーヒーは、まるで煮出したように真っ黒になって湯気をたてていた。
「間に合いそうか?」
「なんとか。明日の朝までには試走できるようにしとくから、うーんと、完成するのは明日の真夜中くらいだと思う。間に合うんじゃないか?」
 ……《決闘》を申し込まれたのは、明後日の夕方だ。
「試走して、慣らして、昼間ねて、そしたら夕方にはいいコンディションに持ち込めるんじゃないかな。たぶんな」
「お前は、いつ寝るつもりなんだ?」
「全部終わったら」
 からっとした口調で言って、ちょっと笑う。両手でマグカップをもってふうふう吹く格好が、なんだかえらく子どもっぽく見えた。
「……すまない」
 とんだ強行軍だ。俺が持ち込んだ無茶なスケジュールのせいで、こいつは、昼夜問わずの突貫作業を強いられている。だがその割にこいつの仕事には手抜きが無く、どこまでも丁寧だ。こいつはまだ職人としては若く、経験も欠けている。だが、こいつのことを《天才》と呼んだシドの目は、間違いなく確かだったんだろう。
「別にいい。おれがなんもやんなかったら、クラウド、どこかテキトーにでも持ち込むつもりだったんだろ」
「それは」
「お前のためじゃないぜ? ”こいつ”をてきとーなヤツに触らせたくないっていうのが結構あるんだ」
 かっこいいよなあ、とバッツは笑った。そして振り返る。俺のモーターサイクルを見る目が、子どもみたいにきらきらしていた。
「すっごいよな、本物の”フェンリル”のワンオフ1584cc! いつ見てもマジすごいって思うもん」
「……」
「こんだけすごいもん触らせてもらえるだけでも、お得、お得、ってね」
 俺はすこしうつむいた。本当なら、俺にふさわしいようなものじゃないというのは承知の上だ。
 モーターサイクルは大きくなれば大きくなるほど、それに必要なウエイトや筋力が必要になる。俺の体格では1584ccは乗りこなせない。軽すぎるのだ。こいつが本気を出したなら、俺では簡単に振り回されてしまう。だからこそこんな調整が必要になる。こいつに、こんな難しく面倒な仕事をもちこむ羽目になる。
 ぎらぎらとまぶしい作業燈から少し離れて見ると、あいつの、大きな目の下に少し蒼い影が差していた。寝不足のせいなんだろう。心配になってくる。「眠らなくていいのか」と声をかけると、「あとで寝る」と気楽な調子が帰ってくる。
「今寝たら、終わんないもん、調整」
「……無理、しなくてもいい」
 あいつは、俺がいった言葉をきいて、目をまんまるく見開く。
 こっちを見る視線がぶしつけだ。「なんだ」と顔をしかめると、「へへっ」と笑って鼻の下をこすった。ますます、なんだかわけがわからない。顔をしかめる俺に、あいつは、少し笑った。なんだかひどく幸せそうに。
「《無理しないで》って今いったろ、クラウド」
「言ったが……」
「《無理しないで》ね、《無理しないで》……うん、いいことを聞いた。疲れがぶっとんだぜ」
 立ち上がる。伸びをする。わけがわからない。困惑し、座ったまま見上げる俺に、あいつは、また笑った。やわらかい表情をふちどって、逆光を受けた髪が、きらめくような金色に見える。
「その台詞、そのまま返す!」
「……それは」
「おれは後で寝るよ。時間さえありゃ、寝るのなんていくらでも、だからさ」
 でも、と言った、あいつは。
「ここから先で、クラウドとあいつに手をかけてやれる時間は、もう24時間切ってる。配分の問題。だってさ、ここでお前らのことほっといて、後で後悔なんてしたくない」

 何を、言えばよかったのか、俺は。

 俺は伸びをしながらモーターサイクルのほうへ戻っていくあいつを、見ていることができない。目をそらした。鈍い銀色の車体を、むき出しになった鋼の臓腑を、いつか、ザックスがあの手で握り締めていた黒いグリップを、いとおしそうに撫でるあいつから。
「こいつ、かっこいいだけじゃなくていい子だもん。クラウドのこと大好きでさ」
「機械に、そんな気持ちがあるわけないだろう」
「なんだそりゃ。バイカーが言う台詞か、それ?」
 あいつは、笑った。どこかやわらかい笑い方。それが耐え難くて俺は目を伏せる。
「ちっちゃくて軽いクラウドを乗っけても、全力を出したがる。そういうやつだから好きなんだしさ、大事にしたいわけ。だからやりたいだけ手をかける。そっから後はお前ら二人の問題」
「だから」
 ふたり、と言わないでほしい。昔よく聞いた言い回しだから。
 使わないでほしかった。こいつは、心が明るすぎる。楽天的で暢気で、未来を、信じすぎる。
 そんな優しい調子でその言葉を使われたら、俺は、自分の記憶を、俺を突き刺す《棘》として保ち続けることが出来なくなる。
「だからさ、クラウド」
 あいつはいった。真剣な調子だった。俺は顔を上げた。こちらをじっと見据えていた。薄茶色の目。
「《無理しないで》くれよ?」
「……無茶を言うな」
「そっか? 無茶でもなんでもないと思うけどな」
 すぐにひたむきな表情はいつもの能天気な顔にかわる。へらっと笑うと、あいつは、「さて、続き続き」とぐるぐると肩を回す。俺はどうしようもなくて目をそらす。外には深く冷たい闇。金属質の沈黙だけがある。
 莫迦だ俺は。どうしてこいつなんかを頼ったんだろう。あの闇を知らないようなやつに。あの闇の中から、いともたやすく、俺の手をとり、光の中に引き出してしまいそうなやつに。
「莫迦だ、お前は」
「お前って言うな」
 あいつが、口を尖らせる。俺は困惑しながら振り返る。肩越しにふりかえったあいつが、期待に満ちた目で、俺を見ていた。
「バッツは、莫迦だ」
 俺はつぶやく。あいつは、バッツは、笑った。
「そ、おれ莫迦なの。クラウドもな?」





原作分ちょっと多めでした。