怖い絵







 美術室のいちばん奥には、怖い絵が飾られている。

 美術室に忘れた絵の具を取って来い、と言われたとき、少年はかなり不満におもった。
 どうして兄の忘れてきたものをとってこなければいけないのだろう。そのうえ、理由を明言はしなかったけれど、どうも『怖いものがあるから』美術室に入りたくないというのがその理由らしい。どうしてなのだろう。兄はもう、5年生なのに。
 けれど結局、電線でばらばらに区切られた夕焼けの下を走って、少年は学校に行った。
 いつも校庭で練習をしているサッカーサークルも引き上げた、夕方。校庭を歩く人たちの影は長く伸びるけれど、校内に生徒は一人もいなくなっていた。ただ、落ち葉が風に吹かれて競争をしているばかり。
 学校の入り口は、まだ開いていた。
 窓からはいってくる赤い光で、ラッカーを塗った廊下は飴でも流したように見えた。きらきら光る埃が綺麗で、少年は怖いとおもうこともない。美術室は3階の一番奥だった。
 木でできた机の中を順繰りに探っていくと、まもなく、兄の忘れた絵の具も見つかった。少年は安堵の息をつき、そのままきびすを返そうとする。が。

 突然、美術室の扉が開いて誰かが入ってきたのだ。

 少年は驚き、慌てて机の下に隠れた。目を大きく見開いて息を潜めていると、少年の前を足が通り過ぎていく。
 綺麗に磨かれた革靴と、琥珀織のスラックスのすそ。紫檀の杖の先がすぐ鼻先を通過してからしばらくは、少年はじっと机の下に隠れていた。が、まもなく好奇心が疼いて我慢できなくなる。少年はそっと机の下から頭を出してみた。
 美術室の中を歩いていくのは、見覚えのない老紳士だった。老紳士はゆっくりと美術室の一番奥へと行き、絵の具汚れのカーテンを引く。少年はこそこそと机のあいだをたどって、老人の見ているものを覗き込める場所に移動する。
 ……奥の壁にあったのは、一枚の絵だった。

 からん、と音を立てて、杖が床に倒れた。
「…――ちゃん」
 掠れた声が誰の名前を呼んだのかは、わからなかった。老紳士の皺深い横顔に、深い喜びの色が生まれる。
 少年は恐る恐る絵の方を見た。
 金の塗りが剥げた額縁に、泥絵の具の彩色。セピアめいた色彩の渦。はじめ、その絵は何の像も描いていないように見えた。
 けれど、やがて。
 少年が目を大きく見開いていくのと連動しているかのように、絵の中に景色が浮かび上がってくる。日当たりのいい丘。風になびくケヤキの葉。
 木の下には、一人の少女がたたずんでいた。
 ワンピースのスカートは風にふくらみ、木漏れ日の模様が白い布と少女の頬の上に写る。林檎のように染まった頬の上、清楚な三つ編みが静かに揺れた。
 光と風は額縁からあふれ、夕暮れの美術室を昼の光で満たした。初夏の匂いがカーテンを揺らし、山鳩の声が遠い笛のように響く。
「…――ちゃん」
 老紳士は再び呼んだ。……否。その声は、すでに老人のものではない。
 瑞々しい張りをもった声で呼び、老紳士は光と風の中に踏み出した。木漏れ日が目をくらませる。そこに立っているのは、すでに痩せた老人ではなくなっている
 足にゲートルを巻いた、大時代な兵士の装い。黒く短い髪は凛々しい顔の輪郭を際立たせ、真面目そうな目が日光をうつしてきらめく。
「…――ちゃん!」
 娘は振り向いた。振り向いて、微笑んだ。
 いまや若々しい青年になった老紳士は、初夏の丘を歩いていく。甘い草いきれと夏の風、木漏れ日が躍る。娘は恥ずかしそうに頬を染め、傍らに歩み寄った青年の顔を見上げた。二人は初々しく微笑み、手をとりあう。古い映画のラストシーンのように。
「待って」
 自分の唇が勝手に言葉をつむぐのを少年は聞いた。机の下から抜け出した少年にむかって、夏の風がまっすぐに吹き付ける。
「ねえ、お姉ちゃんじゃないの?」
 少年は不安げに呼んだ。いつのまにか、青年の姿は消えうせていた。少女はワンピースのすそを翻しながら、ゆっくりとふりかえる。彼女は小学生くらいにしか見えない、幼い姿の少女だった。
 悪戯っぽく笑う唇から、白い歯がこぼれる。少女は一杯に手を振った。こっちにおいでよと呼ぶように。
 光と風に圧倒された少年は腕で目をかばい、まぶしそうに少女を見上げて……

 その瞬間、突然後ろに引き倒された。

「っ!?」
 カーテンは乱暴に閉められた。少年は椅子を巻き込むようにして後ろに転倒した。少年はぶつけた肘の痛みに悶絶し…… 涙で一杯になった目をようやく開けられるようになって、初めて兄の姿に気づいた。
「兄ちゃん?」
 信じられないような思いで、少年は兄を呼ぶ。兄は自分に忘れ物をとってくるように言いつけて、家にいるはずだったのに。
 兄は長い距離を走ってきたのように息を荒げ、床に膝をついていた。表情は険しく、目にはいっぱいに涙をためている。弟は困惑した。
「……兄ちゃん?」
 不安げな弟の声に、兄は拳で涙を振りちぎった。そして、ぶっきらぼうに「バカヤロウ」と言う。
「その絵、見んじゃねえって言ってただろ」
「僕が見ようとしたんじゃないもん! ……」
 少年の視線の先をたどり、床に転がった杖に気づいたらしい。兄はきつく唇を噛んで立ち上がり、杖を拾い上げた。
 少年はためらいながら、答えた。
「見たよ。……見ちゃった。兄ちゃん、あの絵って何なの? おじいちゃんが一人、あの絵の中にはいってっちゃったよ。絵の中からキラキラって太陽が光ってて、お姉ちゃんが……」
 少年は唐突に黙り、しばらく口ごもった。兄はぶっきらぼうに答えた。
「……死んだあいつがいたんだろう」
 弟は無言で頷いた。

 絵の中から手を振ったのは、近所に住んでいた少女の姿だった。親同士も仲が良く、少年は姉のように慕っていた少女だった。
 去年の夏に、死んでしまった少女だった。

「……あの絵が『怖い絵』なのはな、死んだやつを見せるからだ」
 ゆっくりと身を起こした兄は、氷も燃やしてしまいそうな目でカーテンをにらみつけた。その向こうにある、絵を睨みつけていた。あまりに強い視線に、少年は胸が痛むような思いをする。
「死んだやつ、一番会いたいやつを見せて、人間を引っ張るんだ…… だから小学生はまだ平気でも、年取ってる人間ほど強く引っ張られて逃げられなくなる。なかには、自分から喜んで引っ張られていくやつもいる」
 兄は血を吐くように言い捨てた。
「……冗談じゃない! 行くぞ!」
 兄は急に立ち上がると、乱暴に少年の手を掴み取る。そして、強引に歩きだした。

 半分走るようなスピードで、兄弟は美術室を抜け出し、学校を出た。
 時間はそうたっていなかったようで、まだ沈まない夕日が二人の影を長く伸ばした。
「兄ちゃん」
 ずっと黙り込んでいた少年は、外の風にふれてようやく口を開いた。
 兄は答えない。けれど少年は夕日に染まる横顔を見上げ、続けた。
「……兄ちゃん。僕はあの絵を見たけど、全然中に入りたいって思わなかったよ」
 光と風を美しいとおもった。死んだ少女を懐かしいとは思った。
 けれど、あの世界へ行きたいとは思わなかった。
 自分の、少女への思いが足りなかったのだろうか。懐かしく慕わしいだけで、『絵』以上のものとしては表れなかったもう一つの世界。
 けれど兄にとっては、あの世界は恐ろしいほどの引力をもつものなのだろうか。
 ―――のことを、そんなに思っていたの?
「兄ちゃん、兄ちゃんはあの絵が怖いの?」
 兄は答えなかった。ただ咎めるように、掴んだ少年の腕に爪を立てた。

 少年は一度だけ振り返る。
 幻のように、夏の風が吹く。





top