Step:1
街を見おろす丘の上






 ―――その家は、ながくてゆるい坂の天辺、街を見下ろす丘の上に建っている。

「その住所だったらね、あそこで郵便局を曲がって、ここの坂を上ったところにある大きな家だと思うよ。高いところに風見鶏がついてるから、すぐにわかるだろ」
「はい、ありがとうございます」
「でもねぇ、あそこ…… 廃屋だよ?」
 何しに行くのと若い警察官に逆に尋ねられた。胡乱なものを見るような目。
「肝試しとかだったら、外から写真を取るだけにしとくんだよ。中に入ったら不法侵入だからね」
「は、はい」
 ―――廃屋?
 まだにきびの目立つ若い警官にぺこりと頭を下げて交番を出て、彼、遊城十代は、背中からずりおちかけていたリュックを背負いなおした。インターネットからコピーした地図を片手に、やや、途方にくれたような思いで教えてくれた路のほうを見る。
 坂の多い、古い街並み。
 山あいがそのまま海の傍まで迫っていて、片側にはおおきく海がひろがり、もう片側には緑の山並みが迫る。駅の周りはにぎやかな風情があるが、ちょっと離れれば、とたんに街並みが古風になる。柘植やいちいの植え込み、石垣の家並みが続き、あちこちに果樹園がそのまま残って、夏みかんが白い花を咲かせていた。今まで暮らしていた街からずいぶん遠くに来たなあ、と思う。
「次の家は、廃屋かー」
 十代はぼやいた。いままで、14年間の人生で、それなりにいろんな場所を見てきたつもりだが、いくらなんでも《廃屋》というのは初めてだ。
「ま、いっか。最低屋根さえありゃ、ニンゲン、どこでも生きていけるもんな。な、相棒?」
 独り言ではない口調でそうつぶやいて、よし、と十代は荷物をゆする。そうして、散歩をするようにのんびりとした足取りで、やわらかく照らしてくる日の光の下、歩き出した。



 そして。
「……なるほど」
 目的の家の前にたどりついた十代は、おもわず、呆然と立ち尽くした。
 ―――まごうかたなき廃屋だ。
 大きな家だった。目印だといわれた大きな風見鶏が、三角形の屋根のてっぺんに立っている。だが、その風見鶏は風のいうことにさからって、なぜだか太陽の方向を指していた。そして、その風見鶏が隠れてしまいそうなくらいに大きく茂ったたくさんの木々。
 十代の身長よりも高い鉄の柵はつたにびっしりと覆われて、中がほとんど見えなかった。壊れた門は鎖でくくりつけられている。それでも門の向こうを覗き込んでみると、家が少しだけ見えた。漆喰の壁と色ガラスのはまった窓。とても大きな家だった。庭に池があるみたいだ。温室もあるかもしれない。大きな蝶々が一匹、ひらひらと気ままに飛び回っている。
 思わず腹のそこから嘆息して、十代は、そのままそこへ座り込む。座り込まざるを得まい。
「廃屋だなぁ……」
 そして、この廃屋が、今日から彼の家なのだった。
 遊城十代、14歳。これまでの14年の人生で、並みの子供ではありえないくらい、さまざまな場所で生活をしてきた。親切で温かい家庭もあれば、冷たくて居心地の悪い家もあった。時と場合によっては施設や病院なんかにいたこともあった。しかし、いくらなんでも、廃屋で暮らせというのはひどすぎる。
 でも。
 くすっ、と笑みが洩れる。
 そして、ちょっと斜めに目を上げると、「面白そうじゃん?」とそこに語りかける。
「お化け屋敷に住むのなんてさすがに初めてだぜ。あ、お化けはいないのか。ただの廃屋かな。でも、毎日がキャンプみたいだよな!」
 よしっ、と力を入れて立ち上がった十代は、斜めになった門に両手をかけて、中を覗き込む。草は茂っているが歩けないことはなさそうだ。ぐっ、と腕に力を入れて体を持ち上げ、するりと門の向こうへと入り込んだ。足がやわらかい草の上に下りた。
 そのとき。
「あ? ……おい、相棒!」
 猫でも逃げ出したように、あわてた声が洩れる。視線が動いた。十代はあわてて歩き出そうとして、草に足をひっかけ、つんのめる。
「こら、待て! どうしたんだよ!?」
 腰より伸びた草を押して、急いで、奥へ、奥へ。
 茨や潅木に苦戦しながら走っていくと、とつぜん、目の前に、とろりとした緑色に濁ったプールが現れる。十代はあわてて立ち止まった。なんだこれは。……その水面に白い影がひらりとひらめく。なんだろうと目を上げると、プールのすぐ傍に、真っ白な洗濯物が翻っていた。まぶしいほど白いシーツやタオル。十代は目を丸くする。
 誰か、住んでいる?
 ……そのとき、とろりとした緑の水面が、ゆらりと揺れた。
「!?」
 何か、大きなものが、水の中から現れる。
 ごつごつとした背中。太い尾。それが、くわっ、と口を開いた。剣のような歯がずらりと並んでいる。息が止まった。十代は思わずその場にしりもちをつく。
「わ」
 黄色い目。ぱちくり、と瞬いた。
「わわわ、ワニ!?」
 身の丈2mはありそうな、巨大なワニ。
 ぐわあ、と口を開いたワニは、しかし、十代を襲う気というわけでもないらしかった。そのままプールから這い上がってくると、日当たりのいい場所で足を止める。そのままそこにべったりと座り込んだ。動かなくなる。
 十代は、呆然とした。
 ―――廃屋改め、ワニの居る家。
 目を上げて、周りを見回す。そうすると、そこにある景色が、予想とはまったく違ったものだということが、だんだんわかってきた。
 草は伸びたい放題に伸びているが、よくよく見ると種類ごとに群れになっている気配があった。植え込みを、あえて、好き放題に伸ばさせてるという感じだ。洗濯物は気持ちがよく乾いて清潔で、埃のついたステンドグラスの窓はそれぞれ違ったモチーフのきれいな絵を描いていた。ワニを刺激しないようにそろりと近づき、部屋のひとつを覗いてみる。中にはたくさんの草が干したものがつるされていて、壁には瓶がたくさん並び、ごつごつした水晶の塊とか、革の背表紙の本とか、角の生えたウサギの標本という不思議なものとかがおいてあった。目が丸くなる。これじゃ、まるでおとぎ話の魔女の家だ。心ならずもわくわくした。十代は、次の部屋も覗き込む。
 今度の部屋はすごく無骨だった。きっちりと片付いていて、鍵のかかったロッカーがある。鉄アレイとかがいくつか転がっていたけれど、ほかにはめぼしいものはない。だが、壁のハンガーにかけられている防弾チョッキが気になる。あと、なんなんだろう、あのやたらと専門的な感じのゴーグル。こっちは傭兵の部屋だ。
 さらに次の部屋。そっちは、これまたものすごい部屋だった。本棚とアウトドアグッズと標本が、ところせましと詰め込まれている。そもそもはたぶん一番広い。でも、ニンゲンが生活できるスペースは一番狭い。なぜか大きなダイニングテーブルがあって、そこの上には化石と本とダッチオーブンが積み上げられていた。大きな棚のなかにはアンモナイトと何かの歯と恐竜の骨の模型が並んで、その横から積み上げられた本がはみ出していた。おおきなベットの頭にも本が満載だ。―――ここはきっと、博士の部屋だ。
 この家には、魔女と、傭兵と、博士が住んでいる。
 十代は、口を開けて上を見上げた。風見鶏。鉄の風見鶏だとばかり思っていたものが、よくよく見ると、それはドラゴンだ。三日月にからみついた鉄のドラゴンが、太陽の方向を向いて、キィ、キィ、とかすかに音を立てている。
 思わず、十代は、つぶやいた。
「……すっげえ!」
 顔に、満面の笑みが、広がる。
 ここまでむちゃくちゃだと、逆に、楽しくなってきてしまう。胸がドキドキした。こんな家に住むなんて、いくらなんでも初めてだった。
 ワニはまだプールサイドに座って、こっちを怒っている風でもなくじいっと見ていた。十代はふと思い立ち、背中からリュックを下ろした。そして、なかからお昼のつもりで買ってきていた大きいソーセージを出す。そのままリュックを地面に置くと、にじりにじりとワニへと近づく。
 ワニは、じいっとこっちをみている。
 十代は、ちょっと首をかしげて、まじめに言った。
「食うか?」
 返事はない。もうちょっと近づく。
「ソーセージ、食わねぇ?」
 にじりにじり。
 あと1m。
 ワニの尻尾がちょっと動いた。こっちに興味を示した。くわあっ、と口が開く。十代の腕へと口を開ける……
 その、瞬間。
「誰だッ!?」
 いきなり、背後から、誰かの声が、ぶつかってきた。
「う、うわわわッ!?」
 十代は思わずバランスを崩す。ワニもびっくりしたらしい。そのまま、信じられないくらい機敏なしぐさで水に飛び込む。水しぶきがひとつあがった。
 ―――そして、まもなく、もうひとつ上がった。
 




 丘の上の廃屋、もとい、丘の上のおんぼろ屋敷は、ジム・クロコダイル・クックという名前の青年のものだった。
 彼が遠い親戚から受け継いだもので、土地は広いが、建物はボロだ。歴史があると聞こえはいいが、あちこちしょっちゅう水漏れするし、ブレーカーだってよく落ちる。しかし、温室があり、プールもあり、屋根裏部屋まであるという辺りがジムにとってはお気に入りだった。とはいえ、まだまだジムは若くて独身で、こんな広い家があったところで、特に使うあてもない。
 ―――ならば、小銭を稼ぐのにでも使えばいいではないか。
 そういう理由で、下宿人を募集。丘の上の廃屋あらため、丘の上のおんぼろ屋敷あらため、丘の上のおんぼろ下宿。いかにも適当につけた名前は《ジムハウス》。安直の極み。あまりとはいえあまりの惨状に、ご近所の子供たちのみならず、新任のおまわりさんにまで廃屋と思われているのだから世話はない。
 そこに、14歳の少年が加わったのは、今日になってのことであった。
「なぜ、先に言っておかない!!」
 夕方になって帰ってきたジムを出迎えたのは、すっかり怒ってしまっている下宿人もとい同居人だった。もう一人は少年の額に包帯を巻いていた。プールに落ちたときに、ぶつけて切ってしまったのだ。
「Sorry,… 日付を間違えていたみたいだ。来週だと思っていたんだが……」
「危ないだろうがっ。この家には猛獣がいるんだぞ!? お前も、なんで勝手に入ってきた!」
 同居人その1、もとい、オースチン・オブライエン。たくましく精悍な風情の褐色の青年にどなりつけられて、少年は飛び上がりそうになる。
「まあまあ。怒ったって仕方ない。怪我が軽くてよかったな」
 同居人その2、ヨハン・アンデルセン。すでに成りは立派な青年なのに、やわらかい翠色の髪、碧の瞳がどことなく妖精めいた風情の彼は、包帯を巻き終えて、ぽん、と少年の頭を叩く。
 肩をすくめて座っている少年は、そんな二人に比べると、ずいぶんと小柄で子供っぽい印象に見えた。服が汚れてしまったので、今はジムのシャツを着ている。しかし、あまりにサイズが違いすぎて、ぶかぶかのシャツの中で細い喉首が泳いでいた。栗色の髪、とび色の目。活発そうな風情。
「Well…」
 この家の家主こと、ジムは、思わず顎に手を当ててしまう。
「えーと、じゃあ、お前さんが遊城十代か?」
「うん。あ、それ、紹介状だったんだけど……」
 ……テーブルの上に広げられている封筒は、中までびしょぬれで、開けることは不可能そうだった。
 それをみて、うーん、と苦笑した。あきらめたらしい。口で、説明を始める。
「えっと、おれ、遊城十代です。今度からここで面倒を見てもらうことになりました。よろしくおねがいします」
 ぺこり。
 頭を下げる。礼儀正しいが、どことなく、なれない感じの口調だ。
 オブライエンとヨハンは、顔を見合わせた。
「お前…… 十代か。親御さんはどうしたんだ?」
「えーと、おれ、とーさんとか、かーさんとか、居なくって……」
「学校は、こっちに転校してきたのか」
「あ、今、学校、行ってないんだ」
 オブライエンとヨハンは、ふたたび顔を見合わせる。
 何かまずいことを言ったか、という風に、十代は首をすくめてそんな二人を見る。けれど、そんな気まずい空気を叩き壊したのは、当の家主の大笑いだった。
「ぜんぜん事情は聞いてなかったけど……ジューダイか。お前、たしか十代って言ったよな?」
「う、うん」
「たいしたやつだなぁ! 一見目から、ぜんぜんカレンを怖がらなかったヤツなんて、初めてだぜ!」
 カレン。プールに住んでいるワニの名前だ。
 ジムはしばらく可笑しそうに笑い、それから手を前に差し出した。十代は目をまたたき、その手を見、ジムを見上げた。
「ようこそ、俺たちの家へ! 歓迎するぜ、十代!」
「う、うん!!」
 十代もまた、ぱあっと明るい表情になる。ジムのそれよりずいぶん小さな手が、ジムの手を、ぎゅっと握り返した。





 丘の上のおんぼろ下宿の階段を、十代は、ぎしぎしと言わせながら小走りに上った。二階建てのお屋敷だ。部屋がたくさんある。
 一階には、さっき覗いた三つの部屋があった。それぞれ、元応接間、元食堂で、もともと普通の部屋だったところは一室しかないらしい。二階の部屋は今はほとんど使っていないというので、好きな部屋を選べとジムに言われたのだ。
 二階にも、ドアがたくさんならんでいる。端っこから、ひとつ、ふたつ、みっつ、と数えていると、ジムが追いついてきた。目を丸くしている十代の傍らで、「どうだ、気に入ったか」と手すりに肘をつく。
「うん。すっげえ!」
「たくさんステンドグラスがあるだろう。ここの家をつくったオレのgrandfatherは貿易商でな、ガラスを売ってたんだ。自分でもいろいろな種類のガラスを集めるのが趣味だったらしい。ここの街の図書館には、じいさんが寄贈したステンドグラスが今もある」
「へええええ」
 そういわれて見回してみると、たしかに、どの部屋のドアの上にも、半球状に色ガラスがはめ込まれていて、それぞれに小さな花だの果物だののモチーフを書いていた。
「ちなみにこの上は屋根裏だ」
「屋根裏!?」
 十代が目を丸くする。「ほら、あそこから上る」とジムが廊下の奥へ行き、天井の板を外してくれた。はしごを下ろしてくれる。十代はそわそわしながらジムを見上げる。「登ってもいいぜ」とジムは笑った。
 十代は、大急ぎで、はしごを上った。
 ―――そこは、風見鶏のドラゴンの、真下の部屋だった。
 真っ暗で何も見えない。そう思っていると、ジムが窓の鎧戸を開けてくれる。とたん、光があふれた。まぶしいオレンジ色の光だった。
「うわ……」
 正面から吹き付ける風。額をかるく叩いた。わずかに潮の香りがした。まぶしさに目がくらみそうになる。腕でかばって、思わず、目を見張る――― 
 窓の向こうで、街並みへ、さらにその向こうの海へと、太陽が沈んでいこうとしている。
 くれていく太陽は溶けかけの赤い飴だ。オレンジ色の光はとろりと甘く、やわらかい。振り返ると橙色の光が屋根裏部屋を照らしていた。棚や椅子、ベットなんかが放り出されていて、床は意外ににきれいだった。はだしの足に無垢の板が心地よい。
「気に入ったのか?」
 声もない、という様子の十代を見て、ジムが可笑しそうに言う。
「実は、ここはこの家でいちばん眺めがいいんだ」
「……」
「それに、あのドラゴンを見れば、いつだって夜明けの時間がわかる」
「!」
 十代は思わず窓に駆け寄り、身を乗り出した。真下はゆるい斜めの屋根になっていて、陶製のかわらを葺いた屋根の上には、布団を敷いて寝ることだってできそうだった。屋根は窓のある場所から急にきりたって、尖塔みたいになった屋根のてっぺんに、三日月にまきついたドラゴンがいる。
 目を見張って声もない十代に、横からひょいと顔を出したジムが、言う。
「あいつはちょっとstrangeなんだ。風見鶏の癖に、風を追いかけないで、太陽ばかり追いかけている」
「そうなんだ……」
「証拠に、今はあっちを向いてるだろ?」
 ジムが指差す方向は海。金と橙が太陽へ続く路をつくる海。その方向に、たしかにドラゴンの鼻が向いている。
 すっげえ、と十代がまたつぶやいた。
 目がきらきらしていた。ジムを見上げる。ジムは笑う。ぽん、と頭に手を置いた。
「じゃあ、ここが今日から十代の部屋、ってことにしよう」
「……いいのか!?」
「Of couse!」
 ただし、とジムはいたずらっぽく付け加えた。
「夜中にションベンに行くとき、はしごから転げ落ちるなよ?」
 うんうん、と十代は何度だって頷いた。



 そして、二人が出て行った後の玄関ホール。
 一回のほとんどの部屋が居住スペースにされてしまっているこの家では、全員が集まってテレビを見たりモノを食べたりできる場所がない。その結果、本来だったら《玄関》にあたる場所にあるひろいホールが、暫定的についたてで玄関からは直接に見えないようにされ、共有スペースとして利用されていた。おおきなソファがおかれ、おんぼろの小さなテレビがあり、食事を食べるためのテーブルが斜めに詰め込まれている。色ガラスをつかったうつくしいシャンデリアがどうにも似合わない。どう贔屓目に見ても雑然としてあわただしい印象。だが、これがもう、何年もこのままになっているのだ。
「あー、ちくしょー魚が足りないー。今日はタラを焼こうと思ってたのにさあ、三切れしかないぜー」
 台所でヨハンがぼやく声が、ホールにまで聞こえてくる。オブライエンは憮然とした顔で、濡れてくしゃくしゃになってしまった書類を広げ、その文面を読み直そうとしていた。文面を見るうちに、ただでさえ穏やかならない表情がどんどんキツくなる。「えーと、タラのシチューには、フェンネル、オレガノ、チャイブス……」とぶつぶつ言いながら台所を出てきたヨハンは、ソファに座っているジムの手元をひょいと覗き込んだ。
「なんだよ、難しい顔して」
「……大丈夫なのか、あの子供は?」
「子供って、十代のこと?」
 明るそうな子じゃないか、とヨハンはごく簡単な口調で言った。
「それに、この家のことだってぜんぜん怖がらないし。カレンが気に入ったんだったら、入居条件は問題なしだろ? オレはいいと思うな、あいつ」
「……」
 オブライエンは、黙って紙の一箇所を差した。ヨハンが目を瞬く。
「今まで、施設や病院、親戚の家を回ってきた数が、10じゃとても足りない……」
「そういうやつだっているよ」
 ヨハンは肩をすくめる。フリルのついたエプロン。だが、そんな能天気な姿を見ても、オブライエンの表情は晴れない。
「あいつは荷物を一つしか持っていなかった。それが濡れてしまえば着替えもない。転居なれしすぎているんだ。それをどう思う」
「んー」
「それに、学校へ行っていない理由だって……」
「んんー」
 そこに書かれていることをみて、ヨハンは上を見て、下を見て、腕を組んだ。
「これは、難物なんじゃじゃないか…… 本当に保護者なしで大丈夫なのか」
 つぶやくオブライエンに、しばらく考え込む風を見せる。やがて。
「でも、悪いやつじゃないぜ。それは絶対だ」
「どうしてだ?」
「いい妖精がついてた。しかも、あれはたぶん見えてるんだとおもうなあ」
 いい妖精に気に入られてる子供に、悪い子は居ないよ、とヨハンは笑う。
「だから、平気、平気。難しいこと考えないで、歓迎してやろうぜ!」
 そのままヨハンはホールを横切り、「レモンバーム、タイム…… えーっと」などとつぶやきながら庭へ出て行く。ここの庭は、ヨハンがやってきてから数年で、ハーブだらけになってしまっていた。オイルに漬け込んだり、収穫して乾燥させたりもするが、料理をするときには新鮮なものをいちいち摘んでつかうのが彼流だ。
「オブライエン、サラダにチコリ入れる? 入れない? ボリジの花は?」
「好きにしてくれ」
 つれないなあ、などといいながら、ヨハンの声は楽しそうだ。彼は客が大好きなのだ。まして、それが《妖精が見える》お客だったら、なおさらだろう。
 オブライエンはもう一度手紙に視線を落とし、それから頭上を見上げた。漆喰の屋根と、あめ色のガラスのシャンデリア。
「本当に大丈夫なのか……?」
 やや、不安げにつぶやく。それに答えるように、庭からは、ヨハンが摘むハーブの甘い匂いが漂ってくる。


 ―――なにはともあれ、こうして、遊城十代は、ジムハウスの一員となったのだ。





IOのナキリ様との共同企画、第一話です。



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