黒ヶ淵






 ざざ、と梢を騒がせて風が渡る。病葉が散る。散り落ちる先は淵である。夜の淵は盲のように昏い。鬼の娘は火のような目で淵を見下ろす。

<この闇の中に、ある>
<母さんの首飾りがある>
<母さんは言った。首飾りは蛍のように光り、惑わし火のようにゆらめくと>
<それでも引き上げて見せる>
<あたしが、引き上げてみせる。母さんの首飾りを、きっと>

 娘の思惟も知らぬげに、再び風が吹き、夏の梢から葉を散らした。粉を吹いて白い葉が、深さも知れぬ夜闇に吸い込まれていく。
 それは冷夏であった。梅雨の長雨は老人の病のように長く、ときおり霙すら混じらせてじくじくと続いた。苗は黄色いままに立ち枯れ、森の枝葉もどこか病めいて白んだ葉をだしたばかり。麦の穂には実が入らず、弱った鳥がぼたぼたと地に落ちた。
 娘の母は地霊であった。地が痩せるにつれて弱り、いつまでも長く続く梅雨のうちにその息も細くなった。娘が野を駆けて求めた薬草も、地に潜って探した秘薬も空しかった。そのうえ、糧すら乏しい凶作であったのだ。母はなすすべもなくやつれ果てた。

「あたしは長く生き過ぎたのさ。いい潮時だよ」
 びしゃびしゃと氷雨の降る午後、母は穏やかに言った。娘は絶句した。
「母さん……」
「そんな顔をするものじゃないよ。あんたも長く生きてるんだ。そろそろひとり立ちしてもいい頃合さ」
 とりわけ糧の乏しい数日であった。狩りの獲物も痩せ、たくわえていた木の実のたぐいもとうに尽きている。里から奪おうにも、人間たちはさらに飢えているのだから仕様が無い。娘は木の根を掘り、虫の子を漁った。そうまでして集めた食べ物も、母はほとんど受け付けなかった。飢えているのはむしろ娘であった。母はもう、普通の意味での食物を必要としない体となっていた。
 巌のような母の体。どうしようもなくみつめるしかない娘を、鬼灯のように赤い目がみあげる。優しく、いとおしげな仕草で、母は自らの拳ほどもない頭を撫でた。
「山の事、河の事、術も狩りも、禁忌も掟もすべて教えた。あたしの道具の使い方は全て分かっているはずだね?」
「母さん、そんな……」
 娘が鼻をすすりあげると、母は微笑った。
「泣くんじゃないよ。みっともない。あんたは弱くてやせっぽちだが、これだけ長いこと教えてれば大体のことはおぼえただろうさ。あたしから学ぶべき事は、とっくの昔に学びつくしているはずだろう」
 ああ、だけど。呟く語尾が、迷いを含んで揺れた。娘の、琥珀のような目に火花が散った。
「黒ヶ淵のことなの、母さん?」
「あそこの話は、するんじゃないよ」
「だって!」
 母はゆっくりと目を閉じた。娘は牙をきつくかみ合わせる。
 その淵は山のはずれにある、黒い水をたたえた深い深い淵であった。山のすべてを知っている娘が、足を踏み入れない最後の場所であった。
 危険だというわけではない。禁忌である理由すら母は言わなかった。
「そうだよ、母さん! あたし、黒ヶ淵のことを知らないんだ。母さんが元気になったら、つれていって教えておくれよ。あそこに何があるのか、きっと教えておくれよね」
 必死で肩をゆさぶる娘に、母はうっすらと目で笑んだ。哀れんでいるようでもあった。
「あたしはね、あそこにはもう行かないと誓いを立てているのさ。遠い昔の話だよ」
 地霊は立てた誓いをけして破れない。それほど重い言葉である。
「あたしは…… もう、あんたを縛れない。あんたはもう、自由でいい。あんたを止める事も……できない」
 母の言葉はしだいに途切れ途切れになってゆく。娘の頭にのせていた手のひらが、ずるりとすべった。娘は慌てて両手を添える。
「母さん! もう、もういいよ。少しお休みよ」
「けれど…… お願いだ。あそこには、いかないでおくれ。……この山と森を守って、生涯、静かに……」
 老松の皮のような甲だ。熊よりも鋭い爪だ。それでも、娘にとってはなによりも愛しい母の手である。必死の思いで撫でさすり、少しでも暖めてやろうとする。空いた腕で、娘は少しでも寝藁をよせあつめてやろうとした。と、唐突に、母の手が娘の頬に触れた。
「……嬢や、黒ヶ淵には、……あたしの首飾りが沈めてある」
「えっ?」
「…… あたしが他人から貰った、最初で最後のものさ。とっても奇麗だったねぇ……」
 娘は驚き、思わず手を止める。そのような話は、聞いたことがなかった。
 朱塗りの盆のような目がうっとりと細められる。娘の一度も見たことのない表情であった。淋しく、明るく、憧れるように甘い。朱のように赤い目の奥で、いくつもの火が燃えていた。
「いくつもの夜光珠をつなげてあって…… きらきら、蛍よりも、星よりもきれいに光った。きれいだったけれど、……恐ろしかった。だから、淵に沈めて、忘れた……」
「母さん、母さん!?」
「……ああ、本当に恐ろしかったんだよ。けれど、きれいだったねぇ……」
 半ば寝言のように呟きながら、母の目蓋が降りていく。娘は蒼ざめた。必死で母を呼んだ。小さな両の手で体を擦った。だが、返事は返らなかった。
 やがて、ゆらり、と娘が立ち上がった。
 外を見ると氷雨が葉を打っている。暗い、寒い空が広がっている。娘はふと、ためらうように振り返った。本当に刹那のことであった。
 ぱしゃぱしゃ、とはかない足音をたてて、娘は森へと飛び出していった。そして洞の暗がりに、あとは葉末を打つ雨音だけが残った。




 このままでは母は死ぬだろう、と娘は思う。そして、行かなければいけない、とも思う。
 黒ヶ淵の中に行き、沈んだ首飾りを引き上げなければならない。そうして、母に見せてやるのだ。
 蛍のようにひかり、星よりも美しい。どんなものなのか、娘は知らない。最後に母が見せた表情は、長い年月の間にすら、娘の見たことのないものであった。
 首飾りを見せてやれば、母はきっと喜ぶ。もしかしたら元気になってくれるかもしれない。そう思って娘は駆けた。
 山野を駆け、尾根を過ぎ、岩原を超えた森の外れに淵はあった。藤蔦を伝い、梢を渡って飛び来た娘は、やがて、水の表に伸べられた枝に降り立った。
 娘は黒髪をなびかせ、睨むようにして水面を見下ろす。双眸は爛々と燃えるようである。華奢であっても小柄であっても、娘はたしかに地霊であった。恐れて鳥も鳴かず、魚も深く潜ってしまったらしい。深山はしんと静まり返り、天は墨を流したように激しく揺らぐ。
 老いた木々に囲まれ、水は黒々と深い。淵はよどみのように暗いばかりで、硝子のような、蛍のような光など見当たらない。

<もしや、沈んでしまったのか>

 母は恐ろしく長く生きている。首飾りが水に投げ込まれたというのも、あるいははるか昔であるかもしれない。元のままの姿をしているという保障も無い。―――そこまで考え、気弱な考えを慌てて振り捨てた。
<母さんが驚くほどの首飾りだ。たかが数十、数百年程度で光が失せてしまうはずがない。水底の泥に沈んでいるだけだ。きっと>
 娘が身をかがめると、枝がしなった。深く枝をしならせて、そのままの勢いで中に飛ぶ。次の瞬間、水面を砕き、娘は一息に水に潜った。
 百万の真珠となって、泡が総身に輝いた。
 絡みつく黒髪のはざま、琥珀の瞳にうつるものはただの闇であるばかり。腕で掻いても、足で蹴っても、闇そのもののような水のほかに触れる物はない。―――水底にも触れぬうちに息が切れ、娘は大量の息を吐きながら浮上した。頭だけが水面に出ると同時、肺一杯の空気を吸い込む。それだけで再び水中に没する。
 恐怖が肝をひたす。光るものは無いか。果てる事の無い闇に、娘は必死で琥珀玉の目を見張る。母様の首飾り。きっとあるはずなのだ。この真っ黒い水のなかに、冷たい闇のどこかに、どこかに。
 浮かび上がっては没し、肺腑を圧するほどに深く深く潜ろうとする。繰り返すうちに幾度も水を飲んだ。心の臓は狂ったように激しく打ち、脳髄は針を打たれたようにキリキリと痛む。上も下も分からなくなる。
 真っ黒い闇に真珠の泡だけが乱舞する。舞いちる泡を身に纏い、娘は何度も水にもぐった。何度でももぐった。
 何度かもうわからない潜水の途中、ごぼり、と唇から泡が洩れた。反射的に開いた口から大量の水が喉に流れこむ。苦しがって掻いた腕が泡を見出し、無数の真珠をちらしたように乱舞させる。溺れてしまう! 
 娘は必死で水を掻いた。掻いたが、もう潜っているのか浮かび上がっているのかも分からない。
 娘は黒い水のなかにぽっかりと取り残されていた。手足は冷え切って重く、耳にはキンと重い音だけが満ちている。光るものは無い。探しものは見えない。
 母さんの、と娘は思う。
 母さんの、首飾り。
 母さんの、宝物。
 今日聞いたから、ここまでやってきたわけじゃない。本当はずっと知っていた。母さんが、この淵に大切なものを沈めたということは。
 取り戻したいと何度も思っていた。けれど、母さんはそうはしなかった。あたしがいたからだ。それでも、母さんは忘れる事ができなかった。
 きっと、ただ奇麗なだけの宝石であるわけがない。光るものなら、葉末に宿る朝露ほど光るものはないはずだ。美しさなら、秋の梢に絡む盲葡萄のほうがずっと鮮やかなはずだ。あの母さんが、強い母さんが、哀しいほど、愛しいほど思っていた宝物。一体それは。本当の意味は。
 娘はぼんやりと瞳を開いた。琥珀の瞳にうつって、水面の揺らめきが光った。その目が、一連ねの光を見た。

<光……?>

 光の粒を綴ったような、それは一連ねの光だった。
 橙とも金ともつかぬ柔らかな色彩。揺らめく黄金。ほどけかけた真珠の首飾りのように、珠を散らしそうにゆらめく光が、見える。琥珀珠の目が見開かれ、すぐに柔らかな笑みにほそめられた。
 あれが、母さんの首飾り。
 娘は指を伸ばした。首飾りをつかもうと。

 その指が、水面を割った。

 唐突に空気中に躍り出る。デタラメに振り回した腕が倒木にあたり、娘は夢中でしがみついた。黒い水を嘔吐する。土臭い空気が肺を満たす。苦しさにむせ返りながらも、娘の目は頭上に釘付けになっていた。
 かたんかたん、と規則正しい振動が森に響く。綴った光が――― 窓の明かりが行く。夜汽車。水面に窓の明かりを落としながら、夜汽車が暗い森を走っていた。
 汽車はまもなく行き過ぎた。沈黙と闇が淵に戻る。娘は呆然と見送った。暗い淵に半身をひたしたまま、魅入られたように、汽車の行く先をみつめつづけていた。


 やがて。そして。
「母さん……」
 ひたり、と濡れた足音が洞に響いた。返事は無い。光る琥珀玉の目で、娘は洞の奥にうずくまる鉱石の塊を見た。
 地霊は死すれば石と化す。強靭な四肢は四肢の形のまま、石を削ったような貌は眠るような表情のまま。巌のような体躯をそのままに、母は洞の岩と化していた。
 娘は石と化した母に近づき、ぬれた指で触れた。ゆっくりと膝を折りたたみ、娘は母の前にうずくまった。
「……ねえ、母さん。あたし、母さんの首飾りを見つけられなかったよ」
 娘はまつげを伏せる。長いまつげのしたで、琥珀玉の目が光った。
「でも、ねえ、母さん。あたし、母さんがどうして首飾りを淵に沈めたのか、分かった気がするの。……人間から、貰った物だったんじゃないの?」

 人間。

 娘の手足は細い。100年生きた樫のようだった、母の四肢とはくらべるべくもない。小さな体。小さな手。蓬髪に埋もれてしまう角。
 それは地霊と、鬼と呼ばれて恐れられる種族のものというよりも、あるいはひ弱なもう一つの種族に似た姿であるのではないだろうか。
 返事は返らない。娘は抱えた膝の上に、そっと顎を乗せた。
 さがしものは、ついに見つからなかった。
 けれど、と娘は思う。けれどある意味において、あたしは確かに探していた物をみつけたのではないだろうか。
 母がなぜ首飾りを捨てたのか。
 母がなぜ黒ヶ淵を忘れようとしたのか。
 なぜ長い時の間、一度だって娘に山の外の話をしようとしなかったのか。
 人間に似ているということを教えてくれなかったのか。
 その理由の、すべてを。
 人間という生き物のことを。
 娘は長い間、膝を抱えて考え続けていた。日が昇ってまた下り、一度白んだ空が再び闇に満たされた。
 そうして、娘はようやく立ち上がった。躊躇いながら一歩踏み出した。踏み出せば、もう足を止めなかった。
 洞を出ると夜だった。風が吹き、病葉が散った。森は病んで、弱っている。動物達すらどこにいるのか分からない。空は薄墨を流したようで、一秒すら同じ形をしていなかった。
<黒ヶ淵の傍らに線路がある。線路をたどっていけば、人間の街にたどりつく>
 娘は最後にふりかえった。岩をむき出しにした洞の中で、母だった岩は満足に見分けをつけることすらできなかった。
 ちいさな牙で唇を噛んで、娘は再び歩き出した。ざわざわとゆれる森の影の中に、その影は消えていった。


 そうして洞は沈黙し、それから長い間、静けさだけがそこに残されていた。



 


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