禁煙のすすめ







 ふとした瞬間に落ち着かなくポケットを探っていることに気が付いて、一番みっともない気分になるのは自分自身だ。そうさえない顔ばかりしていたから気を利かせてくれたのかもしれない。小学生の息子がもってきてくれたのは、瀟洒な洋モクの箱に入ったチョコレートだった。
 所在無げに細巻のチョコレートを咥えていると、横を通りかかったアルバイトがにやりと笑った。
 「店長、いいもの喫ってますね」
 「あ、ああ? ……ああ」
 やっぱり冴えない返事を返す私に少しだけ笑って、アルバイトは脇にかかえていた本の束を机の上に下ろした。もとより机の上は古い本でいっぱいだ。さすがにいつまでも呆けているわけには行かず、私はがりがりと頭をかいて万年筆に手を伸ばす。
 「今日気づいたんですけど、だんだんこの店の匂いが変わっていってるんですよ。ヤニ臭くなくなりました」
 「ああ……」
 「なんつったって紙だらけの場所で煙草ってのはよくなかったですしね。僕、どれだけひやっとさせられたことか」
 反論しようにも、私の眼下には煙草の焼け焦げだらけの机の上板があるのだ。なにも言えるはずが無い。居心地の悪い生返事しかかえせないでいる私をふり返って、アルバイトは小さく笑った。
 「ところで店長、それ、最後の一本ですよね?」
 「んあ? ああ、そうみたいだな」
 最後の一本というのは、息子が私にくれたシガレットチョコレートのことだ。中身はたかがチョコとはいえ、口寂しさを紛らわせる役にはそれなりにたっていたわけだから、なくなってしまうとそれなりに辛い。
 アルバイトの言葉で急にチョコレートを補充したくなった私だったが、どこに売っているかなんて皆目検討がつきそうになかった。息子の出入りしているような駄菓子屋なら売っているのだろうか。
 思案している私をしばらく見ていたが、アルバイトはやがて背を向けて本棚のほうに向き直る。と、ほんの一拍も立たないうちに、アルバイトはまた急に振り返った。
 「そうだ、店長! 煙草じゃなくてパイプに手を出してみるってのはどうでしょう?」
 ようやく手元の目録に集中しかけていたはずなのに、私の意識はまた煙草の話に引き戻される。
 「パイプ……だって?」
 「そうです」
とアルバイトは胸をそらせた。
 「実は僕の爺ちゃん、有名なパイプ屋なんです。それも普通に刻み煙草を詰めたりするパイプじゃなくて、特別なパイプをあつかってる…… 明日にでも爺ちゃんに話して、店長にちょうどいいパイプを選んでもらってきますよ。それを咥えていれば、せっかく息子さんからもらったチョコの最後の一本をつかいはたさなくってもすむでしょう?」
 私は唇をひん曲げて、煙草の箱に残ったチョコレートの最後の一つを見る。さっきからいつまでも箱のなかに残しっぱなしにしていたのは、幼い息子の好意をつかいきってしまうのがどうしてももったいない気がしていたからだ。
 そんなところまで読まれていたなんて、と、私はもう苦笑するしかない。けせない微苦笑を立てた本の影に隠して、私はことさらに無関心げな声を作った。
 「うん、そうだな。よろしくたのむよ」
 まかせてください、とアルバイトが自分の胸を叩く音が聞こえた。

 翌日アルバイトが私にもってきたのは、飴色にみがきこまれた樫の木のパイプだった。
 「店長のことを話したら、爺ちゃんはこれしかないって薦めてくれたんですよ。気に入りました?」
 「ああ、うん……」
 それはパイプという名から想像していたのにたがわない、大仰な代物だった。手に持ち上げると予想していたよりも少しだけ重たい。吸い口は精緻な銀細工で覆われていた。私はパイプをかたわらの本の山の上に下ろした。
 「ありがとう」
 「はい……」
 私がすぐにパイプをくわえることを期待していたらしいアルバイトは、私の動作に露骨にがっかりした顔をする。その表情を隠すように私に背中を向けたアルバイトは、とってつけたような手早さで本棚の整頓を始めた。
 あまりといえばあまりに単純な仕草に笑みをさそわれて、私はあわてて眼鏡をずりあげる。こんなことが知られたら、まるきり仕事にならなくなってしまうだろう。私たちは無言で仕事を再開した。
 万年筆で本の目録をうめていきつつ、私はやはり口寂しさをどうしても抑えられないでいた。
 もともとたいしたヘビースモーカーであったわけではない。禁煙の敵は禁断症状よりもむしろ日々の習慣であるといいたいほどだ。私は机の上に置かれたままだったシガレットチョコレートのほうに、半ば無意識に手を伸ばす。そうして箱に手がふれかけたとき、中身がもう一本しか残っていないということをようやく思い出した。
 ……私はシガレットチョコレートのほうにのびかけた手を強引に方向転換させ、本の山の上からパイプを取った。
 さて、かくしてパイプは目の前にあるわけだが、実は私はパイプとはどうやって扱うものなのかがよくわかっていなかった。どこから葉をいれ、どこから火をつけるのだろうか。いや、そもそも煙草嫌いのあのアルバイトが、ごくごく普通の煙草をつめて吸うようなパイプをよこすはずがなかったのだ。
 考えるのはすぐに面倒くさくなった。もうおしゃぶりの代わり程度の気持ちでもいいだろう。私はあきらめてパイプを咥え、再び目録に目を落とした。
 まるで煙草を吸うようにパイプをふかそうとしたとき、私はその不思議な味わいに驚く。そう、火もつけず、葉も入れないはずのパイプなのに、そのパイプにはたしかに味わいというものがあったのだ。薄荷のにおい、ニッキの匂い。古い和室の移り香のような香りに予想外の満足を覚え、私はゆっくりとパイプを吹かした。
 そうして、私がアルバイトの妙な様子に気づいたのはそのすぐ後だった。
 いつも元気すぎるはずのアルバイトが、本棚に上る足台の上に立ったまま、呆然として私のほうを見ているのだ。何を、と顔をしかめかけた瞬間、ただでさえまん丸に開いていたアルバイトの目と口がますます丸くなった。
 「店長……それ、なんなんですかぁ?」
 「何って……」
 私はパイプを口から離し、いぶかしげにアルバイトに問い返した。すくなくともそうしようとした。だがその瞬間私もアルバイトの驚きの意味に気づいてしまったから、それ以上何もいえなくなってしまったのだ。
 火もつけないのに、葉もつめないはずなのに、香ばしい香りをはこんでくれる不思議なパイプ。その開口部の部分からゆらめきながら上っていく物…… それはただのケムリではなく、なぜか沢山の細かな落ち葉だったのだから。

 「なんでも爺ちゃん、僕のバイト先の……ああっとすいません、店長。店長はあんまり人と喋るのが得意じゃないだろうから、そのパイプを選んだんだって。やっぱり僕の爺ちゃんはすごいですよ」
 はしゃぐアルバイトの声を傍頭部あたりでききながら、私はもう苦笑いをかみころすことはしなかった。なぜなら隠したって全部筒抜け、アルバイトだけでなく店の客にまで私の気持ちは分かってしまうのだから。
 私の飴色のパイプの先からたちのぼるのは、今は赤と金の細かい落ち葉だ。私があきれつつも穏やかな気持ちでいるときは、いつも落ち葉が逆に降る。
嬉しい気持ちのときは桜や桃や梅の花びら、ちょっとあせっているときは銀色の糸トンボがパイプの先から飛び出し、哀しい気持ちでいるときはちらちらと細かな雪が降るようになった。無論、すべてパイプからだ。
 そんな妙なパイプがいやなら吸うのをやめておしまいなさい、という御仁もいたのだが、それも最初だけ。
 おかげで私の考えていることが分かりやすくなったと、アルバイトだけでなく妻や息子、友人達までもが喜びだす始末。いまさら私がパイプをやめれば、彼らからの失望と非難が集中することは目に見えている。しかも、それだけじゃない。l
 実は私はこのパイプの素晴らしい喫い口、喫い心地が癖になってしまったらしいのだ。お陰でどこにいくのにもパイプは手放せず、今までの人生で一度も聞いたことも無い「わかりやすい人だね」という言葉を月に3回もきくことになってしまった。
「煙草、やめられたみたいで、よかったですねえ」
 のんきなことを言うアルバイトの声を聞きながら、私は「やれやれ」と一人ごちた。煙草をやめられたのはいいけれど、今度はパイプを手放せない。しかもそのパイプはどこの誰にでも気持ちを見せてしまう不思議なパイプと来て、本当に禁煙に成功したと言っていいとでも思っているのだろうか? 私が苦笑すると、パイプの先から紅と金の落ち葉がはらはらと舞い上る。もうすぐ秋だな、と私はいまさら気が付いた。
 秋になったら息子に駄菓子屋にでも案内してもらうことにするか。前のと同じシガレットチョコレートの一つでも買い込んで、一つ煙草の禁煙でなやんでいた時期のことでも懐かしむこととしよう。

 禁煙という物は本当に難しい。



 


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