玉箒の滝の物語 (中世パラレル)



 始春(はつはる)の初子(はつね)の今日の玉箒 手に執るからにゆらく玉の緒
  ──大伴家持(巻二十)



 ふいにばさりという大きな羽音が空に響き、ついで、ギャア、ギャア、という鳴き声がそれに続いた。おそらくは烏だろう。びくりと脚を止めた少年は、湿った苔に脚をとられ、あやうく足元を踏み外しそうになる。
「ひっ……!!」
 足元で石が崩れ、音を立て、小石が淵へと転がり落ちていった。甲高い音が峡谷にこだまするが、しかし、水音は聞こえない。少年はおっかなびっくり足を引き、深い深いため息をついた。
 ―――六角の形をした玄武岩が切り立った、深山の奥。
 道なき道は羊の腸のごとくに曲がりくねり、霧が濡らした岩々は黒く濡れ、やわらかな緑の苔に覆われていた。木々は数百年、あるいはそれ以上の年月を経て聳え立ち、はるか頭上で樹冠を合わせた様は、大きな天蓋を覆い被せているかのように見えた。ここはもう、本来ならば山の民である土蜘蛛でもなければ足を踏み入れぬような土地だ。神代に大君が大和の国を開いてより以前からの神々が、今だ、静かに息づく深い山奥。
 けれど少年は汗にぬめった手のひらを腰の辺りにこすり付けると、再び凛々しく…… というにはいささか泣きそうな顔だったが…… 表情を引き締め、足を踏みしめて、ゆっくりと淵のかたわらを辿り始める。それは白い飛沫を上げながら流れる深い深い淵で、岩を穿ったその深みには、翡翠のように美しい碧がたたえられている。そうして、澄み切った水に山女の影がついとひるがえり、取って返しては軽やかに影をひらめかせるその表に、ゆっくりと流れて行く薄紫の花……
 桐の花だ、と彼は、翔は思った。今はまだ4月。なのに、初夏にならねば花をつけぬはずの桐の花が、こうして水面を流れてくる。
 この河をさかのぼった先には、あやかしの護る霊泉がある……
 そのような噂を聞くようになったのは、いったい何時からのことだったか。それでも翔はキッと唇をかみ締めて、ふたたび、土を踏みしめ歩き始める。慎重に土を踏みしだきながら歩いていく少年の姿を、こずえに止まった鳥ばかりが、不思議そうに見つめていた。

 彼は、丸藤翔は、この東国に住まう藤原の家の裔にあたる豪族の息子だった。とはいえ、彼自身は長子として生まれたというわけでもなく、年を取ってから生まれた末子として、年老いた両親に可愛がられながら育ってきた。
 上には何人もの優秀な兄姉がいて、はるばると京の都にまで奉公に出ているものすらいるけれども、翔は、かあいらしい甘えん坊を手放したがらない老母や姉たちに可愛がられて、東国の田舎にのんびりと育てられてきた。それでいいと思ってきた。―――今までは。
 
 季節になくとも桐の花が流れ寄せる川の先、あやかしの護る霊泉が湧く、と古くからこの地に住まうものは言う。
 山から山へと渡り歩き、けものを狩る山の民たちまでもがそういうが、しかし、誰もこの河を遡り、源泉を探したという話はしなかった。なぜなら、深淵には恐ろしい守びとが棲むという。天魔、夜叉の類が霊泉を護り、不用意に近づくものには命もない、と言うのだから。
 それでも翔には、霊泉の水が要り様になる、訳があった。
 額に流れる汗を拭う余裕すらもなく、入り組んでもつれた藤のつるを掴み、足元をさえぎる笹を踏み越えて、断崖のかたわらをおっかなびっくりたどっていく。そうして。
 ―――やまなしの樹を通り越したとき、ふいに、目の前が開けた。
「……う、わあ」
 思わず、声が漏れる。
 どうしていままで気づかなかったのか、流れ落ちる滝の水音、涼やかな清水の香。翔は目の前に開けた光景にぼうぜんとした。そこに現れたのは、白い白い岩の淵に、青い青い水をたたえた、深い滝つぼの姿だったのだ。
 まるで白糸を広げるように、切り立った岩の間から、澄んだ水が飛沫を上げる。淵は青く深く深く、恐ろしいほど澄んでいるにもかかわらず、底が少しもうかがえない。翔はやまなしの枝にしがみついたまま、おそるおそる身を伸ばす。これが、噂に聞いた霊泉なのだろうか。一口飲めば千年の齢を得るという、甘露が湧きだす泉なのだろうか。
 そうやって気をとられていたから、気づかなかった―――
「あれ、人間!?」
「―――ッ!?」
 背後から、声。
 まったく予想もしていなかった不意打ちに、翔は、びくんと肩を震わせ、振り返る。そうして見えたのは栗色の髪、丸く見開かれたとび色の眼―――
 そこまでが、限界だった。
 音を立てて、やまなしの枝が、折れた。
「わ、わわ、わ!!」
 翔はあわてて両手を振り回す。だが、むなしく虚空を掴むだけ。あぜんとした顔の見知らぬ少年を目の前に見て……
 まもなく、盛大な水音が、森閑とした森に、響き渡った。



「ううう……」
「やー、ごめん、ごめん。そんなに驚くなんて思わなくってさぁー」
 あははは、と明るく笑う声がなんとも恨めしい。かたわらに伸びた枝にはびしょぬれになった翔の服。そうして翔の目の前では、さきほどの少年が、可笑しそうに笑いながら、枝で焚き火をつついていた。
 蘇芳で赤っぽく染めた衣は麻衣か、房のついた結袈裟を掛け、足には脚半の上から頑丈そうな草履を結わえ付けた姿は、山に修行する山伏のたぐいとも見えた。が、その風体がなんとも装束にそぐわない。胡乱なものをみるような目でじっと見つめる翔にも気づかなげに、枝に刺してあぶっていた山女に火が通ったと見ると、「食うか?」と翔のほうに差し出す。
「ありがとうっす。……あの」
「お前、誰だあ? こんな山奥まで来るなんてさ。そんな人間、すんごい久しぶりだぜ」
 あくまでからりとした口調で言って、小首をかしげる。なんだか、何を言っても無駄な気がした。あきらめて受け取り、一口齧る。「あちっ!」と悲鳴を上げる翔に、少年は、また笑った。
「あの、あなた、誰なんすか? こんな山奥に」
 それはボクもっすけど…… と言うと、彼は、「んん?」と小首をかしげた。指で頬の辺りを掻く。
「んー、遊城山の十代坊……ってことになるのかなあ、いちおう」
「……って《ことになる》?」
 いかにも怪しげな言い草。だが、気にしない様子で自分の分の山女の枝もとると、「そういうもんなのさ」とごく気楽に彼は言った。
「仲がいいやつは、おれのこと、遊城の、とか、十代、とか呼ぶけど」
「……」
「この遊城の山を、っていうか、ここの泉を護るのがおれの仕事。十代の間ここを鎮護しろって言われてる。だからそいつが名前みたいなもんってわけさ。……あ、こっちも飲めよ。あったまるから」
 竹の筒を切ったものを渡されながら、翔は、背中にかすかにちりつくような感覚を憶えた。
 目の前で、屈託のない顔で、川魚をほおばっているこの少年。
 このような深山の奥に独りでいて、しかもこのような翔といくつも代わらない年頃の少年が、山一つを守護している、とこともなげに言う。およそ、尋常ではない。翔は誰やらから聞いた話を思い出す。
 ―――山奥の霊泉は、天魔や夜叉の類に、護られているという。
「お前さ、なんて名前なんだ?」
「へ? ぼ、ボク? ……その、翔っす。丸藤翔」
「まるふじ……?」
 少年は、十代は、手を止めた。その名乗りのどこが引っかかったのか、怪訝そうに翔を見る。
 翔は、慌ててがばりと頭を下げた。土下座をするように地面に額をこすりつけると、十代はぎょっとしたような顔をする。そんな顔を見上げる勇気もなく、けれど翔は、精一杯の声を張り上げた。
「お願いっす、十代さ…… いえ、十代のアニキ! ボクに、薬の水を分けてください!」
「え? ええ??」
 眼を丸くしてたじろいでいる十代に、けれど翔は、涙ながらに眼を上げる。そうして、掻き口説くように言い募る。
「水がいるんっす…… 霊泉の水にはどんな病気だって治すご利益があるって。それくらいしかもう頼るものがないんっすよう……」
「ご利益って」
 驚きがなくなると、十代はようよう正気に返ったらしい。ちょっとばかり真剣なまなざしになって、おおきな笹の葉の上に食べかけの焼き魚を置いた。「どうしたんだ?」とやや真剣な顔になって問いかける。
「誰か病気でもしたのか? いくさで怪我をしたとか」
「ううん」
 翔は、首を横に振った。声がたじろぐ。
「その、助けたいのって…… 人間じゃないんっす」
「へ?」
 馬なんっす、と翔は言った。
「あの、父上の馬なんっすよ。ただの馬じゃなくて、みやこでの働きの褒美に下賜していただいた馬なんっす。……きれいな青毛の、額に星のある……」
 それは、つやつやとした美しい毛並みの、青毛の牝馬だった。
 まるで鵜のように艶やかな毛並みをしているものだから、《うぐろ》の名前を与えられていた。どのような戦場でもおそれることのないすばらしい馬にもかかわらず、性格は柔和で、臆病な翔の手からでも、よろこんで飼い葉を食べてくれた。
 だが、うぐろはもう高齢だ。今やかつてのように駆けることも敵わず、体の衰えは見るも明らかだった。それでも翔はうぐろを愛していた。けれど、それでも、限界はある。
「でも最近、うぐろは目が悪くなってきて…… 目に白い曇りがいくつもできて、じょうずにものが見えていないらしいんっす。これじゃあもう生かしていても仕方がない、どうしたって治らないから、殺してしまったほうがいいって言われてて……」
 言っているうちに、翔の目からぽつりと涙がこぼれた。翔はあわてて拳で眼をこすり、ごまかすように「へへ」と笑う。そうして、生真面目な顔をしている十代を、ひたと見据えた。
「だから、ここが最期の望みなんっすよ。桐の花が流れる沢の、下にある泉で汲んだ水で洗えば、うぐろの目だってきっと治る。そしたら、また、一緒に野辺を駆けることだって、出来るはずなんっす」
 十代はしばらく考え込むような顔をしていた。まっすぐにこちらを見る目が、澄んだとび色をしている。その目はどこか、人のそれというよりも、もずやつぐみといった野の鳥のそれに似ている気がした。思わず引き込まれて見とれていると、ふいに、遠くから、高く歌うような声が聞こえてくる。
 鳥の声。おそらくは、ひばりの声だ。
「ひばり……?」
「ああ、今年もひばりが鳴く頃になったんだ」
 十代は、うれしそうに眼を細めた。
「なあ翔、ひばりがこうやって初めて鳴くような場所ってさあ、どんな名前がいいかなあ」
「え?」
「この泉、名前が無いんだよ。昔っからさ」
 ぽかんと口を開ける翔に、十代は、照れたように頭を掻いた。
「おれ、学が無いんだよ。もう歌とか詩とかもさっぱりでさ…… 亮さんに習っても、エドにいろいろ教えてもらっても、ぜんぜん身につかなくって」
「は、はあ……」
 だから、と十代は言う。
 その目はきれいに澄んだとび色で、まるで、鳥のようにやさしい。
「この泉に名前を付けてくれたら、水をやる。そいつで二つの眼をあらってやれば、お前の”うぐろ”は、まるで二歳の若駒みたいに、ぴんぴん元気になって、どれだけだって駆けれるようになるぜ」
 だからさ、と十代は笑った。
「名前、付けてくれよ。なんかカッコいいヤツを、さ!」



 ―――夕暮れ、日が暮れると、深い遊城の山奥に、丸い形をした月が昇る。
 山を下っていくばくか、すすきの茂るあだし野に、軒も既に朽ち落ちた庵がひとつ結ばれている。首の無い地蔵が並んだあたり、元は上がり框の代わりだったのだろう石に腰掛けて、独りの男が月を眺めていた。襤褸を纏っていても、その隠遁者のように禁欲的な風、どことはなしに武人めいて武張った風は隠れない。そうしてとりわけ目立つもの、その額に生じた一本の角……
 欠けた茶碗が杯代わり、やまなしを醸した猿酒が今夜の伴。男が月をつまみに酒を舐めていると、ふいに、ばさりと後ろで音がする。男は振り返る。ひとりの少年が、そこで、ゆっくりと翼をたたんでいるところだった。
 鷹に似た、とび色の斑の入った、たくましい翼。それを他にすれば人と何一つ変わるところはない。彼が音も無く降り立ち、翼をたたむと、手にした尺杖がしゃらんと音を立てる。男を見た少年は、「よっ」と親しげに片手を上げた。
「十代か。どうした」
「ん? どうしたって?」
「何か、嬉しそうな顔をしているぞ」
「あれ、分かっちゃうか」
 少年は、十代は、自分の顔をぺたぺたと触りながら、「へへへ」と嬉しそうに笑み崩れる。これ土産、と差し出された山女を手に、男は少し首をかしげた。
「何かいいことでもあったのか」
「あった、あった! すごくあった! あのさ亮、おれのお守りしてる泉にさ、名前がついたんだぜ」
「ほう……?」
 十代は、だしぬけに真顔になる。そうしてしばらく考え込むと、慎重にそのひとくさりを口にした。
「”始春の初子の今日の玉箒 手に執るからにゆらく玉の緒”……」
 亮、と呼ばれた男は、「ほう」とわずかに表情を柔らかくする。
「万葉の歌か。雅なことだ」
「うん、今日さ、泉の水が欲しいってやつが来てさ! ちょうどそのときに今年でいちばんのひばりが鳴いたからって、この歌から付けてくれたんだ」
 ひばりの初音が聴こえる滝だから、と十代は嬉しそうに言う。
「だから、玉箒の滝だって。ほんとうはうぐいすの歌らしいんだけどさ、でも、いい名前だろ?」
「ああ、そうだな」
 亮はやわらかく笑い、十代の頭を撫でた。鷹の羽のような髪を撫でられ、十代は、くすぐったそうな顔をした。
「あ、そうだ亮、魚を捕ってきたんだぜ。焼いて食おうよ。すんごく美味いから!」
「それはありがたい。つまみが月では味気ないと思っていたところだ」
「じゃあ、すぐに焼くからさ。なあ相棒、手伝ってくれよ」
 くりくり、と声がして、茶色い毛玉に羽が生えたような木っ端天狗が、十代の背中から手元を覗き込む。そうして朽ちかけた庵の奥に入っていこうとして、ふと立ち止まり、十代は、思いついたように言う。
「そういえばさ亮、今日来てくれたやつ、翔ってやつなんだけどな、字は”丸藤”っていうんだって言ってた」
「……」
「亮とおなじなんだなあって思った。面白いよな!」
 屈託無く言う十代に、亮はしばらく黙り、やがて、「ああ、そうだな」と返す。笑顔で頷いた十代は、そのまま奥へと入っていった。
 しばらく待つと、背後からぱちぱちと粗朶の弾ける音が聞こえ始める。まだ緑の芽吹きも遠いあだし野に、細く煙が昇って行く。亮は空を見上げる。そこには、丸く満ちた白い月がある。
 

 ―――それはまだ、森にあやかしが、山には鬼が、水には龍が、そうして天には神や仏の居たころの話。
 これは、古い古い時代、説話の頃の物語である。





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