子どもなカンケイ 3.
(十代記憶喪失ネタ)

 十代が倒れているのを見つけたとき、翔は、比ゆではなく目の前が真っ白になるのを感じた。
 嘘ではない。雨の中、どれだけ人に気づかれなかったのか、倒れた十代の頭の下で、水たまりが薄赤く染まっていた。青ざめたくちびる。雨に打たれた髪がぐっしょりと濡れて、肩に張り付いていた。誰かが放り捨てた人形のような姿。
 それから十代は三日眼を覚まさなかった。三日――― 三日も。
 検査の結果は異常はない、額を切っていたのもただ石にぶつけただけだと鮎川は言ったけれど、翔はほとんど眠ることもできなかった。最悪の想像が幾度も頭をよぎった。いや、その言い方が正しかったのか。《十代がいなくなる》以上に悪い想像なんてひとつもなかったのだから。
 それが、なぜ、こんな結果になったのか。
「きおく、そうしつ?」
「ええ。専門家に検査してもらわないとなんとも言えないけれど…… 今の十代くんは、ここ十年のことを、一切憶えていないようなの」
 十代は、今、17歳だった。学年でいうと普通の学校なら高校三年生になる。翔たちと共に、このアカデミアで過ごしてきて三年目になる。
 それが、十年間の記憶を、失っているという。
 集まった十代の仲間たちを前に、鮎川は、まずは事務的な連絡を先にすることの決めたらしい。淡々とした口調で言いながら、カルテをめくった。
「十代くんは、自分が今7歳になったところだと言っていました。アカデミアへと通っていたということも憶えていないし、それに、自分がなぜここにいるのかも理解をしていない。それに、ここへきて出会った人のことを、ひとつもおぼえていないわ」
 そんな、と誰かが言った。それきり沈黙が重く落ちた。
 翔はぼうぜんと椅子に座ったまま、何を言っていいのか分からない。思い出した。十代が眼を覚ました、と聞いて、医務室へ行ったときのこと。
 おびえた眼でこっちを見られた。身体を硬くしてこちらを見上げる眼は、知らない人を見る眼だった。違う、もっと悪い。あれは、"自分に対して危害を与えるかもしれないひとびと"を見る眼だった。
 あんな眼をした十代など知らない。あんな眼でみられる覚えはない。ボクたちが何をしたっていうの? アニキになにが起こったの。
「原因とかは… 分からないんですか」
 かすれた声を出したのは、ヨハンだった。振り返ると、その表情は動揺をうつしたまま、それでも、なんとか現状を把握しようとしていることがわかる。
 けれど、鮎川は額に手を当てて、「わからないわ」と言った。
「検査の結果に異常はなかったわ。だから器質性のものじゃないのは確かよ。怪我や病気が原因じゃない… 逆行性健忘だとしたら、そう、原因は精神的なショックか、あるいは、ストレスかぐらいしか思いつかないわ」
 ショック。あるいは、ストレス。
 皆は顔を見合わせるしかない。そんなことを言われても、誰も、心当たりなどないのだ。
 気を取り直そうとするように首を横に振って、「ともかく」と鮎川は言った。
「あのままにしておいても仕方がないし、いつまでも医務室に置いておくわけにもいかないわ」
 でも、と、ちらりと翔たちの方をみる。
「何が起こるかわからない現状だと、レッド寮での共同生活はちょっと心配なの。だから、私が独断で、イエロー寮に部屋を取らせてもらいました」
「イエロー? どうして!?」
 翔は思わず声をあげる。けれど、答えたのは鮎川ではない。
 吹雪だった。
「いい判断だと思うね」
「兄さん……」
「どうしてっすか!?」
 いや、と吹雪は軽く肩をすくめる。
「あんまり深い意味は無いよ。ただ、ブルー寮はちょっとばかり騒がしすぎるからね。デュエルができない状態の十代くんをおいておくには良くないだろう」
「デュエルが出来ないって!?」
 驚いたような声を上げたのはヨハンだ。吹雪は「しかたがないよ」と答える。年下を諭す口調だった。
「キミたち、分かるかい。10年前の公式ルール。最年長の僕でも当時は9歳だった。おぼえている? 当時にはどんなカードがあったか、どんな戦術があったか?」
 誰もが顔を見合わせる。憶えてすらいないのだ。当たり前だろう。
「とりあえず、今の十代くんに必要なのは安静です」
 鮎川が、きっぱりと言った。
「お見舞いは別にいいけれど、むやみに頭を混乱させるようなことを言ってはいけないわ。今の状態にいちばん混乱して、不安になっているのは十代くん本人なんですからね。……それに……」
 さすがに、そこから先は言うのがためらわれるのだろう。わずかに言葉を濁らせる。けれども、それは一番大切なこと。言わなければならないこと。
「忘れないでほしいのは、今の十代くんにとっては、あなたたちはみんな、《見知らぬ大人》だってことよ」
 剣山が、あわてて割り込んでくる。
「大人って、オレはアニキよりも年下ドン! センパイたちだってせいぜい同い年……」
「そこが違うのよ。今の十代くんは子どもと同じよ。それも、見知らぬ環境にひとりぼっちで放り込まれた、七歳の迷子と同じなのよ」
 そう思うとね、と鮎川はため息をついた。
「混乱して泣き喚かれなかっただけまだいいくらいだわ…… とにかく、専門家を呼び寄せるのを待たないとね」




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