Step:2
丘の上にはワニの家
十代が《ジムハウス》に移住してから、一週間くらいがすぎた。
まだ短い時間だが、十代は、だいたいの範囲で住人たちの生活を把握することができてきた。朝、まずはヨハンが起きてくる。朝というのは正確ではないかもしれない。およそ5時半から6時の範囲には階下でコトコトと物音がしはじめる。
起きたヨハンは、まず、一番初めに陶器のボウルいっぱいの水と、古びたガラスのコップいっぱいの牛乳を用意し、キッチンの片隅へ置く。それから庭の片隅にも水とご飯を持っていく。何のためかはまだ謎だ。追求すべきことがまずひとつ。それから、朝ごはんの準備だ。
前日から何かを準備していた場合は、鍋に用意してあったスープに具を加え、火を入れなおす。それに平行してハーブを摘み、庭に水を撒き、場合によっては新鮮な野菜や果物を摘む。食事の足しになるようなものはなかったが、庭にはかなりの種類のハーブに加え、木苺や桑の木などのベリー類が育てられていて、収穫することができる場合は、それらも朝ごはんのテーブルに花を添える。甘味のないヨーグルトに手作りのジャムを混ぜたものは美味しい。パンを焼く。どうやらこれはヨハンの趣味らしく、全粒粉にドライフルーツやナッツの混じった、ずっしりとした食感のパンである場合が多い。
チーズやソーセージ、ハムが焼かれ、卵が添えられる。あらかじめ言っておけば玉子焼きから目玉焼き、ゆで卵といった具合に種類を作り分けてくれるが、何も言わないでおくとその日のヨハンの気分で作られた卵料理が出てくる。この時点でだいたい7時くらい。そこら辺になってようやく、オブライエンが起きだしてくる。
十代が見ている限り、この家でいちばんよく働いているのは彼だ。起きてきたときにはすでにきっちりと着替えも身支度も済ませていて、ヨハンの作ったものを食べ、新聞を読み、その後、車に乗って家を出て行く。オブライエンが出ていくころにはそろそろ8時が近くなり、ヨハンは使い終わった食器や鍋をのんびりと洗っている。この家の住人の大半はテレビを見ない主義らしく、家の中はたいてい静かだ。
―――そのころになって、ばたばたと、ジムが起きてくる。
ばたばたしているのは寝坊をしているときで、慣れきっているらしいヨハンがバターやジャムを塗って出しておいたパンを引っつかみ、熱いコーヒーを目を白黒させながら飲んで、そのまま家を飛び出していく。のろのろしているのは時間がまだ許されるときは、食卓で居眠りをしながらパンくずをこぼしている。ヨハンがやれやれとあきらめながらコーヒーを入れてやると、やっとこさ目を覚ます。そしてそのままよれよれになったジャケットを着て家を出て行く。全員が出て行くのを見届けた9時あたりになり、ヨハンは十代のための弁当を置いて、さびたママチャリで家を出て行く。だが、週に三日は休みらしく、家を片付けたり、庭に生えているハーブに手を入れていたり、掃除をしていたりしている。あるときなんかは、朝早くから甘いジンジャーの香りが家中に漂っているので驚いた。ヨハンが朝からジンジャークッキーを焼いていたのだ。
そして、夜は。
8時くらいになると、ヨハンが帰ってくる。おそらく朝のうちに準備をしているらしく、夜の食事の準備にはさして時間はかからない。朝からタイマーで煮込んでおいたシチューだとか、下ごしらえをして焼くだけの魚だとか、冷蔵庫で冷やしておいたマリネとか。9時より前に帰ってくる場合は他の誰かを待つけれど、それを1分でもすぎてしまえば、晩御飯の時間だ。食べるとすぐに眠くなるらしく、早々に風呂に入って、10時台には、もう、ヨハンはベットに入ってしまう。逆に宵っ張りのジム、たいていは仕事で帰りが遅いオブライエンは、そこから先の時間がいちばんのんびりとできる時間らしい。風呂上りにビールを開けて本を積み上げているジムの傍らで、ノートパソコンを持ったオブライエンが仕事の続きに忙しい。それでもオブライエンは日付が変わるころには部屋に引っ込むが、ジムはまだ大真面目な顔をして、書付けをしながら本を読んでいたり、何かを書いたりしている。十代はまだそこから先を見たことは無いが、翌朝、そのままソファで寝ているところを見たこともあるから、やっぱり、あのまま熱中していて、寝てしまうこともあるってことなんだろう。
―――なんか、みんな好き勝手やってんなぁ。
でも、嫌いじゃない。むしろ好きな部類だといってもよかった。それぞれ気ままで、自分の人生を謳歌している自由な大人たち。
それが、十代の、正直な感想だった。
「十代さぁ、お前、今日はどこ行くんだ?」
「んー?」
一週間目の朝、オブライエンが出て行ったのを見送った後、ヨハンが紅茶を淹れてくれる。濃い目のアールグレイに牛乳を足しながら、ヨハンがなにげない風に問いかけてくる。
もそもそと食べるパンには、今日は、くるみのつぶがたくさん混じっていた。何かのハーブが混じったバターを塗りつけ、ハムをはさむと、美味しい。
「ヨハンは?」
「今日は仕事。今日はバイトの人が旅行だからさ、手伝いでシフトが入ってんの」
「ヨハンって、結局、何の仕事をやってんだ?」
「薬局だよ。まぁ、フツーの薬局じゃないかなあー。漢方とかやってる専門薬局なんだ」
ヨハンが日本に来たのは、もう、4・5年も前だ、と十代は聞いていた。
向こうで日本では高校にあたる課程を卒業した後、そのまま、いろいろと勉強をするために伝をたどって日本まで来た。そうして今はこの《ジムハウス》を拠点にしているが、季節によっては郷里に戻ったり、あちこちの国へと足を伸ばしたり、目的のためにいろいろと自由に学ぶ場所を探しているらしい。元から貧乏暮らしには慣れているとあっさりというヨハンだが、その生活力はたいしたものだと十代は思う。これだけ手先が器用なら、どこのレストランだって、花屋だって、喜んでヨハンを雇ってくれるだろう。
「それは仕事じゃねぇのか?」
十代がもそもそとパンを食べている横で、ヨハンは干したハーブをブレンドしたものを、かばんに詰め込んでいる。昨日の夜から準備していたものだった。ヨハンは少し笑い、「小遣い稼ぎかな」という。
「なじみのお客さんが欲しがってたもん。まあ、仕事にしてるわけじゃないけど、欲しがる人にはいろいろ作ってるんだ」
「それってお茶?」
「いや、これは枕に入れるんだ。不眠症とかに効くからな」
「ふえー」
こっちは気分が落ち着くので、こっちは眠気をさそうやつ、とヨハンは丁寧に説明をしてくれる。
「で、これは悪夢を追い払う効果がある」
「え、ハーブって、そういう効果まであるのか!?」
「っていうより、これは《魔法》 かな」
オレは魔女だからね、とヨハンはにっこりと笑った。十代は複雑極まりない表情になる。口元からぽろりとパンくずが落ちる。
「まじょ……」
「男でも魔女。日本語って不便だよなー」
郷里だったらウィッチの一言で通じるのになあ、などと言いながら、ヨハンは紅茶を足してくれる。十代はありがたくいただくことにした。
「で、話が戻るけどさ、今日はどうするんだよ」
「んー、バイト探そうかなって思ってる」
「バイト?」
「だいぶ落ち着いてきたし。生活費、稼がないと」
ヨハンはなんともいえず、複雑な顔をした。頬を膨らませて、もぐもぐとパンを食べている十代を見る。
「バイトって、お前、14歳だって言ったよな? たいていのバイトは高校生からだろう?」
「平気だよ。日払いのやつだったらさ、あんまり歳とか気にされないし。それにバイトって言っても、普通にやとってもらうやつ以外にもいろいろあるんだぜえー」
信頼が肝心だから、最初はちょっとむっかしいけどな、と十代は言う。
「車を一台洗って500円とか、空き缶拾いやったりとか。あと、秋になったら銀杏な。あれ、意外といい小遣い稼ぎになるんだぜ!」
「……」
笑顔で言う十代に、けれど、ヨハンはなんとも言えず複雑な顔だ。十代は紅茶にカップに角砂糖をまとめて放り込み、それから牛乳をたっぷりと足した。大振りなマグカップでごくごくと飲む。嬉しそうに笑った。
「でも、ヨハンの作る飯って美味いよなー。おれ、朝昼晩、こんだけ美味いもの食ってるの、はじめてかも」
「まあな、自信はあるけど」
「このバター美味いなぁー。このネギみたいのって、庭に生えてるヤツ?」
「それはチャイブス。あとちょっぴりニンニクも入ってる」
「へええ」
細くて小柄な割りに、十代は食欲が旺盛だった。パンはみんな厚切りにし、バターをたっぷりと塗って食べてしまうし、ハムだって玉子焼きだって、十二分に大人一人前は平気で食べる。おかげでヨハンはここ数年にまとめて買っていた食材の量を最初から見直さなければならなくなった。作ったご飯を美味しく食べてくれる人はみんなヨハンにとっては宝物だが、けれどなぁ、と思わずにはいられない。
―――十代は、いったい、どういう経緯でここに来たんだろう? 今までは一体、何をして暮らしてきたんだろう。
ヨハンは、バターのついた指をなめている十代をみながら、ためらいがちに口を開きかける。けれど。
「Good morning……」
台詞とはうらはらに、”Good”とはとうていいえない風な声が、聞こえてきた。
「あ、ジム! おはよっ」
十代がぱたぱたと手をふる。奥のドアを開けて出てきたのは、いつものジーパンに、よれよれになったコットンシャツを着たジムだった。
そのままよろよろと歩いてくると、自分の椅子へと座り込む。べったりと前に倒れてテーブルに額をくっつけた。十代はちょっと心配そうな顔をするが、ヨハンは驚かない。いつものことだ。
「おはよう、ジム。昨日は何時だ?」
「とりあえず、お前が起きてきたのには気づいたぜ……」
「……コーヒーでいいよな」
ため息をついてヨハンは席を立つ。オブライエンが起きたときに淹れたコーヒーが、ちょうど一杯分と半分くらい、まだポットに残っていた。
テーブルにつっぷしたっきり起き上がる気配の無いジムは、たぶん、昨日は着替えもしないで夜更かしして、そのまま寝てしまったのだろう。頬にかっきりと直角の赤い線が残っていた。本を枕にねた証拠に違いなかった。
心配そうに見ている十代に気づいてか、ようやくよろよろと起き上がる。そして、はれぼったい目で、「よう」と笑う。
「早起きだな、十代」
「あ、ああ…… ジムも、早起きだな。そんなに遅くまで起きてたんだったら、まだ寝てればいいのに……」
「いや、起きないと、ヨハンがメシを片付けちまうんだ」
ジムがうらめしげに言うと、台所からマグカップにコーヒーを入れて戻ってきたヨハンが、「早寝、早起き、朝飯」ときっぱりとした口調で言う。
「それが人間の正しい生活ってやつだ」
「う、うーん……」
「反論は聞くぜ? ただし、メシは抜くけど」
それを《反論を聞く》とは言わないような気がした。十代は思わず苦笑する。のろのろ起き上がってきたジムがブラックのコーヒーをすすっている。インスタントではなく、わざわざ朝からフィルターで入れているあたり、ヨハンの凝り性がよく分かった。
「今日は休みか?」
「ああ。教授が学会に招待されて、関西まで行っちまったからな。オレは留守番だ」
「ふーん……」
ジムは、ここから電車で10分ほど行ったところにある大学の研究室で、助手をしている。熱いコーヒーを飲んでようやく目が覚めてきたらしい。包帯で覆われていないほうの片目を手でこすりながら、ジムは、奥歯が見えるくらいおおきなあくびをする。パンを切ってやりながら、ヨハンが、「そうだ」と思いついたように言った。
「What?」
「おいジム、十代になんかバイトを見つけてやれよ」
「へ?」
ジムが目を瞬く。十代を見た。
「こいつ、なんかバイトを探すって言ってたからさ。でも、中学生が真昼間からバイトしたいって言ったって、見つかりゃしないだろ」
「何かほしいものがあるのか、十代?」
ジムとヨハンの二人に見られて、十代は、「うーん」と困ったように笑う。ヨハンが口を尖らせる。
「まあ、中学生だからなー。ほしいものなんていくらだってあるだろ。ゲームとか雑誌とか」
「そうじゃなくて、おれ…… 靴がほしいんだけど」
「shoes?」
うん、と十代は頷いた。
「今履いてるスニーカー、かなりキツくなってきちゃってさ。昨日、近くの古着屋見てたら、よさそうなスニーカーがあったから。300円」
十代はマグカップをひっくり返す。一番甘い最期の一滴を舌で受け止めた。
「ためしに履いたらサイズもよかったし、中古だけどしっかりした感じだったからさ。あれなら一年くらい持ちそうだったからさ、売れちまわないうちに欲しいんだ。だから、はやく小銭儲けたいなーって思って。まあ、もうすぐ夏場だから、当分はビーサンでなんとかなると思うけど」
だからバイト、と十代はあっさりと言う。皿をまとめて席を立った。
「ありがと、ヨハン! 今日も美味かったぜー!」
笑顔で言うと、そのまま皿をがちゃがちゃ言わせながら、小走りに台所へと走っていく。ヨハンとジムは、思わず、顔を見合わせた。
「ジム」
ヨハンは少しばかり困惑顔をする。十代の後姿が消えていったほうを見ているジムに、問いかけた。
「……十代って、何者なんだ?」
―――あの年頃の少年が、足に合う靴ひとつ、自力で稼がなくては手に入れられない。
まだ育ち盛りなのだから、靴も、服も、どんどんと買い換えなければいけない年頃だろう。身長だって伸びるし、靴も大きくなるはずだ。次々と買い換えて使いつぶして当たり前、それどころか、少し身なりに気を使うタイプだったなら、高いブランド物でもねだって親を困らせる年頃だ。ジムは唸った。
「お前、家主だろ。誰が十代の家賃払ってるんだ?」
「いや、十代は下宿人じゃない。オレの居候だ」
「なんだって?」
ヨハンは盛大に顔をしかめた。
「十代は、オレの研究室の教授の奥さんの、従兄弟が結婚した先のお姑さんの、妹さんの孫らしい」
「……なんなんだ、それ」
「よくわからんが身寄りが無いから、次の居場所が決まるまで、面倒を見てやってくれといわれたんだ」
そこまで離れた縁は他人というんじゃないだろうか…… とヨハンは思う。思わず黙り込むヨハンに、ジムは、「仕方ないじゃないか」と肩をすくめて見せる。
「うちには部屋が余ってる。美味い飯を作ってくれるやつもいる。きちんと金の面倒を見てくれるやつもいる」
「おい、ふざけてる場合じゃないだろ」
一週間もそれを黙っているなんて、ひどすぎる。思わず尖った声を出すヨハンに、ジムの返事は、ふざけた調子とは逆に、真剣なものだった。
「変に事情がわかりすぎると、反対されることもある。だからあえて聞かないほうがいいんじゃないかってprofessorに言われたのさ。オレはそっちに賛成だった。お前はどうなんだ?」
「……それは……」
十代は、とてもいい子だ。たった一週間の付き合いだが、ヨハンはもう、十代のことを弟のように思い始めていた。
活発で好奇心が強く、しなやかな心を持っている。どちらかというと一般人とは言いがたい《ジムハウス》の住人たちに対してもまったく拒否感を持たずに、逆に、たっぷりの好奇心と尊敬を持って接してくれた。それは、日本では受け入れられがたい《魔女》という仕事を自らに任じているヨハンにとっては、とてもありがたいことでもあった。
そんな十代が、何かの事情があるからといって、もしもこの《ジムハウス》への入居を断られていたとしたら。……そんなことになるくらいだったら、何も聞かずに入居を認めたジムの判断のほうが、確かに正しかったように思える。
「まあ、バイトか。そっちのほうが先決だな」
ジムはコーヒーをすすった。もう片手でヨハンの手元から厚く切ったパンを取る。
「本人がああいってるんだ。ただ小遣いをやるって言ったって聞かないだろうな。だったら、きちんとしたバイトを世話するまで。オレに任せといてくれ」
いいだろう? とジムはウインクをする。片方しかない目をつぶってしまうのだから、ウインクには見えにくい。
「そろそろ行かないと遅刻するぜ、ヨハン」
「うん……」
ためらいながら荷物を取り、キャンバス地のバックを斜めにかける。玄関で靴を履いていると、十代が戻ってきた。「もう行くのか?」とついたての後ろからひょいと顔を出す。
「今日は帰りに漁協で晩飯の材料買ってくるから。何がいい?」
「エビフライ!」
「って、お前、そればっかじゃんか。それに、エビの取れる季節じゃないんだぞ?」
「だったら、なんでもいい。エビだったら。カニでもいい!」
ヨハンが苦笑すると、十代は、けらけらと笑った。手を振る。
「じゃあ、ヨハン、ルビー、行ってらっしゃい。元気で帰ってこいよー」
るびっ、と自分の耳元だけで鳴き声が聞こえた。ヨハンは、内心の複雑な気持ちを押し隠して、「じゃ、言ってきます」と笑顔で手を振り替えした。
そして、ヨハンが出て行って。
十代がふりかえると、ジムが再び、大きな大きなあくびをする。そうして、パンを口にくわえたまま、ガタンと音を立てて椅子からたちあがる。
「さあて…… Hey,十代。アルバイトを探しているんだって?」
「ん?」
パンにたっぷりとバターを塗りつけ、そこらにあるハムだのチーズだのをどんどんと挟み込んでいく。簡単なサンドイッチ。大きすぎて食べられるのか怪しくなったあたりで、ジムはようやくもう一枚のパンを乗せた。
「ちょうどいい。頼みたいpart-time jobがあるんだ」
「んん?」
十代は首をかしげる。ジムは大口を開けて、大きすぎるサンドイッチを盛大にかじりとった。もぐもぐと咀嚼しながらの声は聞き取りにくい。
「カレンのな、世話なんだが……」
ごっくん、とパンを飲みこむ。
「いままではヨハンやオレでやってたんだが、ちょうどいい。十代、お前、この家にいる時間が長いんだったら、頼まれてやってくれないか?」
「いいけど……」
何の話なんだ? と十代は首をかしげる。ジムはにやりと笑ってみせた。
「すぐに着替えてシャワーを浴びたら、車を出すからな。準備してろよ、十代!」
ジムの愛車は、ボディが錆だらけの傷だらけになった4WDだった。ボコボコになったボディに吹き付けられたスプレーペイントがなんとも派手だ。車体全体にでっかく恐竜の絵が書かれているのだから、十代は目を丸くして驚いた。
こいつは近くの中学でグラフィティをやってるヤツにやってもらったのさ、とジムは言う。
「まだ若いが、むちゃくちゃCoolな仕事をするやつでな! それに、とにかく恐竜だってのがいい。とっつかまえて依頼するまでが大変だったが、おかげですばらしい愛車になった、ってわけさ」
「グラフィティって、壁にスプレーでやる、あれ?」
「ああ。この近くに名所があるんだ。海岸にでっかい堤防があって、そこの壁が有名なんだ。わざわざ遠くからキャンバス探しにくるヤツもいる。役所は塗りなおしにやっきになってるみたいだが、まあ、いたちごっこだなあ」
見たけりゃみせてやるよ、とジムは言う。十代は目を輝かせてうんうんと頷いた。
そうして二人は、出発した。
街は海を見下ろす斜面にあって、都心まで一本で続く線があるから、田舎の割に住宅地として人気があるらしい。ほんの10分ばかり行ったところには、国立大学の施設が集まる学術都市もある。だが、もともとは小さな港が荷積み荷降ろしをしていた港のある街だ。もともとはここで降ろされた塩や鉄の類が街道を上って内陸へ行き、山からは川沿いに木材や味噌、酒などが下ろされていた。港が閉じられ、街が寂れた時期もあるけれど、今は一時期に比べてずいぶんな活気を取り戻している。斜面には夏みかんや梨の木の果樹園が並び、海の傍には小さな漁港がある。ここで水揚げされる魚の漁獲高はほんのささやかなものだったが、ちょっとした高級魚のたぐい、季節モノの海産物のたぐいも揚げられるから、あまり遠くない温泉観光地などでの旅館相手に海産物を卸している…… という。
スピードオーバー気味に斜面を下っていった車が、海沿いの道に乗る。とたんに十代は、「うわあ!」と歓声を上げた。
視界に広がるのは、海だった。
おっこちてきた星みたいなテトラポットが並ぶ堤防に、波が打ち寄せ、白い飛沫が強い潮のにおいをさせていた。海は青い鋼のようで、地球の形にしなった水平線の向こうで、空の蒼と交わっている。砂の浜辺もあれば、岩がむき出しの場所もあった。観光地の海ではないからだろう、人気はほとんどなかったが、ときどき、サーファーらしいウエットスーツの人々が、波打ち際でボードと格闘している。
「あれは、半分くらいここらの漁師」とジムは言う。
「え、あれ、サーファーじゃないのか!?」
「surferでfisherman、ってところか。なんでもここらの海は波があらくていいらしくてな、住み着いて波に乗りたいんだが、仕事が無い、っていう連中をOld fishermansがスカウトしたらしい。朝っぱらに漁に出て、帰ってきたら一日波乗りって具合さ」
「うわー、なんかいいなぁー、それ」
「Old fishermansはみんな跡継ぎがいなくて悩んでいたらしいからな。海が好きなんだったら両立していいんじゃないか? ま、夏には観光客も来るっちゃくるが、地元の連中にはとうていかなわないな」
graffitiを持ち込んだのもそいつらさ、ジムは言う。
「田舎の街にしちゃあ、ちょっと変わってるだろ?」
「うん、すっげえ。こんなとこ、はじめてみた…!」
「飯も美味い、人はのんきで、治安もいい。いい街だぜ」
ちょっとばっかり田舎だけどなあ、とジムは笑う。
「これでデカい本屋があれば言うことないんだが、まあ、そこらへんは仕方が無いな」
そのまま車は国道に乗り、しばらく行ってから山の中へと入り込む。さんざんガタガタ走った末に、たどり着いたのはなぜか養鶏場だった。車が止められたころ、周りを見ると、やっぱり田舎の光景が広がっている。そこではしばらく好きにしていろと十代は言われた。ちょっと困って車を降りると、山猫みたいなふとってずうずうしい猫が十代をにらんでいる。ちょっとでも触りたい十代と、でんと構えてかまわない猫とでやりとりをしていると、ジムが帰ってきた。4WDの後ろに発泡スチロールの箱を山ほど積み込む。
「よし、次は港だ。そこでlunchにしようぜ」
猫に向かって(一方的に)再戦を約束し、再び車に乗る。同じ道を戻って港へ。今度は、さっきは曲がらなかった道をまがって、海のほうへと行く。灯台がひとつ。打ちっぱなしのコンクリートが波に荒れ、波をかぶるあたりがびっしりとフジツボや貝に覆われたあたりで車を止める。そしてジムが、船のそばで網を修理している老人へ、「Hey!」と声をかけると、気づいた老人の一人が「おお!」と声を上げた。
「ひさしぶりだなあ、ワニの先生じゃないか」
「ひさしぶり! 朝に電話したと思うんだが……」
「ちょうどいい。いい具合の雑魚を取っといたよ」
「That's wonderful!」
どうやら二人は顔なじみらしく、ジムが車を降りると、老人は嬉しそうに肩の辺りを叩いたりする。十代もあわてて車を降りた。老人は、十代を見て目を瞬く。ジムは十代の頭をぽんぽんと叩く。
「十代って言うんだ。新しい下宿人さ」
「ほう?」
「は、はじめまして」
十代がぴょこんと頭を下げると、老人は、「こんにちわ」と受け答えをした。
「へえ、親戚の子かい」
「まあ、そんなものかな」
「あんた、いくつ?」
「14です」
「14ね、中学生か。今日は休みだったかなあ」
ジムがちらりと十代を見ると、十代は、ちょっと困ったような風で、にこにこと笑っているばかり。ジムは少しだけ考えた。そして、あっさりと言う。
「十代は、今はちょっと事情があって、学校には行ってないんだ」
「へえ……?」
「いいのさ。頭もいいし、礼儀正しい。十代は並みの子どもなんかよりよっぽどしっかりしてるのさ。だから、学校に行く必要が無いってわけだ」
十代は、ちょっと驚いたようにジムを見上げる。ジムはにやりと笑った。
「そうかい、最近の子はいろいろあるんだねえ」
老人は首をひねりながら、ちかくの船のほうへと歩いていく。十代はちょっと困惑顔をして、老人の後姿と、ジムの顔とを見比べていた。ジムは軽く気取った風で、帽子のつばをひょいと持ち上げる。
「あの人はなじみのfishermanなんだ。ここらで船を動かしてる」
「ジムの知り合いなのか?」
「ああ。いつも魚を分けてもらってるんだ」
「魚って、マグロとか、サンマとか」
「ここらじゃマグロは取れないなあ」
ジムは可笑しそうに笑い、ぽんぽんと十代の頭を叩く。高さ的に叩きやすいのだろうが、なんとも納得がいかない感じ。軽く恨めしげに見上げる十代に、ジムは、今度は声を上げて笑った。
「網にかかっても売れないような魚を、格安でゆずってくれる。カレンのためにな」
「へっ?」
「頼みたいのってのはそれなんだ…… Whoops!」
「!?」
「忘れてた、オレたちのLunchもいるんだった!」
ジムがにわかにあわてだす。歩いていく老人の後姿に向かって手を振り、大声を上げる。そして、びっくり顔をしている十代を見ると、ぱちんと目をつぶってみせる。
「シャコは食ったことあるか?」
「えええ、車庫?」
美味いぞ、とジムが嬉しそうに言う。なにがなんだかわからないことだらけ。十代は、ひたすら困惑するばかりだった。
そして。
《ジムハウス》に戻ると、ジムは、大鍋に浅く張った水を沸かした。そこに塩を大量にぶち込む。そして、そこに放り込んだのが、港で買ってきたシャコだった。
十代は海の傍で暮らしていたことがないから、シャコなんて見たことがなかった。まだ生きてガサガサしているのを鍋に放り込み、茹で上がって赤っぽくなったのをそのままザルにあげる。そうして二人でカレンのいるプールの脇に座り込む。ジムは昼間っから缶ビールをひっぱりだしていた。そして、そのまま殻をむいて食べだすのを、十代はなんとも不思議そうな顔をして見る。
「これ、エビじゃないんだよなあ?」
「オレも初めはそう思ったね」
ジムはごく陽気に答えた。
「まあ、エビほど上等じゃない。これだけ買っても安いもんさ。だが、新鮮なうちにがさっと茹でてバリバリ食うとこれが美味い! 癖になるぜ」
手をべたべたにしながら豪快に食っているジムを見て、十代も、シャコの山に手を伸ばす。いかにもなれない風にぱりぱり皮をむいて一口かじると、目が丸くなった。
「……うっめぇ!!」
「だろう?」
ジムはにこにこと笑っている。十代はものすごい勢いで一匹目をたいらげると、すぐにシャコの山に手を突っ込んだ。そのままばりばりシャコを食べている十代を、ジムはいかにも嬉しそうに見ている。
手も、口の周りも、あっという間にべたべたになってしまう。ふと手を止めた十代は、ビール片手のジムを見た。それからカレンのほうを見る。
カレンもカレンで、プールサイドで、昼飯を食べている最中だった。
名前も姿もみたことがないような魚ばかり。それを器用に尻尾から牙にひっかける。カレンの食事は一日に一回だった。だが、何回かヨハンやジムがえさをやっているのは見たけれど、魚を食べているのを見るのは初めてだ。
「なあジム、カレンってさあ……」
「ん?」
「……もしかして、動物は食べないのか?」
ジムの目が、丸くなった。
十代は手を止めて、しげしげとカレンを見ている。ジムは思わず問いかける。
「なんで分かったんだ?」
「ん? なんとなく。でもさ、カレンって絶対に猫とかに手を出さないだろ?」
このジムハウスは、ほとんど公園のようになっているせいか、近所の動物の集合場所のようになっている部分もある。おかげで毎日のように野良猫やらナニやらがたずねてくるのだ。十代は昼間、この家にいて、ずうっとそれを見ていた。だが、カレンが猫を襲っているところなんて、一回も見たことが無い。
「普段やってるのって、さっきの養鶏場でもらってきた鶏じゃないかなーって思うんだ。それに、こんだけ広いのに、ヨハンが鶏とか飼ってないのっておかしいなって思ったし」
「ふーむ…… それで?」
「それに、カレンって、オレたちには何にもしないだろ?」
ジムはおもわず十代を見る。十代は小首をかしげてジムを見上げる。ジムはやがて、「be floored!」とおおげさに肩をすくめる。
「すごい洞察力だ! なんで分かったんだ、十代?」
十代の言うとおりだ。カレンはもともと、獣の肉を口にしないという癖がある。
癖というよりも、人間と一緒に生活していくにあたって、人やペットの類を襲うようではどうしようもないと、苦労してジムがしつけたと言ってもいい。おかげで今はカレンはおいしそうなステーキをちらつかせても見向きもしない。口に入れても吐き出してしまう。けれども、その分、新鮮な鶏肉や魚のたぐいは大好物だった。おかげで以前ヨハンが卵をとろうと鶏を飼ってきたときも、たった一日で、きれいにカレンの胃袋の中に消えてしまった。
驚いているジムに、十代は、なんでもなさそうにのんきに笑った。
「見りゃわかるよ。だってカレン、なあんにもしなさそうじゃんか」
「見れば、か」
「うん。いいやつだよな、カレン」
そういうと、十代はふたたびシャコの山へと手を突っ込んだ。そのまま夢中で皮をむいている十代を、ジムは、しばらく黙って見つめていた。
缶ビールを置く。
「おい十代、お前にpart-time jobを頼みたい、って話なんだがな」
「うん?」
片手に剥き身のシャコを手にしたまま、顔を上げる。
「これから、毎日とは言わないが、ときどきカレンのために魚を買ってきてやってくれないか?」
「魚って、さっきのじいちゃんから?」
「ああ、そうだ」
普段、カレンのえさに与えているのは、ジムが定期的に養鶏場から買ってくる廃鶏をつぶしたものだ。
冷凍にしておけば保存が利くし、もともと捨てるようなものなのだから二束三文。いつも床下の専用の冷凍庫のなかに凍らせてある。だが、やっぱり新鮮なものにはかなわない。できればカレンだって、毎日新鮮なものが食べたいはずだ、とジムだって思うのだ。
「新鮮な魚は電話さえしておけばいつでも譲ってもらえるし、カレンだってそっちのほうが嬉しいだろう。だがなぁ、オレたちには毎日買いに行く時間が無いんだ」
「じゃあ、それがおれのアルバイトになるってこと?」
「ああ。とりあえず、一回につき手間賃と食費込みで千円くらいでどうだ?」
十代は、「ええー」と答える。
「もらいすぎだぜ、そんなの」
「そんなことはない! 安いぐらいさ。あとはついでに、たまにカレンのことを洗ってやってほしい。あいつはモップで背中を洗われるのが好きなんだ」
「へえええ?」
「だがなぁ、やっぱりなかなかやる暇がない。人に頼むわけにもいかないしな」
「そんなもんなのかあ」
……それに、カレンがそれを承知してくれない、とジムはひっそりと心の中で付け加えた。
十代はなんでもないようにカレンと接しているが、実は、カレンがそういう対応を許す人間はとても少ない。稀有だといってもいいくらいだった。
元から危険なことになれているオブライエンや、いろいろと不思議なことの身についた風のあるヨハン。それ以外にこの《ジムハウス》の住人がいない理由はもっぱらそこに由来する。カレンのことを大切にしてくれる人以外を、ジムは、自分の家族として同じ家に遇する気には、なれなかった。
プールに居座ってのんびりと生活しているカレンだが、彼女を怖がる人間が傍にいれば、当然警戒してピリピリとしてしまう。客が来るだけでもそうなのに、四六時中それではカレンが幸せに暮らせない。ヨハンもオブライエンもそれを承知していてくれている。それでも、あの二人でさえ、カレンにえさをやることが精一杯で、身体にさわることはほとんど許してもらっていない。
けれど、十代だったら、大丈夫なんじゃないだろうか。
「カレンは、頭を撫でてもらうのが好きだからな」
「へえ。やってもいいか?」
「ああ」
十代は、シャコを片手に歩いていく。日向で魚を食べていたカレンが振り返った。がう、と口を開ける。十代はうれしそうに笑った。
「今度から、おれがおまえのご飯係だってさ」
十代はカレンの硬い皮をちょっと乱暴に撫でた。カレンはしばらくされるがままになっていて、そのうち、目を閉じた。気持ちがよさそうに。
「カレン、シャコ食う? 美味いぞー。おれも生まれて初めて食ったんだけどさっ」
はしゃいでいる十代を見ながら、ジムは、自分でも気づかないうちに口元が笑っていたと、ふいに気がついた。
「ジム?」
振り返った十代が、不思議そうな顔をする。「あ、いやいや」とジムはあわててごまかした。
「おい、こっち来い、十代。ビール飲んだことあるか?」
「えー、無い。美味いのか?」
「sure!」
誰だっていいじゃないか、とジムは思った。
十代が誰だかをジムはまだ知らない。どこで生まれたのか、いままでどうやって生きてきたのか、どうしてここまでたった一人でたどり着いたのか。
だが、それでもよかった。それくらいすんなりと、十代という人間の存在が、ジムの中に落ち着いていた。たった一週間しかすぎていない。だが、人間には、何十年も一緒に暮らしても分かり合えないこともある。だったらその逆だってあっていいじゃないか、とジムは思う。
出会った瞬間から、家族みたいになれる。
そういう相手だって、いても、いいじゃないか。
「ぅええええ、苦ーっ!!」
ビールを口にした十代が悲鳴を上げる。あわてて麦茶をごくごく飲む。ジムは笑った。
「Little boyにはまだ早かったか?」
「ジム、こんなまっずいもん、なんで美味そうに飲んでるんだよ……」
「大人になりゃ分かるもんさ。なに、じっくりとおしえてやるよ」
ジムは笑い、ごしごしと頭を撫でる。十代はうらめしそうにジムを見ていた。栗色の髪は健康的に乾き、まるでひなたの干草のように心地よい。
大切な家族が増えて、嬉しい。
……緑色にとろりと濁ったプールの傍ら、若い男がひとりと、少年がひとりと、ワニが一匹。
ちぎった綿のような雲が流れていく空の下、廃屋まがいの庭でのひとときの団らんを、まだ夏前の午後の太陽が、やわらかく照らしていた。
IOのナキリ様との共同企画、第2話です。
これだけ美味そうに書きましたが、実は私はシャコ食ったことがありません……(涙) 母が海沿いの生まれで、「シャコは美味い」といつも自慢するので、そのあこがれを詰め込んでみました。ちなみにシャコゆでたあとのだし汁も美味いそうです。
そして毎朝きちんと朝飯が出る生活も理想です。《ジムハウス》には私の憧れが詰まってます(笑)
ヨハンが《魔女》を自称している所以はまた次回v
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