夜のブランコ



 さいきん、真夜中の公園で誰も乗っていないブランコがゆれている、あれはきっと幽霊だという噂を何年も前から聞く。実際に視たという人間は少ない。
 ―――ほんの僅かな、人々のほかには。


 薄ら寒い夜の公園で、もう葉桜になりかけた八重桜が、薄桃色のはなびらを散らしている。瀟洒だが、どことなく安手のつくりの街灯。照らし出される花びらの下で、ブランコがゆれている。座っているのはどうやらちいさな子どもだった。
 水島祐樹は足を止める。手に提げたビニール袋の中で、買ってきた雑誌と、夕食に食べるつもりの厚揚げが鳴った。
 子どもが祐樹に気付く。こちらを振り返って少し笑う。
「こんばんは」
 いくつくらいだろう。祐樹はあまり子どもになじみが無い。小学生だということは分かるけれども、10か、それより下か、それとも―――
「……こんな時間に、どうしたの?」
 問いかける祐樹に、子どもはふわりとあいまいに笑う。
「さあ…… 人を待っているんです。たいくつだから、すこし、話をしてくれませんか?」
 子どものほの白い顔が、やわらかく微笑む。面差しがよく分からなかった。何をしているんだろう。こんな時間に。……思いはとりとめもなくめぐる。花びらが、街灯の明かりにちらちらと散る。祐樹はためらいながら、公園の入り口をくぐった。


 傍らのブランコにこしかけた祐樹に、少年は、微笑みかけた。そして指を差す。花を散らす樹のほうへと。
「何年か前、あの樹のこずえに縄をかけて、ひとりの男が死んだんです」
「……たしかそんな話もあったね」
「ええ。とても不幸な人だった。仕事を失って、家族にも去られ、失意の中で心を病んで酒におぼれた。この公園へやってきた夜も、彼は、ひどく酔っていました。こんなきれいな季節じゃなかった。あれは寒い、ひどく寒い、かすかに雪が降るような季節でした」
 子どもはまるで思い出しながらのように、ぽつり、ぽつり、と語る。
「そして彼は、このブランコに座った」
 そっと手がブランコの板を撫で、鎖に触れた。白い、闇の中に浮かび上がるような白い指先だ。祐樹はじっと耳を傾ける。
「彼は、ポケットに縄をもっていました。すでに死ぬつもりだったのでしょう。手に握られた分厚いガラスのカップ酒だけが、彼にとっての最後の晩餐でした。でも、彼はそんなものをちっとも美味しいとは思っていなかった。ずっと昔から、もう、お酒を美味しいものだと思うことは無くなっていたんです。彼にとってお酒は、漂流する大洋の中で口にする苦い海水でした。飲まなければ死んでしまう。けれど、飲むことはまた緩慢に死を引き寄せていく。
 ―――けれど、そんな一杯すら、震える彼の手からはこぼれおちました。彼はとても怖がっていた。死ぬのが怖かったんです。飲んだ酒はすぐに吐いてしまいました。体が受け付けなくなっていたんです。みすぼらしいコートを着た彼は、四つんばいになったまま、嗚咽して泣いていました。涙が、甘ったるい香りを放つ反吐の上に、ぽたぽたと落ちました」
 寒い日でした、と子どもは言う。祐樹は問いかける。
「君のほかに誰か、彼を見なかったの?」
「さあ…… 誰か公園の傍らを通り過ぎたような気もしましたけれど、みんな急いでいたから、誰も彼のことなんて見てはいませんでした。それに、たちの悪い酔漢などに関わりあいたくないという気持ちの人も多かったのでしょうね」
 そしてぼくも、と子どもは言った。
「彼はやがて、公園の片隅から木箱を持ってきて、縄を枝にむすびつけました。彼の汚れた頬に、伸びた無精ひげに、涙が流れていました。彼はまるでちいさな子どものように怯えていたんです。これから自分がぶら下がろうとしているブランコの恐ろしさに。でも、声を殺して泣きながら、彼は、そのブランコへと乗ることをやめようとしなかったのです」
 男がためらっているうちに、雪が降り出しました、と子どもは言った。
「そう、丁度今日、こんな風に花が散るように…… 細かな、さらさらとした雪が、降り始めました」
「それは、もしかして、大晦日の夜では無かった?」
 祐樹が問いかけると、子どもは、すこし困ったように、微笑して首をかしげた。
「ぼくには、日付とか、季節とかは、あまり関係ないから……」
 続けてもいいですか、と子どもは言う。祐樹はうなずく。子どもが軽く足を蹴ると、キイ、とブランコの鎖が軋んだ。
「男はしばらく雪に見とれていました。雪は男の頬や指を冷やし、吐き出す息を白くした。やがて、決心したように目を閉じると、男は、首に縄をかけたまま、力いっぱい台にしていた箱を蹴り飛ばしました」
 男の身体は、ぶらりと枝にぶら下がりました、と子どもは言った。
 しばらく男の身体はもがいているように見えたけれど、やがて、しずかになった。それでも身体はしばらく大きく揺れ続けていた。

「まるでブランコをするように…… その姿はまるでぼくと同じだった。毎夜毎夜、誰にも気付かれずに、ずっとブランコをこいでいるぼくに。だからぼくは聞いてみたんです。あなたは、あなたの人生を、無かったほうがいいものだと思っているのですか、って」

 そうして、子どもは、男の人生を『視た』。
 家を失って寝泊りをしている安い下宿、そこの日焼けした畳と、散乱したビールの缶。求人雑誌のページに乱雑に引かれた赤い線。その本もすでに省みられなくなって久しく、部屋の片隅に転がっている。
 部屋にはもうなにも無い。一枚のもろい毛布、台所のシンクに伏せられたままの家族の写真。それ以外には、もう、何も。
 地を這う虫のような哀しみ。何もかも失ったという絶望。自分は失敗者であるという苦い想い。そして、もう二度と会えない家族への哀しい渇愛。
 ―――ページをめくる。

 妻が、子どもたちを連れて、家を出て行く。
 妻は年を取った…… と彼は思う。出会ったときの、はにかみ屋だが心優しい娘の面影はもう無い。生活といさかいに疲れ果てて、白髪の混じった髪をした女。女は最後に丁寧に頭を下げると、ゆっくりと家を出て行った。彼女が持っているバックは、新婚旅行へと持っていったものと同じだった。
 娘は振り返らなかった。酒びたりの情けない父親に憤っているのだろう。母の手を引く肩はかすかに震えていた。気の強い子だった。哀しんでいないといいのだけれどと取りとめも無く思う。じりじりと照りつける夏の日差し。路上に転がった蝉の屍骸。うつむいたひまわり。
 ―――ページをめくる。

 望んで配属された部署ではなかった。もとより小さな会社で、不況の直撃には耐えようはずもない。次々と契約を切られていく。自分を長い間育ててくれた社長が、あの、磊落だが心厚かった壮年の男が、ちいさな背中をして、スーツの男たちに必死で頭を下げているのを見るのは辛かった。彼はときに部下にあたりちらしもした。酔った社長にコップを投げつけられるのは辛かったが、それよりも、そんな風に変貌してしまった彼が哀しかった。あんなに世話焼きの、あんなに一生懸命だった人だったのに。どこでボタンを掛け違えてしまったのか。
 ―――ページをめくる。

 大学に進学したいと言った彼に、父親が土下座をするように頭を下げた。すまない。うちには金が無いんだと。
 父親に頭を下げられたのは初めてだった。地味な事務員仕事だったけれど、真面目に働いている父親だった。家だと寡黙で何を考えているのか分からない父親だった。それでも頼りにしていた。本当に頼りたいときには、きっと顔を上げてこっちをみてくれる。いざ、というときにはきっと子どものために自分を助けてくれる。そう信じていた。けれど、その期待は微塵に砕かれた。
 母親が台所で皿を洗っている。洗っているはずなのに、さっきから水道の水の音しか聞こえない。母の肩がかすかに震えている。擦り切れた畳を見下ろして、ただ、無言で金襴の縁をにらみつける。
 ―――ページをめくる。

 かーってうれしい、はないちもんめ。まけーてくやしい、はないちもんめ。
 あの子が欲しい、あの子じゃ分からん。その子が欲しい、その子じゃ分からん。
 相談しよう、そうしよう。
 ……ねえ、みんな、終わりじゃないよ。まだぼくがいるよ。ぼくはここだよ。
 ぼくは、ここにいるのに。
 ―――ページをめくる。
 
 ―――ページをめくる。

 ページを……

「彼は、どう言ったの」
 祐樹は、問いかけた。
「死んでしまった男は、人生が無ければよかったと言ったの? 生まれてこなければ良かったと、そう思っていたの?」
 子どもは、祐樹の問いかけに、うつむいた。
 ……首を、横に振った。
「いいえ。……いいえ」

 なぜなら、彼の一生には、たくさんのものがあったから。暖かな、懐かしいものたちが。
 娘が小学校に上がる日、赤いランドセルを背負った背中を見たときの、誇らしい嬉しさ。
 産院のベットに横たわって、疲れた額に汗で髪をはりつけ、けれど、嬉しそうに微笑む妻へのいとしさ。
 青い地味な事務服を着た娘。彼女が髪を解いて、なに、と少しはにかむようにこちらを見る。その表情の愛らしさ。
 ……妻と子だけじゃない。彼は、たくさんの人に、出会ってきた。
 仕事にまだなれないころ、社長が、初めて引いた図面をほめてくれた。同僚たちと酒を飲み、肩を組み、大声で叫びながら夜道を歩いた。
 父がテレビを見ている。母がとなりで笑いながらビールを注ぐから、少しこぼれてしまう。父の横顔もすこし笑っている。七味を入れて温かく煮付けた竹輪の煮物の味。
 千々に砕けて闇に消えていく意識の中の、ちいさな欠片。無数の思い出。とりとめもない、思い出とすら呼べないような、記憶の欠片たち。
 日向に光るビー玉。
 砂糖を入れたぬるい麦茶の味。
 海の砂に沁みていく波。
 ―――誰かの手のぬくもり。

「彼が自ら死んだ次の日、そこに警察や、たくさんの野次馬がやってきました。男のことを何も知らない人が花を供えていました。かわいそうにね、と言ってちいさな孫に手を合わさせている老婆がいました。しばらくたってからたずねてきたのは、中年の女性と、若い娘でした。娘の胸には、男の指に嵌っていた指輪が、鎖に通されてぶらさがっていました」
 ……ぽつりと、子どもは、つぶやいた。
「彼は、ぼくとはぜんぜん違っていた」
 キイ、とブランコが軋んだ。子どもはうつむいていた。ほの白い顔に前髪がかかる。一枚の花弁が、ちらりと落ちた。
「それからぼく、何年もずっと、人をさがした。生まれてこないほうがよかったっていう人を」
 たくさんの人々が、この公園を訪れた。訪れて、子どもの傍らでブランコを漕いだ。
 たくさんの人々が。
 『生まれてこなければ良かった』と思う人々が。
 男から男に渡り歩き、殴られ続け、子どもたちにも憎まれ捨てられた女がいた。
 まだ若者といえる年のときに犯罪を犯し、転がり落ちるような人生の末、覚せい剤に食い殺された男が居た。
 人の心が分からず、回りのすべてを傷つけ、壊し、その果てに己自身にすら見捨てられた少女が居た。
 生まれつき重い障害を負って、生涯、ベットから立てぬまま、言葉すらも知らぬまま、短い人生を閉じた青年がいた。
 親に愛されず、殴られ続け、飢えと衰弱の末、ほんの数年の短い人生を閉じた子どもがいた。
 ……けれど、彼ら、すら。
「みんな、『生まれてこなければ良かった』とは、言わないんだ。ブランコを漕いでると、そのうち、思い出すんです。どんなに哀しい人生でも、辛い人生でも、無かったよりも、あったほうが良かったっていう記憶が」

 捨てられた女には、愛した男が髪を撫でてくれた思い出が。
 罪を犯した男には、仲間たちとくだらないことを言いながら笑いあった記憶が。
 捨てられた少女には、眠れなかった夜明けに見上げた空の美しさが。
 無垢だった青年には、母が食べさせてくれた冷たい桃の缶詰の甘さが。
 愛されなかった子どもには――― 明日、自らを抱きしめてくれる腕の、はかないまぼろしが。

「みんな、最後には、『生まれてこなければ良かった』とは言わないんです。しあわせじゃなかったかもしれないけど、誰もしあわせにしなかった人生かもしれないけど、でも、生まれてこなければ良かったとは、思わないって」
 キイ、とブランコがゆれた。子どもがブランコを降りる。祐樹の前に立つ。その顔が、顔立ちを見分けることの出来ない顔が、祐樹を見上げた。
「あなたは、どうですか?」
 祐樹は両手にブランコの鎖を握ったまま、静かに子どもを見つめる。誰でもない子、名前の無い子、顔すらない子を。
「ぼくを見つけてくれたあなたは…… あなたこそ、『生まれてこなければ良かった』と、思ってくれませんか?」
 誰も押さないブランコが、キイ、と軋んだ。
 キイ、キイ、とブランコがゆれだす。
 祐樹の乗った、ブランコが。
 既に花の終わりかけた葉桜が、なおも、ちらちらと花弁を散らす。
 祐樹はかるい目眩を感じた。手が鎖を掴む。ブランコを止めようとする。けれど、踏みしめようとした足の下には、地面が無かった。
 ゆれる、ブランコが、ゆれる。
 祐樹の目の前に、まぼろしが、廻る回想のように、現れ出てくる。
 必要なこと以外口を利かない父の、会社へと出て行く後姿。
 心を病んだ母の、ごめんね、ごめんね、と泣くかぼそい声。
 クラスメイトたちの奇妙に口をつぐんだ視線と、机にカッターで刻まれた『キチガイ』の文字。
 夜。もう二度と明けないのではないかと思うほどの、暗く、深い夜。
 ひらいた瞳にも、闇しか見えない、真っ黒い夜。
「あなたは、思いませんか?」
 子どもの声が、闇に、響いた。
「『生まれてこなければ良かった』って…… 思いませんか?」
 祐樹は、答えた。

「思わないよ」
 
 ……ブランコの揺れが次第に小さくなり、ゆっくりと、停止していく。
 足元には地面がある。祐樹は顔を上げる。子どもを見た。
 どれだけまっすぐに見つめても、顔の無い子どもだった。
 祐樹はブランコに座ったまま、言った。
「ぼくはね、本が好きなんだ」
 びょお、と風が吹く。花弁が散る。祐樹は鎖を両手で持ったまま、子どもを見上げる。
「物語の中で、きれいな言葉を、まっすぐな言葉を見つけると、嬉しくなるんだ。自分で見たこともない光景や、出会ったことも無い人々を思うことが、大好きなんだ」
 祐樹は思う。乾いた砂のように無味乾燥に、指の間から零れ落ちていく日々の中の、それでも、たしかにいとおしいと思えるものたちを。
 ささいな、ささやかな、微かな、けれど、大切なものたちを。
「ぼくは、真夏の夜中のコンクリートのあたたかさが好きだ。冬のガラスに付く曇りが好きだ。春の初めの空の、薄ぼんやりした水色が好きだ」
 祐樹は、ぎゅっ、と鎖を握り締める。手に伝わってくる、重たい鋳鉄の、冷たくて確かな感触。
 この鉄の冷たさ、硬さのようなものですら、
 生きているからだと思うと、いとおしい。
 祐樹は顔を上げた。まっすぐに、子どもを見詰めた。
「ぼくも同じだよ。しあわせじゃない人生かもしれない。誰にも、ひとつも良いことは出来ないかもしれない。もしかしたら、そのうち、自分から幕を下ろしてしまうような人生かもしれない。でも…… 『無かったことにしたい』とは、思わない」
 祐樹はブランコから立ち上がる。ブランコが揺れ、キイ、とかすかに鎖が鳴った。
 子どもは祐樹を身じろぎもせずに見つめていた。そう分かるのに、けれど、その顔はやはり分からない。
 分からなくても、当たりまえなのだ。
 祐樹は、思わず、手を伸ばしていた。
「ごめん。ぼくの人生は、君には、あげられない」
 
 ごめんね、と祐樹は呟いた。

「……あなたたちは、いつも、ほんとうにずるい」
 さしだした祐樹の手は、何にも触れずに、空を掴むだけだった。
 子どもは、かすかに、笑ったようだった。
「あなたたちの一人でも、代わりに人生をくれたなら、『生まれてこなかった』ぼくでも、人間として死ぬことが出来るのに―――」
 子どもは、しずかに目を閉じる―――
 音も立てず、何一つとして、変わりはしなかった。
 けれど、まばたき一つの間を経て、次に祐樹が見たときには、もう、そこには誰もいなかった。
 ただ、真夜中の薄暗がりに、街灯に照らされて、散り遅れた桜が、ちらちらと散っているだけ。
 誰も乗らないブランコが、小さく軋みながら、かすかに揺れているだけだった。




 
 さいきん、真夜中の公園で誰も乗っていないブランコがゆれている、あれはきっと幽霊だという噂を聞く。実際に出会う人間は少ない。
 ―――出会うのは自らの人生に倦み疲れ、絶望し、手放そうと望み…… けれど、自らの生を捨てられぬものだけだ。
 あれは何年か前の大晦日、一人で縊れて死んだ男の幽霊だ、としたり顔に言う者もいる。
 けれども祐樹は知っている。真夜中のブランコをひとり揺らしながら、今日も待っているのは、本当は誰なのか。

 生まれてくることの無かった子どもは、今もひとり、夜のブランコに、たたずんでいる。


 


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