君はいない (吹雪独白)



 ある日眼をさまして、僕は、ひとりでコーヒーを淹れる。フィルターの付いた簡単なドリップパックを使う。インスタントのパッケージに轢いた粉が入っていて、そこにお湯を注ぐとインスタントよりいくらか本格的な味が楽しめる。便利だ。
 寝癖がついたままの頭で、夜更かしでしょぼしょぼする目で、窓の外を見ると、もう太陽がかなり高い。ああ、寝坊したんだなあ、と思う。二年も留年してればずいぶん要領もよくなって、上手にさぼる必要も、必要な単位でつぼを押さえる方法も分かる。真面目じゃないって怒るのだけは勘弁してくれ妹よ。僕はもう若くないから無理が利かないんだよ。
 テーブルに卓上カレンダーがおきっぱなしで、絵が好きだからそのままにしておいたけれど、ふと気づくと、その日付が二年も前のものだったと唐突に気づく。ああ、ずっと出しっぱなしだったんだ、このカレンダー。きれいな写真。でも、僕だったら絶対にえらばないような類の。ばら色をした、形もばらの花のような形をした星雲をこのうえもなく贅沢な画質で写し取ったというモチーフの。
 きれいだけど、どうしたんだろう。買ったのかなもらったのかな。もうずっと前だから思い出せない。そこでとうとつに気づく。日付のひとつにボールペンでばってんの印がつけてある。それを書いたのは僕だと思い出す。
 何の日なのかな。思い出せない。コーヒーのフィルターをゴミ箱に棄てて、ミルクを小型の冷蔵庫からひっぱりだしているとき、とうとつに頭のどこかが通電する。ああ、あれって誕生日だった。誰だかの。思い出せない誰かの。
 誰だったけな、亮に聞けばわかるかな。そうして思い出す。亮も、いない。もうとっくにここにはいない。
 僕はとっくに大人で、だらだらした道楽好きで、そうして、妹たちとおんなじ学年になってしまっていて、それでもアカデミアで余暇のような日々をすごしていて、でも、もうじきここを出て行く。亮はとっくに出て行った。もうじき僕らはここにいなくなる。
 わからないことがあったらいつも亮か、誰かに聞いた。僕に聞かれるのをちょっと喜んでいるから聞いていた。いやがられるなら聞かなかった。僕はそういうどうでもいいこと、ささいなことにだけ敏感だけど、本当に大事なことからはおいてけぼりだった気がする。そうして、「ほんとうに大事なこと」ってなんだっけと考える。
 ぽつんと涙が落ちる。コーヒーカップを持った僕の手に。なんでか涙は止まらない。僕はコーヒーカップを持ったまま空いた手で顔をこする。なんだかやけになった気分で、声を殺して、ひっしで涙を止めようとする。
 たった今、誰かに逢いたい今、さんざ泣いてだだをこねて、その後妙に真剣なこといって、最後には冗談を言ったりしてぜんぶごまかしてしまいたい今、誰にも会えない。きみは、きみたちは、もういない。
 僕はずるずると床にすべりこみ、手元からコーヒーカップが床に置かれて、すこしこぼれて床に茶色いしみをつける。僕はしばらくたってコーヒーが冷め切ったころ、カレンダーは棄てないことにして、かわりにちょっとだけ見えにくい場所においやるために、ポットの場所をずらす。それだけ時間がたたないと僕は泣き止まない。
 床についたしみはちょっとはなびらみたいな形をしててやさしい茶色をしている。でも、まだ僕は泣いている。こうやって泣いていればきみが気づいてくれるんじゃないかとどこかで思って、わざと声を殺して、ぜんそくでも起こしたみたいに泣いている。


 きみはいない。もういない。僕も、そうなる。ここに、いなくなる。
 でも奇跡が起きないかな。もういちど、きみが、きみたちが帰ってこないだろうか。そんな絶対におこらないことをくだらなく空想しながら、僕は、遅い朝の光の中で泣きべそをかいている。迷子になった子どもみたくに。




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