Step:4
蝶々の舌






 大学の助手、という仕事も楽ではない。日常生活においてはのんびりと惰眠を貪る姿ばかりを見せているジムだから誤解されがちなのだが、それは、とんでもない勘違いだ。
 昨日の未明、ここから飛行機でなければいけないような場所で、地震による振動が観測された、という報告が入った。そうなれば、ジムの所属している研究室の人間は、デートだろうが親の金婚式だろうがなんだろうが放り出して、現場に急行しなければいけない。プレートの観察、といった仕事においてはスピードが命。のちのちに見た観測データを見てデータをまとめるのも仕事のうちだが、なにしろ、生でプレートの移動を観察し、そこで何が起こるのか、ということを最初に考えなければいけない。
 
 ―――つまり、だ。

 急に呼び出され、取るものもとりあえず下宿を出て行った末、一週間もたってやっと帰って来たジムは、そのころには、まるで水で戻したスルメのように、へろんへろんの状態に成り果ててしまっていたのである。
 戻ってきて、倒れこむようにして万年床へと突っ込み、それから、ほとんど一日も経過して。
 ジムが眼を覚ましたのは、遮光のカーテンの向こうから燦燦と日の降り注ぐ、うらかな午後のことだった。
「……Oh……」
 うめく、起き上がる。全身がなんだかぎしぎし言っている。
 考えてみれば風呂にもほとんど入っていないし、ヒゲを剃る時間すらなかったのだから、気づいてみればとんでもない顔だ。窓を開けると光が眼に刺さる。ジムは顔をしかめ、あわててぴしゃんとカーテンを閉めた。
「何時、だ……」
 アンティークモノの時計は往々にしてずれがちだが、さすがに長針程度は信頼してもいいだろう。4時。午後のお茶の時間を、ようよう過ぎたあたりだった。
 この時間なら、家には誰もいないだろう。ジムはずるずるとベットを降りると、とにかく何かで喉を潤そうと、ほとんど這うようにして部屋を出た。
 ガラクタだらけの居間を横切って、冷蔵庫のところへ。牛乳のパックを開けると直接に口に当てて飲み干し、次いで、見つけ出したチーズスティックのビニールを歯で食い破る。ヨハンが見たら怒り出すこと間違いなしの状態だったが、この際、どうこう言っている余裕はない。やわらかい白パンを焼かないままで口に入れ、のろのろと咀嚼して飲み干し、最後に、半分ほど余っていたプレーンヨーグルトの中身を口の中にかっこむ。ようやっと、なんとか腹が落ち着いた。
 そうなると、なんとか、外の光を見ている余裕も出てくる。
 ―――初夏。
 木々のこずえの緑が濃く色づき、草に花が咲き始める季節だ。
 ぼうぼうと草の茂った庭は、ヨハンに言わせればハーブの畑なのだろうが、物事を知らないジムからすれば、《荒地》以外の何者でもない。何種類もの草や潅木が、場所によっては腰や肩にとどくほどの高さまで茂り、場所によっては赤紫や白の花穂がたかく頭を上げている。その向こうには、プール。ジムにとってはゆいいつの家族であるところのカレンが暮らしている場所がある。
 
 ……どこで何があっても、太陽というのは、平気でさんさんと降り続けるものらしい。

 なんだか奇妙にしみじみとした気分で思い、ジムは、のろのろと外に出る。日焼けしたサンチェアにどっかと腰掛け、日よけ代わりに顔を帽子で覆った。ほとんど徹夜続きで数日も研究所詰めになっていたのだ。これくらいの休憩、きっと、ばちなんてあたらないだろう。
 玄関のほうで、錆びた自転車が軋んだ音を立てて止まる。誰かが家に戻ってきたらしい。ヨハンだろう、どうせ…… 説教されるのはごめんだから、居眠りを決め込むのがいちばんだ。
 だが、ジムがそう思ったのに、聞こえてきたのは、まるでちがった声だった。
「あ、ジム! 眼ぇ醒めたんだ!」
 ……少年の、声?
 ようやく、頭が半覚醒くらいには起きてくる。これはヨハンじゃない。あたらしい同居人だ。
 ぱたぱたと、ビーチサンダルを鳴らしながら走ってきた少年は、サンチェアに横たわっているジムをみて、ちょっとほっとしたように笑う。栗色の跳ねた髪、とび色の眼。せいぜいが中学生、といった風情の、まだまだ子どもめいた雰囲気の少年。
「十代?」
「よかったあ。帰って来たとき、ゾンビみたいになってたからさ。大丈夫かって思ってたんだ」
 どこへお使いへ行ってきた帰りなのか。十代はすぐにその不思議そうな眼の意味に気づいたらしく、にっこり笑って、「オブライエンのカード借りて、図書館行ってきた」とカバンを見せる。中身はどうやら文庫本らしい。
「Liblary…… ああ、お前は本が好きだったのか」
「どうだろ? 絵のが好きだけど」
 ビーチサンダルを脱がないまま、ジムのすぐ傍まで歩いてきた十代は、笑顔のままでまた別のサンチェアに腰掛ける。ひなたに置きっぱなしのサンチェアは、もともとは赤や青の縞だったはずの生地が、不思議な色に褪せている。
「でも、お疲れ様ー。大変なんだなぁ、大学の仕事って」
 十代は、感心したとも、呆れたともつかないため息をつく。
「おれ、ジムってこの家でいちばん暇なんだと思ってた」
「おいおいおい」
「あ、悪い意味じゃなくってさ!」
 十代はあわててパタパタと手を打ち降るが、しかし、十代の目にはジムが、のんべんだらりとした昼行灯に見えていた、ということは、言葉の端端から丸分かりだ。ジムは苦笑した。まあ、あながちまちがっている、というわけではない。
「ジムは家にいる仕事がおおくって、その……」
「いや、いいんだ。じっさい、ヨハンとかオブライエンは、オレの何倍も働いているしなあ」
 何倍も、というのは誇張だが、半分は子ども扱いでフォローされた、と気づいたらしい十代は、むくれて頬を膨らませた。ジムはけらけらと笑う。
「ったく、そういうことじゃなくって……」
 だが、言いかけて、途中で止める。ふいに苦笑めいた笑顔になって、「まあ、いっか」と言った。
 ふと、十代が、ぴょんとサンチェアから立ち上がる。なんだろう。ジムが眼を上げても、この姿勢じゃ、ほとんど空しか見えない。しばらく青空を見上げていると、やがて、十代が戻ってくる。何かが、唇に触れた。
「What?」
「これ、差し入れ。疲れたときには甘いものー」
 指がくちびるに触れる。何かが差し入れられる。なんだろうと思ってみれば、それは、あざやかな赤をしたつつじの花だ。
 ぽろりと落ちそうに鳴るのをあわてて咥えて、側を見る。十代は白い花を口に咥えて、ニッ、と可笑しそうに笑っていた。
 ジムも、知っていた。つつじの花。その根元の蜜を吸うと、甘い味がするということ。
 十代の好意に甘えて、花の根元を吸う。甘い。少しだけ噛むと、どこかしら若い梨に似た酸味も感じる。初夏の味だった。
「懐かしいな……」
 吸い終わったつつじを指につまんで、ジムは、しみじみとつぶやく。
 花を咥えたままの十代が、不思議そうな顔をする。ジムは「あ、いや」と苦笑しながら手を振った。
「つつじじゃないんだ。だが昔、似たようなことをよくやっていてな」
「ふうん?」
 なつかしいなあ、とジムはつぶやく。指先で、くるくるとつつじの花を、回しながら。
 昔、似たように、花の根を咥えて、蜜を吸ったことがあった。まるで瓶洗いのようなかたちの花は、つつじとはまったく似ていなかったけれど、どこかしら懐かしい甘みは同じだ。眼を閉じると一瞬、郷里の空がよみがえる。痛いほどの強い陽光。乾いて吹く風。荒地に乾き、風になびく草の匂い。
 十代は、その言葉に、不思議そうにつぶやく。
「そういうのって、どこにもあるんだ……」
「ああ。たぶんな」
 そういえば、ヨハンもまた、昔よく黄色い桜草の花を摘んで、おやつ代わりに食べていた、ということを言っていた。たっぷりと蜜を含んで甘い花。それは、どこの国にあっても、ちいさな子どもたちの絶好のおやつとなる。
 眼を上げると、黒くて大きな蝶が、ひらひらと木陰に飛んでいた。見ると、そのあたりにつつじのしげみが一叢ほど花をつけている。十代はあそこから摘んできたんだろう。赤や白の、つつじの花。
 蝶が一羽、つつじに止まる。黒い、薄い羽をした、おおきな蝶だった。ジムはふと、いたずら心を出す。サンチェアからいきおいをつけて置き上げるジムを、十代は、不思議そうに見上げた。
「なんだ?」
「花のお礼だ。十代、いいものをみせてやるよ」
 ジムは、ゆっくりと歩き出す。花の前へとやってくる。
 黒い蝶は、ゆっくりと羽を開いたり、閉じたりしながら、花の蜜を吸っていた。ジムはそこへと手を伸ばす。十代は不思議そうにこちらをみていた。
 蝶が逃げる――― と、思うだろう。
 だが。
 ふわりと浮き上がった蝶は、その次の瞬間、ジムの指へと、止まった。
「!?」
「ようし、いい子だ」
 ジムは、もう片方の手で、器用に蝶の羽をつまんだ。あわてて逃げ出そうとしてももう遅い。やわらかく、だが、しっかりと羽をつままれてしまった蝶は、もう、ジムの手の中に捕まってしまっている。
「え、……ええ!?」
 いったい、どんな魔法を使ったのか。
 思わず飛び起きた十代が、目をまん丸にして、ジムを見る。ジムは笑った。
「簡単なことさ」
 ジムは蝶の羽を見た。青い、光る縦のラインが入った、大きな羽。これはアオスジアゲハという名前の蝶だった。
「こいつらは、塩を欲しがるんだ。だから、ときどき水溜りに群がっていたりすることもある。それが正解だ」
「え、それって、つまり」
「人間からは塩が出るだろう。《汗》っていうものが?」
 ジムは、笑う。十代のほうへとゆっくりと歩いていく。蝶は観念したように、もがくのをやめていた。
 十代は息を詰め、眼を丸くしていた。ジムはそっと蝶を差し出す。
 黒い羽根に、青く光る筋を持った蝶は、まるで、作り物のように華奢な形をしている。
 やわらかい毛で覆われた胸と、鈍く光る複眼。まっすぐで細い触角。六本の華奢な足。
「見たことがあるか?」
 ジムは、蝶の口の辺りを、軽く指でつついた。
「蝶にも、舌があるんだ」
「舌……?」
「ああ。この、くるくるとまるまってるやつ。花を近づけると、こいつがストローみたいに、花の根っこにある蜜を吸う。それが蝶の舌さ」
 十代は、息を詰めて、黒い羽根の蝶を見つめる。蝶はただ黙って、しずかに、ジムがさしだしたもう片方の手に、六本の足でしがみついていた。
 ジムは、そっと指を離す。黒い羽根が開放される。それでも蝶は、わずかな間、ジムの指にしがみついていた。
 だが。
 やがて、羽が開く。ふわり、と飛び立つ。薄い羽をはためかせて。
 そして黒い蝶は、光の下に迷う影のひとひらのように、どこへともなく、飛び去っていった。
「蝶の舌、かあ……」
 十代が、ぽつりとつぶやく。ジムは笑う。
「初めて見たか?」
「うん」
「そりゃ、よかった。オレは十代がいっこ賢くなる手伝いができた、ってわけだ」
 ふわあ、と喉の奥まで見えそうな大あくびをして、ジムは、全身で伸びをする。そして、茶目っ気たっぷりに付け足した。
「花のお礼、ってことで、どうだ?」
 十代はまだきょとんとしていたが、やがて、小さく吹きだした。
「お礼なんて、ぜんぜんいいのになあ」
「いやいや。一宿一飯の恩とかなんとか。日本語だと言うんだろう?」
「そうだけどさあ……」
「さて、飯だ、飯。なんか食うもの……」
「ヨハンが、ジムが起きたら食わせてやれって、なんかバスケットにつめてた気がするんだけど」
「マジかっ。ありがたい! 主夫の鑑だなあ、あの男は……」
 大げさだよ、と十代は笑う。
「でも、おれも待ってたんだ。ジムが起きたら、いっしょに昼にしようかなって」
「reary?」
 ジムは、眼を、ぱちくりと瞬いた。
 とっさに時計を見ると、もう、四時を回っている。昼という時間はとうに過ぎている。「いいじゃん」と十代はあっさりと笑った。
「午後のなんとかってやつも、けっこうよさそうじゃんか?」
 笑っている十代の顔は明るい。まあそうだな、と、すとんと気持ちが腑に落ちた。
「よし。じゃあ、一緒に飯にするか!」
「うん!」
 下宿人とその大家は、ぱっちんぱっちんと手を合わせあう。そして、お互いにのんびりとした足取りで、屋敷の中へと戻っていく。
 世はなべてこともなし。
 とろりとした緑のプールの側で、ひなたぼっこをするワニが、のんびりと、大口を開けてあくびをする。







IOのナキリ様との共同企画、第2話です。

オブ話の前に、ちょっと番外編。
日本だとツツジの蜜を吸いますが、オーストラリアではグレビリアという花、ヨーロッパではキバナクリンソウという花が、その蜜が子どものおやつになるような花だそうです。
味に違いはあるのかしら。気になる。



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