昔そこに海があった (藤原・明日香)
―――彼女が、里帰りがてら、その場所を通りかかったのは、ただの偶然だった。
「……ほんとに、なくなっちゃったんだ」
波打つトタン板にかこまれ、有刺鉄線がはりめぐらされている。おそらくは、子どもが間違って立ち入ったり、若者が入り込まないためだろう。黄色く塗装されたショベルカーが夕日に照らされて、長い首が、恐竜のようなシルエットを見せている。
トタン板で囲まれた工事現場。そこには、なにもない。
地面がえぐりとられ、粘土質の地層が露出し、ただ、おおきな穴だけがある。彼女はトタン板にうちつけられたプラスティック板に、そこにあたらしく、マンションを建設するという計画を見る。
回顧よりも、切なさよりも、ただ、むなしさ痛々しさが強い。夕日がむき出しになった地面の向こうに暮れていく。濡れた紙に絵の具をにじませたようなやわらかい色彩が、なおさらにひりひりと心を痛ませる。
昔は、ここは、公園だったのに。
大きな木があって、丘があって、そして、錆びた鎖のブランコがあった。懐かしい記憶。
木の下で草に寝転び、ボールをおいかけて走り回り、近所の犬とたわむれて、そして、ブランコに座って夕暮れを見た。幼い日。還らない過去。
還らない…?
「何を、見てるの?」
彼女が立ち止まりかけたとき、ふいに、背後から、声が聞こえた。
振り返ると、そこにはひとりの青年が立っている。人懐っこく細めた目は、何かの宝石のような濃いすみれ色だった。隣まで歩いてきた彼は、「ああ、もうこんなになってしまったんだ」という。
「あなたも、このあたりの人だったの?」
「ううん。でも、ここらの出身だってやつがいてね、よく話を聞いてたんだ。きれいな公園があるって聞いてたんだけどなあ。もう、ただの穴ぼこしかないや」
彼女は、トタン板に手をかける。胸がひりつくような虚無感。
「…わたしも、ちいさなころ、よくここで遊んでいたんです」
「ふぅん?」
「古いブランコがあって、夕方ごろには、まだ帰りたくないってよくだだをこねたわ。懐かしい…」
けれど、言いかけて、言葉をとぎらせる。何か妙な違和感がこころを掠めた。なめらかな陶器をなでていた指が、ふいに、継ぎ目をさぐりあてたような違和感。
だまりこむ彼女の眼を、側の青年が、覗き込む。
「ブランコ…ふぅん、どんなブランコだったの」
「どんなって、どこにでもあるようなのでした。空色のペンキがはげかけてて、鎖がさびてて、木の踏み板は黄色く塗られていて…」
ためしてごらんよ、明日香。
眼をつぶってブランコに乗ると、なんだか、どんどん空にのぼってく感じがするんだよ!
「…そんなのが、あって…」
「気のせいじゃない?」
側の青年が、いやに、陽気な風に言った。
「記憶なんて、あいまいなもんさ。どっちみち公園はもうなくなっちゃったんだし。覚えていても仕方が無いよ。大事なのはこの先だろ」
「それは、そうですけど」
たしかに正論だし、普段だったら彼女が考えそうなことですらあった。だが、その口調に、妙に反発を感じる。語気を強めていいかけたとき、ふいに彼女は、目の前のすみれ色の瞳の近さに、息を呑んだ。
「忘れるんだ」
彼は、言った。
「その過去は、もう、キミのものじゃない。キミにはいらない」
だから、
「…俺が、もらっていくよ。吹雪のために」
*****
彼女が、久しぶりに実家のあたりに帰ると、見覚えの無いトタン板の囲いが、できあがっている。
なにがあったんだろう? そのかたわらを通りざまに建築計画がかかれたプラスチック板を見ると、以前の公園の上にビルを建てるということが書いてあった。
ふぅん、あたらしいビル。しばらく工事がうるさくって、大変でしょうね。
彼女の脳裏をほんの一瞬そんな思いがひらめいたが、それだけだった。亜麻色の髪の美しい少女は、そのまま、トタン囲いの空き地を側を通り過ぎ、すぐに、見えなくなった。
そして、その背後にのこされたもの。夕暮れの、茜色の光を受けて、長く長く伸びた影が、ひとつ。
「ねえ吹雪、これでお前の欲しかったものが手に入ったよ」
緑の髪、すみれ色の青年は、そう言って笑う。手の中で玩ぶものは、滑らかな黒いガラスの球のペンダントだった。涙のしずくの形をした黒曜石。銀の鎖のペンダント。
「お前のことが必要なのは、もう、俺だけだもの。大丈夫、過去なんてなくなっても、生きている人間は困らないさ。全部あげる。懐かしいものはね」
さあ行こう… と、彼はつぶやく。
「ブランコか。あまり、遊んだことないな。いろんな話をしてやるよ。悪党の存在とか、聖者の破滅とか。お前の知らないことを、いくらでもね」
そうして彼は、黒いガラス玉のペンダントを首にかけ、子どものように楽しげな足取りで歩き出す。彼の目の前では、夕日に照らされて、ちいさな公園がひろがっている。錆びた鎖のブランコがゆれ、かすかにきしみをたてている。
彼の胸元では、黒いガラスのペンダントが、ただ、何かの涙のしずくのように、しずかにゆれていた。
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