冬の白い花
「ねえ、お兄ちゃん、冬に咲く花って何?」
居間のこたつでノートに向かい合っていて、ふと、傍らでゲームをやっている兄に問いかける。外は冬特有の清澄な明るさに満ちている。こたつから見える窓ガラスに露がついていた。
庭にはさざんかが咲いていて、赤い花をほろほろと散らせていた。だから、ノートには、「さざんか」と名前が書いてある。だが、次が続かない。冬に咲く花なんて、いっこうに思いつかないのだ。
「なんだよ」
「宿題なの。冬に咲く花をこたえなさい、って」
新年になって、はじまったばかりの授業の宿題だが、あいにく、さっぱり答えが思いつかない。図鑑で調べればいいところなのだろうが、先に、兄に問いかけたほうがずっとはやい。何しろ兄は物知りだ。そう思って、問いかけたのだが、どうやら魂胆を見抜かれていたらしい。
「辞書で調べろ」と兄はにべも無い。
「だってー」
「調べないと宿題にならないだろ」
「だってー」
「だってー」
「真似しないでよーう」
わざとらしく真似をしてくる意地悪な兄に、弟は思わず頬をふくらませる。仕方ない、とあたたかいコタツから這い出した。すると、冷気が肌にこたえて、思わずぶるりと身震いをする。すると、兄が、唐突に言い出した。
「ヒイラギ、茶の花、ツワブキ、サルビア」
「えっ!?」
兄はこっちを見もしない。携帯ゲーム機の画面に目をおとしたまま、淡々と続ける。慌てて弟はコタツに戻った。シャーペンを拾い上げて書き付ける。
二度は言わない、というのは言われなくても分かっている。言われれば思い出す。ヒイラギの小さく芳しい花、茶の白い花、ツワブキの黄色い花、サルビアの赤い花。けれど、ずっと言っているうちに、次第に、雰囲気が怪しくなってきた。
「クリスマスローズ、シクラメン、ヒアシンス、シモバシラ」
「霜柱って花!?」
「そういうのがあるんだよ」
文句言うな、ときっぱりと断言して、ついで、兄は、「ユキノハナ」と言った。
ユキノハナ、と急いでノートに書き付けて、それから、「ユキノハナ?」と問いかける。兄は、「雪の元」と言った。
「今年はずいぶん咲いてるみたいだな」
「……えぇ?」
どうやら、『そういう花がある』ということではないらしいと悟って、弟は今度こそぎょっとした。兄のほうを振り返る。
まじまじと見つめる弟に気付いて、「なんだよ」と面倒くさそうに言う。
「……お兄ちゃん、それ、ほんとう?」
「じゃあ、なんで雪が降ると思ってるんだよ」
今度こそ、弟はあんぐりと口を開けた。いったい、何を言い出すのだ?
「だ、だって、お兄ちゃん、雪って雨が凍ったものじゃないの?」
「雨は雨。雪は雪。違うもんだろ」
雪は冬になると咲いて、散るだよ、と兄は言った。
「冬になると空が白っぽくなるだろ。あれは上でユキノハナが咲いてるんだ。あれが散ると、雪になる」
「……嘘だあ」
小声で言った瞬間、睨まれた。弟はおもわず身をすくませる。兄は、いつものようにじろりと弟を睨むと、ゲーム機の電源を落とし、立ち上がった。
「ど、どこいくの、お兄ちゃん!?」
弟は思わず腰を浮かせる。兄は、ソファにひっかけてあったジャケットを着込み、マフラーを巻いた。そうして、弟を一瞥すると、「なら、見せてやるよ」と言い放った。
兄はそのまま居間のドアを開けて出て行く。弟は一瞬呆然として、それから、慌てて追いかけた。ドアの隙間から、マフラーの端が一瞬見えて、すぐに閉まった。すぐにドアを開ける。冷たい風が正面から吹きつけて、やわらかい前髪を吹き上げる。
玄関にはほろほろと赤くサザンカが散っている。冷たい風に身をすくませた。ドアにつかまって家の前を見る。けれど、コンクリートの車道には、誰の姿も無かった。弟は、ただ、目を丸くした。
その日の夜はキムチ鍋だった。
母親の手伝いをして土鍋を出していると、ただいまとも言わずに兄が帰ってくる。「あら、どこ行ってたの」と母親が問いかけても、「ん」と短くこたえるだけだった。
「母さん、これ、お土産」
言って、コタツの上に、新聞紙で包んだ何かを放り出す。それは、泡のようにちいさな花を無数につけた、豊かな白い花枝だ。
弟は目を丸くした。桜にも、ひいらぎにも似ていた。細かな花だけが、鋼色の細い枝に無数に付いている。思わず駆け寄って触れてみる。けれど、冷たいわけでもない。ただの花だ。かすかに冬の匂いがした。
「これが、ユキノハナ?」
「ああ」
「冷たくないよ」
「散ったら、雪になるんだ」
そんなことも分からないのか、とでも言いたげな口調で言われて、弟は黙った。
母親は台所から、のんびりと声をかけてくる。
「花瓶が玄関の棚にあるでしょう。挿しておいたら?」
「うん」
こたえながらジャンパーを脱ぎ、マフラーを解く。そうして、一抱えの花を持って、部屋を出て行く。弟は信じられない思いでそれを見送る。……ふと振り返ると、コタツの上に、ちいさな花びらがいくつか散っている。
指で触れると、ひやりと冷たかった。一瞬だった。すぐに透き通って水になり、見えなくなった。
弟は、信じられない思いで、出て行った兄の後を見た。
「あら、雪だわ」
母が言う。窓の外を見る。見ると、黒い夜に、ちらちらと、風花が舞っていた。
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