赤いインクをくださいな (藤吹)





(*メンヘル系で痛い内容です。ご注意)



 最初はなんでもない気持ちだった。なんであんなにむしゃくしゃしてたのかおぼえてない。でも気づくとすっかり癖になってしまっている。暑くても長袖が脱げない。ポケットの中のカッター、刃を折ってあたらしくする癖が抜けない。こんな俺を見ていろんなことを言ったやつがいる。病気だとか、自分もおんなじだったから気持ちが分かるよとか、一日だけ我慢してごらんとか、大人になればおさまるからとか。
(自意識過剰だとか自己顕示欲だと言われるほうがむしろ安心。そういう風に思っとけば相手はなんにも手出しなんてしてこない。笑ってエキセントリックなふりをして心の中でそいつは抹殺決定。気づいてないんだよね? あんた、俺の中だととっくにひき肉みたいになってんだよ)
 治るのかなこういうの。人に見られるのがはずかしい。そのくせ誰かに見つけてもらいたいってずっと思ってる。でもこの人なら信頼できると思って見せるたびに失望する。反応、みんな同じじゃんか。結局病気だからって優しくするかきちがいだからって気持ち悪がるかのどっちかじゃんか。どっちでもない。俺はおれ、なんだよ。でもそんなのこんな方法で伝わるわけないってのは分かってる。真っ赤なインクで字を書いても、みんなはその赤さにおもわず眼をそむけて、何が書いてあるかなんて見てくれない。俺自身もうんざりしてくる。赤黒いインクは裏写りしてきたない。触ると赤黒くよごれて、酸素に触れて黒くなっていく真っ赤なインク。でもまだ書きたりない。もっと書くことがある。もっとたくさん。もっともっと。

「傷口、ちゃんと消毒しておかないとだめだよ。あと、ばってんはやめといたほうがいい。皮膚がひっぱりあって治りにくいから」
 そういいながら俺の上膊を、消毒液をしみこませた脱脂綿で拭っているやつ。俺はなんだかぼうっとしたままでその妙に手馴れた手付きを見ている。ちっちゃな綿菓子みたいな脱脂綿が、ぽんぽんと傷口の周りを拭くたびに赤黒く汚れる。真っ赤なインク。
「―――なんも言わないの」
 俺は顔を背けた。保健室の明かりは蛍光灯であかるくてまぶしい。外はきれいに晴れてて明るくてまぶしい。どっちもすごくいやだ。
「言ってるじゃないかさっきから。あと、しばらくお風呂には入らないほうがいい。ばい菌が入っちゃうからね」
「そうじゃなくって」
「絆創膏と包帯、どっちがすき?」
「……」
「じゃあ、ガーゼにしよっか」
 にっこりと笑って、吹雪は、俺の腕に薬を塗って、ぶあつくガーゼを貼り付けた。上からテープで止めつけるとなんかリストバンドでもしたみたいになる。俺はしばらく黙っていて、それから、ぼそりと言った。
「これじゃ、上着の袖がはいんないんだけど」
「あー…… そっか。どうしようかな」
 なんなんだ、こいつ。
 なんか言いたい気もするけど、とにかく疲れてて、ぜんぜん言葉になんなかった。俺は赤いインクの入手に失敗してしまった。全部吹雪が脱脂綿とガーゼでぬぐって止めてしまった。俺は今日の記述に失敗する。
「……あのさあ、吹雪」
 俺は、笑う。ひきつったような笑みが醜いと思う。吹雪は振り返って首をかしげる。
 俺は上着を脱いで、両腕の袖をまくりあげる。あんまり筋肉の付いてない細い腕。白い肌。その上に傷跡。真っ赤なインクを絞った痕。
「こういうの、どう思う?」
 笑えよ。怒れよ。説教したり、軽蔑したり、顔をしかめたりしろよ。
 ひどく露悪的で嗜虐的な気分。理解されたい気持ちと絶対に理解なんてできないっていう気持ちのアンビバレント。頭の中がぐちゃぐちゃする。どうにかしたい。どうにかしてよ。
 吹雪はしばらく黙っていた。それからやがて、ひどくひかえめな態度で、言った。
「……さわっても、いい?」
「……」
 俺は、あっけにとられた。何もいえなかった。
 吹雪の指はながくてきれいだ。その指がひかえめにあがって、俺の上膊のあたりにふれた。冷たい指だった。そこはもう治りきって肌色になった痕があるだけ。
「たくさんあるんだね」
「……」
 混乱した。どういう気持ちで吹雪がそんなこといったのか、さっぱり分からなかった。
 俺はなんだか妙に気恥ずかしい気分になって、早口になる。あわてて言い訳みたいなことを口にする。
「別に…… そんなでもない。もっとやってるひとはいっぱいあるし、それに俺、縫うほどになったことないし」
「そうなんだ……」
「それに消えるよ、こんなの。数年とかすればさ」
 自分がすごくばかみたいに思えてきた。なんだこれ。こんなの、予想してないよ。
 しばらく黙っていた吹雪は、そのうち、ステンレスの皿のうえにかたんとピンセットを下ろして、それから、俺の隣に来る。俺は動けない。吹雪は言う。ちょっと笑って。
「僕でよかったら、いつでも、手当てをするから」
「う……ん」
「誰にも会いたくないんだったら別にいいから。こっそり来てよ。消毒したり薬つけたり程度しかできないけど、なんにもしないよりはましだから」
 ……なんなんだろう、こいつ。
 俺は心の底から混乱する。顔が上げられない。どんな顔してるのか自分でもわかんない。
 でも俺は、
「……そんなこと言われたら、吹雪にやさしくてもらいたいから、切っちゃうかもしれない」
 吹雪は一瞬、哀しそうな顔をした。でも、すぐにちょっと笑う。笑顔みたいな顔になる。
 俺の頭を抱き寄せて、吹雪は、子どもをあやすみたいに、ぽんぽんと叩いた。
「それでもいいよ。仕方ないさ」

 俺はもっとインクが欲しい。真っ赤なインク、みんなの首をむりやりそっちに捻じ曲げて、見せ付けて、吐き気だの怒りだの、強い感情を催させるようなインクが。
 でもみんな、その真っ赤をだけみて、何が書いてあるかを見られなくなる。俺も、同じになる。何がなんだかわからなくなって、ただただ、インクを使ってべたべたに何かを書き散らすだけになる。意味なんてないフレーズばっかり。ねえどっちがさき? 読んでもらいたいから書くの? 書いたから読んでもらいたいの?

「―――よりにもよって、仕方ないっていったやつ、はじめてだ」
「そう?」
 俺がすねたみたいに言うと、吹雪はちょっと笑う。そうして、俺のこめかみの辺りにキスをする。
「ま、それだけ僕が、藤原のこと好きだって意味さ」

 ……吹雪は、やさしい。すごくやさしい。
 なんだか一瞬、ほんの一瞬、インクのことも、見せ付けたいはずのなにかのことも、なにもかもがどうでもよくなった。俺は泣きたくなった。泣かなかった。ただ、髪の毛をなでてくれる吹雪の手が優しかった。この手が大好きだ。そう思った。そうして俺は、唯一こう思ったことだけは真実だと自分で思えた。前にそう思ったのがいつかわからないくらい、久しぶりに、そう思えたのだ。




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