瑪瑙


 昔から夢見がちだった彼は精神を病んでいるということだったけれど、久しぶりに会った私には、かえってまったく変わっていないように見えた。
「ねえ、ごらん」
 青白く痩せた面は昔のように柔らかい笑顔をうかべ、繊細な大きな手はそっと宝物を包んでいる。彼は手を開き、中にあるものを私に見せてくれた。
「この石…… なんだったっけ、メノウ?」
 彼が見せてくれたのは、赤ん坊の拳ほどの丸い石だった。河か浜辺でひろったものなのだろう、柔らかくなった表面に、綺麗な縞がうかんでいた。
「そう、瑪瑙」
 彼がいとしげに呼んだ石の名前は、同じ音なのに、私の言葉とはちがった響きを帯びているよう。
「持ってみるとわかるけど、これ、見た目よりもずっと軽いんだ。どうしてだとおもう?」
「んーと…… 中にちいさな空気の泡が沢山入っているから? 違うよね」
「それじゃあ軽石だよ。ほら、ちょっと太陽に透かして見てごらん」
 手渡された丸い石は、言われたとおり、見た目よりも少し軽いように思えた。けれども私には、瑪瑙の暖かさのほうが重い印象深さを感じさせた。彼の手のひらにずっとおさまって、低い体温を移された石。
 私はだまって瑪瑙を空に翳し、いわれたとおりに太陽の光に透かしてみた。
「何が、見える?」
「何って……」
 半透明の瑪瑙を覗いた様は、飛行機に乗り、夕空を雲の中から見つめた様に似ていた。赤と紅、橙と金。不規則で美しい斑が柔らかい図形を作るけれど、それに意味があるようには思えない。
 かろうじて、金の針の先のように光るものがなにか見えたように思えただけ。私はあきらめて瑪瑙を彼に返した。
「ごめん。私にはよくわかんない」
「そう」
 彼は残念がる様子も見せずに、卵でも抱くように瑪瑙を受け取った。彼の鳩のような目は、いとおしげに瑪瑙を見下ろした。
「実はね、僕はこのなかに世界をしまっているんだ」
「せかい?」
 私はおもわず聞き返した。彼は幸福そうに頷いた。
「この瑪瑙は特別な石でね、中にある空洞は見た目よりもずっと大きい。だから、僕は自分の好きなものだけをこのなかにしまう事にしたんだ」
 夢見がちで繊細な彼。私は繊細さゆえに傷つき、世界を否定していた昔の彼を知っていたから、その発言をもそれほど不思議に思わなかった。
「でも、『入れる』ってどうやるの。ぱかって開きそうには見えないし、どんなに大きくたって家がはいるくらいじゃないでしょ」
「そうなのかな…… そうだね、僕にもよくわからないや」
 彼はそっとに笑った。
「でも、入れるやり方はわかるよ。こうやって両手で瑪瑙を持って、瑪瑙の中と、入れたいものとを重ね合わせてイメージするんだ。透明なガラスの上に書かれた絵を、好きな風景の写真に重ねるみたいに」
「映写機を動かして、スクリーンの上に画像を重ねるみたいに?」
「そう。僕はそうやって、たくさんのものをこの中に仕舞ったよ。金魚のクロも、ターナーの絵も、学校の夏も、東京タワーも、全部この中に入れてしまった。だからだんだん、こっちの世界には僕の大切なものは無くなっていってしまうんだけど……」
 彼は金魚など飼っていなかったし、ターナーなどという画家は聞いたことが無い。東京タワーというのは一体なんのことなのだろう。私は悲しく思った。
「でも、いいんだ。大切なものが全部手の中にある。そう考えたら、僕はずっと幸せだから」
「でも、中の世界を確かめたくないの? 好きなものや大切なもの、全部そこにいれといたんでしょ」
 彼はあいまいに笑い、沈黙した。その瞳は開いていても『閉じて』しまっていた。胸の中に甘い痛みを感じて、私はいつのまにか乱暴に彼の肩を叩いていた。
「ねえ、だったら私のことを好きになってよ」
 彼は唐突に顔を上げた。何を言っているの、とその表情が雄弁に語っている。私は唇の両端を無理に吊り上げた。
「好きなもの、全部その中に仕舞うんでしょう。だったら私を好きになったら、私もその中に入れるのよね? で、入れてもらったら、きっと私が代わりに中を探検してあげるって、約束するよ」

 私が彼と交わした会話はそれだけだった。
 なぜなら、彼はその一月ヶ後、病魔に耐えかねて首をつってしまったからだ。

 彼が死んでから1ヵ月後、私のもとに小さな小包が届いた。
 懐かしい予感に駆られてハトロン紙を開くと、その中には予想通り、丸い瑪瑙が入っていた。
 夕方だった。何かを思い出せそうな、思い出したら懐かしすぎて死んでしまうような夕方だった。
 私は瑪瑙をしっかりと胸に抱き、西側の窓を開けた。
 冷たい風が部屋に吹き込み、カーテンをおおきくはためかせた。ドームとなって世界の上にかぶさった空は、瑪瑙を内側から覗いたように、不規則な雲の模様を全体にうかべていた。
 そして私は見た。東京タワーがライトアップされて、細い橙色の炎のように輝いているのを。
 私はすべてを思い出し、そして、笑った。彼はたしかに約束を守った。私はいつのまにか、瑪瑙の中に入れられてしまっていたのだ。
 それでは、今度は私が約束を守る番だ。
 私は瑪瑙を胸に抱き、イメージする。彼の姿を描いたガラスは、瑪瑙の中の風景の上に重なった。

 軽い眩暈と同時に、瑪瑙の空が落ちてきた。





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