沈んだ人形





 私は今、深い、深い、海のそこにいます。
 水底深く、光すらも届かず、頭上にかすかにゆらめくのは、宵闇にたゆたう微かな光のような淡い色に過ぎません。ときおり視界を通り過ぎる魚影、そして、流れに揺れる海草の陰…… それだけが私の静止した世界に、かすかな変化を加えてくれるものです。
 どれくらい、時が過ぎたのでしょう。10年、100年、それとも、さらに数百年ほども? 時間を計るすべすらも無いこの深い水底で、私の身体はとうの昔に朽ち果てて、きっと、この白い砂の上に横たわっているのは、ただ、残された意思だけなのでしょう。私の眠りを護ってくれたトランクも、お父様の仕立ててくださったドレスも、ビスクの手足すらも、すでに失われてしまっているということは知っています。けれど私はここにいる。誰もが私を忘れても、私はここにいる。そして待っている。お父様がわたしを再び見つけ、そして、抱き上げてくださる日を、待ち続けている。
 
 私は、フランシーヌ。
 ただ、お父様に愛されるためだけに生まれてきた、お父様の娘にして、人形。

 そもそも、私のお父様には、ひとりの娘がいました。彼女の名前もフランシーヌ。不義の子であった、可哀想なフランシーヌ。私は彼女の顔を知りません。ただ、私が知っているのは、鏡にうつった私自身の面差しだけ。そう、お父様は、幼くして夭折した娘の代わりに、私を生み出したのです。
 お父様は、いつも私に、かぎりのない深い愛を、注いでくださいました。
 眠るときには子守唄を。絹を張った革のトランクで眠る日には、決して孤独を覚えぬよう、私の腕の大きさに合わせた小さなぬいぐるみを。金の髪を梳ってくれるお父様の優しい手。そして、芳しい紅茶を注いだティーセットを前にして、二人で過ごす薔薇園の午後。
 ほんとうなら、私は、ただの人形であるべきだったのかもしれません。すくなくとも私は、『フランシーヌ』では無かった。もしも私が言葉を話し、お父様に向かって腕を差し伸べたなら、きっと、お父様の哀しみはいや増すに増すばかり。間違いなく私はただの人形で…… いくら球体関節を自由に動かせても、お父様の身体を抱きしめても、私はお父様に暖かな唇一つを与えることすらも出来ない。もしお父様が望まれなかったなら、そしてお父様の哀しみを増すくらいなら、私は、ただひっそりと人形として時を過ごすことを選びつづけていたかもしれません。そうでなくとも、誰も私が意思を持つことを、心を持つことを、愛や哀しみを知ることを、知ってはいけませんでした。なぜなら私はお父様の忠実な人形だったのですから。
 あの無作法な太陽が空にのさばっている刻限には、私はいつも、天鵞布を張った椅子に座り、お父様を見つめていました。ガラス玉の瞳で。卓へ向かって、羽ペンで論文を紡ぐお父様を、しずかに見守っていました。
 『われ思う、ゆえに我あり』…… では、ものを思うことの出来る私は、たしかに『在る』ということも出来たのでしょうか。けれど、私はお父様にそれを伝える自由すらも持たなかった。……正確な言い方ではないかもしれません。私は望めばきっと歩くことが出来た。唇を開き、愛の言葉をささやき、お父様の背を抱くことすら出来た。けれど私はそれを望まなかったのです。もしもそうしたのなら、私が『フランシーヌ』本人ではないということを、お父様はどうしても悟らざるを得ないから。だから私は、日の高いころには、まばたきもせずに椅子に腰掛け、じっとお父様を見つめていたのです。
 けれど、夜には…… 夜には。
 可哀想なお父様。お父様は、孤独でした。お父様の聡明にして気高い魂を理解しうる友は乏しく、まして、生涯を供にしうる価値を持つ女性など。
 ただお父様にとって愛しい人と呼べたのは、幼くして天国へと去ったフランシーヌ、そして、その母親だった貧しい娘だけ。お父様の知性は、利用はされど、決して尊ばれることはありませんでした。まして、あまりに高く聳え立った知性の牙城に閉じこめられた、お父様の孤独な魂の園へと足を踏み入れようとするものなど、存在しなかったのです。
 だから、私が始めて歩いたのも、やはり、夜だったのです。
 お父様をいかさま師と、あるいは当時の蔑称にしたがって…… 練金術師、と呼びはしないでください。お父様が私に下さったのは、間違いなく、本当の心だったのですから。
 お父様が下さった『命』は、私の胸の中に。薔薇色の光輝を湛えたそれを、人は、『賢者の石』と呼ぶのでしょうか。けれど私は、そのようなものの力を借りずとも、お父様のことを誰よりも想っていました。私のことを生み出してくださったお父様。私のことをだれよりも深く愛してくださったお父様。そして、果てない孤独の中で、ひっそりとうつむいていたお父様。
 そのようなお父様を、どうして愛さずにいられるでしょう。まして、お父様一人のためだけに生まれてきた私が?
 ぎこちなく歩き出した私を、私のけっして自然とはいえぬ微笑を、たどたどしいお喋りを、けれど、お父様は受け入れてくださいました。私はフランシーヌ、お父様の娘。間違いなく、お父様は、愛情を持って、私のことをそう呼んでくださったのです。
 昼日中、私はトランクの中で眠りました。硬い革で作られ、真鍮の鋲を打たれ、サテンを張ったトランクの中で。
 けれど月がほのかに夜を照らし出すとき、私は目覚め、トランクの蓋をひらきました。そして、ゆっくりと起き上がり、お父様へ向かって微笑みかけるのです。孤高の哲学者という仮面を脱ぎ、柔和な面差しに孤独の陰をやどして、私に向かって腕を差し伸べるお父様へと。
 お父様とのお茶会は、とてもささやかで、けれど、楽しいものでした。菫の花の砂糖漬けや、アンジェリカや巴旦杏の菓子。そして、私のサイズに合わせて作られた、玩具のようなティーセットで淹れられる暖かな紅茶。
 私とお父様は、たくさんの話をしました。
 お父様は、哲学者にして魔術師であり、同時に、詩人でもありました。お父様は私にたくさんの物語を教えてくれました。妖精や神々の物語、騎士と姫君たちの物語、そして、私と同じような人形たちの物語を。
 お父様は私を抱いて、おっしゃいました。フランシーヌ、お前こそ、真の少女であると。
 無垢と、気高さと、美しさと。
 夢見るような瞳と、柔らかな髪と、すべらかな頬をもったフランシーヌ。お前は、おそらく、この地上に生きるどの少女よりも、もっとも、真に美しい少女なのだろうね、と。
 私は答えました。すべてを下さったのは、お父様です、と。
 私は、いくらでも美しくなれましたし、無垢にも、気高くもなれました。お父様のためならば。
 お父様が讃えたこの瞳も、この髪も、頬も、すべてはお父様の下さったもの。ならば、どうして私がお父様を愛さずにいられたでしょう。今になって思えば、真に美しい少女とは、おそらくは、『人形』のことだったのではないでしょうか? もしも意思を持った人間の娘ならば、次第に薔薇色の頬が枯れ、膚はたるみ、瞳の光は失せずにはいられない。それが人間という肉をもちあわせた存在の定めだったのですから。けれど、人形の微笑みはけっして色あせることなく、差し出される腕にはいつであっても素直にもたれかかり、瞳はいつまでも夢見るように澄み切っていることでしょう。
 私は思い出します。お父様の語ってくださった、はるか異国の物語を。己の刻んだ大理石の像を愛したピュグマリオンを。はたして、大理石の女が人の肉を得たとき、ピュグマリオンはそれを喜んだのでしょうか。私は思わずにはいられません。それは美の女神の嫉妬に他ならなかったのではないかと。大理石の女が永遠に微笑み続け、彫像家がそれを愛し続けるのを妬み、大理石の身体を肉と変え、朽ち果てていく定めを下したのではないかと。彼の異教の神々は、その嫉妬深さによって、知られているのですから。
 人であるならば決してたどり着くことの出来ない境地、惜しみなく愛され続け、愛し続ける存在――― それが私、フランシーヌ。お父様の作り出した、お父様たったひとりのためだけの、永遠の少女。
 けれど、それは、決して長い蜜月ではなかったのです。

 今でも思い出す、あれは、嵐の日でした。お父様が異国の女王に招びにこたえ、海を渡ろうとしたその日。
 海はまるでお父様を拒むように荒れ狂い、天は灰色に渦を巻き、波は白い泡を噛んで漆黒の牙を剥きました。船が激しく揺れ、頭上では黄色くくすんだ硝子のランプが光をゆらめせておりました。私はお父様の膝の上ではなく、トランクの中にいました。けれどお父様の手はトランクの上に置かれていた。私は、革越しのその手に、そっと頬を寄せておりました。
「大丈夫だよ、フランシーヌ」
 お父様の声。今となっては聞くことも出来ない、懐かしい、お父様の声。
「あの国には美しい薔薇が咲くという。あの国へとたどりついたなら、七色の薔薇を摘ませようね。そして、薔薇の花を飾ったテーブルで、いっしょにお茶を飲もう」
 ああ、お父様。私がどれだけその言葉を喜んだか、そのお心を愛しく想ったか、なぜ伝えられなかったのでしょうか。なぜ私はあの時、トランクを開けなかったのでしょう。仮にそのせいで、粗野な水夫たちによって五体をばらばらに引き裂かれても、この体が踏みにじられても、この定めを遂げるよりは、どれだけましだったことか……
 けれど、どれだけ悔やんでも無駄です。私の入ったトランクは、突然部屋へと乱入してきた水夫たちによって、お父様の手から奪い取られました。あの粗野で無知な野蛮人たち。海の精霊が私の存在を呪い、この嵐を引き起こすなどと…… いっそ呪うのならば、海の精霊とて、私だけではなくお父様もろともに暗い水底へと引きずり込んだでしょうに。お父様ほどの気高い方が、恥知らずにも『神』と呼ばれるものたちに、愛されぬはずがなかったのです。お父様に受難が襲うとしたならば、それは偶然という無慈悲な骰子の所業であったほうがまだ良いというものです。自然という心持たぬものの所業だと思わなければ、いっそ、私はこの世界を呪わずにはいられない。
 私はトランクもろともに海へと投げ捨てられました。お父様の悲痛な声は、トランクの中からでも聞こえました。今でも耳に残って離れません。ただの飾りに過ぎなかった、私の耳というものが、すでに朽ち果て消えてしまった今でも、お父様の声は、繰り返し、繰り返し、私の魂に響くのです。

 フランシーヌ…… フランシーヌ!!

 お父様、と私は答えたかった。一言だけ伝えたかった、ということなど決して出来ません。お父様への私の思いは、冷たく苦い海水へと閉ざされた数百年のすべてを言の葉へと変えても、伝えきれないほどに大きいのですから。
 私はただ、お父様に愛されていた。そしてお父様を愛していた。そのためだけに生まれてきた。これほど誇らしいことが、いったい、ほかに在るでしょうか。
 けれど、全てはもう過去のことです。
 硝子の目玉は波に攫われ、今頃は、どこかの浜辺へとたどり着いているでしょうか。ビスクの欠片は海の砂にまぎれているでしょうか。朽ち果てたトランクは藻草に覆われて、もう、名残すらも見当たりません。
 私はもうどこにもいません。お父様の下さった私の身体は、苦い海水と、それよりもさらに苦い歳月にさらされ、朽ち果ててしまいました。人形は、永遠を生きられるのではなかったのでしょうか。私は真にして永遠の少女として、お父様を愛し続けることができるのではなかったのでしょうか?
 今日もはるか頭上の水面に月が昇り、そして沈みます。私はただ祈るばかり。お父様が孤独でないように、さもなければせめて、お父様の気高い孤独と、その代償である深い哀しみを、せめて誰かが癒しているようにと。
 私の魂は、永遠に海の底。憐れむのならば、憐れみなさい。むしろこの哀しみが朽ちることが、私には恐ろしい。なぜならそれは、この作り物の魂がお父様を忘却するという、この上も無く無惨な末路に他ならないのですから。
 お父様が愛してくださる限り、私の魂は朽ちない。お父様の愛を忘れない限り、身体は水底に朽ち果てても、この魂は、決して朽ちない。
 せめて私は夢見ましょう。七彩の薔薇の咲く秘密の園、二人きりの、真夜中の茶会を。
 私は祈り続けます。さもなければ呪い続けます。神、と呼ばれるものを。お父様にあの気高い魂を授け、同時にあの孤独をもたらした、呪わしい神という名の存在を。
 冒涜だと言うでしょうか。さもなければ、たかががらくた人形の繰言だと?
 けれど、私は神などおそれてはいません。なぜなら私は神の被造物ではない。今は朽ち果てたあの体も、この心も、魂すらも、お父様によって作られたものに違いないのですから。
 私は想い続けます。愛しいお父様のことを。
 そして信じています。いつかきっと…… この名すら朽ち果てるほど長い時が過ぎても…… 私はきっと、お父様の腕に還ると。この名を失っていたとしても、ただ、『真にして永遠なる少女』として、お父様のもとへと帰り着くと。
 
 私の名前はフランシーヌ。
 お父様の娘にして、人形。

 そして真にして、永遠の少女……





偉大なる哲学者ルネ・デカルトとその娘にして人形フランシーヌ、
そして薔薇乙女たちへのオマージュとして。
  

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