パンの祈り




 私はこの世を去るだろう。けれど、この身体に、天の栄光の僅かを残していく。
 私は、この世で最も無垢なもの、欲のないものに、祝福を与えるだろう。


 聖者はそう言い残し、死んだ。信徒たちは色めきたった。祝福を、祝福を。
 聖者は歩いて水の上を歩き、水桶の水をぶどう酒へと変えた。病んだものを癒し、死んだ少女をよみがえらせた。その呪いはいちじくの木を枯らし、人の目から光を奪った。聖者に出来ないことなどあるだろうか? もっとも無垢なる者に祝福を! ならば、もっとも無垢なる者を、手に入れねばなるまい。
 無垢なる者、それは、汚れたものから生まれてはならない。
 それは処女でなければならなかった。選び抜かれた清純なおとめが、同じく、聖なる意思に満たされた信徒たちと、仰々しく交わった。一度きりの交合で、懐妊しなかったものは取り除かれた。彼女はすでにおとめではない。純潔を持たぬものから、どうして天の栄光にふさわしいものが生まれるだろう?
 さてして生まれた赤子は、選び抜かれたもので育てられた。母親の乳と、聖別されたパン、そして、ぶどう酒。けっして肉を与えてはいけない。それは汚れたものだから。何ものかの命を奪って生きてはならない。血を流すことなく、命を奪うことなく、糧を持って生きなければならない。清い乳で身体を洗い、オリーブの油で膚を磨けばいい。子羊のように清く、聖なるものへ。子どもたちはそうして育てられた。
 幼い子どもたちは、冷たい石の祭壇にひざまずいて祈る。神様、天の父様、どうか祝福がありますように。私たちの魂が試されず、試されるそのときには、きっと強いものでありますように。
 子どもたちの一人は、神殿から取り除かれた。―――その子が、自分の飲む乳に入った蝿を、殺したからだ。
 子どもたちの別の一人は、神殿から取り除かれた。―――その子が、自らのパンを分けるとき、大きいほうを自分のために残したからだ。
 子どもたちのさらに一人は、神殿から取り除かれた。―――その子が口にしたからだ。どうしてぼくたちは外に行ってはいけないの? こんな狭い世界、ぼくは嫌だ。
 罪と呼ばれるもの。七つの大罪。傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。
 子どもたちはそれのいずれも犯してはならなかった。柔和で清く、神に愛される、無垢なものでなければならなかった。
 子どもたちは人々に仕えた。その魂が怠惰になることなく、勤勉に働き、また、選ばれしものであるという傲慢に陥らぬように。けっして自らのものを持ってはいけない。子どもたちは何もかもを分け合い、それを幸福と思わねばならなかった。お互いに嫉妬してはいけなかった。憤怒は罰せられなければならなかった。ほんのわずかな糧で満足せねばならなかった。ましてや、色欲を知るはずが無かった。子どもたちは幼いうちに母と分けられ、長い衣で膚を覆った信徒たち以外には知らぬに育ったからだ。
 与えられるものは天の言葉。神の教え。慈悲深い神が降臨し、罪深い人の魂を救ってくださる。そして、子どもたちはそのためにささげられる犠牲の子羊。悦ばなければならない。お前たちの生と死は、神によって祝福されたものなのだから。
 石造りの庭園には香草が茂り、深い茨の茂みが外と中とを隔てる。外の世界には罪深い者たちが満ち溢れている。子どもたちは別けられなければならない。決して罪に触れぬよう、汚れなき純白であるように。いずれ訪れる日、もっとも無垢なものとして祝福されて、神の栄光をこの世界へとささげるために。
 信徒たちは鞭を片手に言う。祈りなさい! すべての神の子のために。この世界がいつか赦され、すべての人々に幸福が与えられる日のために。
 何かを欲してはならない。それは、欲の始まりだから。無垢でなければならない。与えられるもので満たされて、幸福であらねばならない。そしてお前たちは最も清いものとして育つのだ。いつか全地に満てる日のために。 
 ―――聖者の身体は、神殿の奥に安置されている。
 祈るたびに子どもたちは見上げる。黒く干からびたその遺体を。長き業病のために歪み衰えた肢体は、すべての人の罪をその身に得たため。尊い聖痕なのだ。願わくば我々にも聖なる痛みの与えられんことを。子どもたちは、祈りながら鞭で打たれた。
 子どもたちは、母を知らなかった。子どもたちは、父を知らなかった。深夜、人々の眠りに落ちた後、子どもたちはひっそりと月影に話し合った。はたして母とは何なのか、父とは何なのか。自分たちはどうやって生まれてきたのだろう? そもそも、罪とはどのようなものなのだろう?
 ぼくたちは罪などとはかけはなれた存在だから、罪についてなど、知らなくてもいいのさ! ひとりの子どもが得意げに言った。
 ぼくたちは天の子、だから、ぼくたちの父様はあのお方。それでいいんじゃないのかな? ひとりの子どもは不安げに言った。
 ぼくたちはこれからどうなるんだろう? 子どもたちの誰かが問うた。
 他の子どもたち、みんなが答えた。ぼくたちは清い子、神の子羊。いつか無垢なものとして神にささげられて、この全地に平安をもたらすのさ!
 
 ほんとうに、そうだろうか?

 子どもたちは、ひとり、またひとりと数を減らした。ひとりの罪は強欲だった。ひとりの罪は傲慢だった。ひとりの罪は怠惰だった。
 そして、最期に残ったのは、いつか、問いかけた子どもだった。
 ぼくたちこれからどうなるんだろう? 子どもはいまだに分からなかった。
 聖者はいまだに降臨しない。その身体に残るという、神の力は顕れない。子どもは祈る。鞭打たれながら祈る。聖別されたパンと、そして、ぶどう酒しか口にしないから、その身体は枝のようにかぼそい。満足に歩くこともままならぬ足で、冷たい石の床にひざまずき、子どもは祈る。祈りながら思う。
 ぼく、これからどうなるんだろう?
 鞭打たれることは辛くない。もう、ずっとそうだったから。何度も破れ、治っては血を流した皮膚は、痛みを感じることもない。
 石の床にひざまずくことは辛くない。か細い足は冷たさに慣れて、あかぎれが出来ても何も思わない。
 聖別されたパンと、ぶどう酒だけの糧も辛くない。幼い頃からずっとそう。ほかのものが与えられることは少なくて、子どもたちの強欲と暴食を戒めるために、他の人々の味わうようなものを与えられることすらなかったから。
 けれど、ひとつだけ、祈ることが辛い。祈りは繰り返す問いかけ。果ての無い、答えの無い、問い。
 神様、いなくなったみんなは、どうなったんですか? 神様、世界を救ってください。
 神様、ぼくはどこからうまれたんですか? 神様、世界を救ってください。
 神様、ぼくこれからどうなるんですか? 神様、世界を救ってください。
 ―――聖者の身体は、黒々と渇きくぼんだ眼窩で、子どもを見下ろすだけだった。
 信徒たちはしだいにあせりだした。最期に残った子どもは、まちがいなく無垢な子。なのに、聖者は現れない。奇跡は顕れない。何がたりないのだろう? この子にも、もしや、秘められた罪があるのだろうか?
 手があるならば、盗みの罪を犯すかもしれない。信徒たちは、子どもの手を切った。
 目があれば、罪深いものを見るかもしれない。信徒たちは子どもの目をえぐった。
 耳があれば、罪深い言葉を聴くかもしれない。信徒たちは子どもの耳を切った。
 舌があれば、舌の快楽に堕落するかもしれない。信徒たちは子どもの舌を切った。
 それでも奇跡は、顕れなかった。
 何も見えぬ、何も聞こえぬ、何にも触れられぬ闇の中、子どもは思った。思い続けた。
 ぼく、これからどうなるんだろう? 神様、世界を救ってください。
 冷たい石の床にひざまずくための足、痩せた膝、それだけが子どもに残った。子どもは冷たい神殿にひざまずき、死んだ聖者に祈り続けた。祈りは問いかけだった。子どもは問いかけ続けた。
 ぼく、これからどうするんだろう? 神様、世界を救ってください。
 ぼく、これから…… 





 そして長い長い時が過ぎて、あるとき、子どもは額にあたたかさを感じた。
 子どもは何も見えない目をそちらへ向けた。誰かがそこに立っていた。子どもだった。みすぼらしい、損なわれた、何も持たぬ子どもだった。
 子どもは女の子だった。長い髪はよじれもつれて古いロープのようだ。やせこけた顔は、頭蓋骨に皮を張ったようだ。そして子どもには足がなかった。子どもは粗末な義足で歩いた。
 まるでぼくにそっくりだ、と子どもは思った。
 女の子は言った――― 何をしているの?
 子どもは舌の無い口で答えた――― 祈っているんだ。
 女の子は問うた――― 何を祈っているの?
 子どもは声ではない声で答えた ―――全地に神様の慈悲が満てるように。
 聖者さまは、無垢なもの、欲の無いものに、力を下さる。奇跡を起こしてくださる。そうして、この全地に神の栄光が満てるように、ぼくはずっと祈っているんだ。
 女の子は、不思議そうに答えた。―――そんな願い、かなうわけが無いわ。

 だって、この世界のすべてを救うだなんて、そんな強欲な願いを持ったものが、『無垢で無欲なもの』なわけがないもの。

 ああ、そうか、と子どもは思った。
 女の子は手を差し伸べた。―――何かちょうだい。おなかがすいているの。
 子どもは答えた。―――ぼくは何も持っていない。けれど、神様が願いをかなえてくださるかもしれない。
 そうして子どもは初めて祈った。神様、パンをください。この子のお腹を満たすための、パンをください。
 そして、とさり、と音がして、地面にパンが落ちた。
 子どもが食べてきたのと同じ、聖別された、何も入っていないパンだった。大きなパンだった。女の子はよろこんでパンを拾った。これで今晩、わたしと弟と妹、それにお母さんが、お腹を満たせる。
 女の子が去ると、そこには誰もいなかった。崩れ落ちた、大昔の神殿の廃墟が残っているだけだった。
 聖者の屍骸はとうに無い。神殿は滅び、信徒たちは散り、無論、子どももそこにはいない。
 子どもはもう、といかけない。とうに身体も朽ち果てて、意識は風に散り果てた。もはや声も答えなかった。そこにはもう、誰もいない。無垢で無欲なものなど、どこにもいない。
 ならば、誰がパンを出したのか? どうして奇跡は起こったのか?
 女の子は、問いかけなかった。ただよろこびながら、パンをもち、かつての神殿を去っていった。




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