暗い日曜日
その女は悪魔に魂を売ったのだ、と囁かれたことが或る。
安酒と煙と吐瀉物の匂いがしみついた安酒場の片隅で、俺は悪魔に魂を売ったというその女を初めて見た。
若いとは言いがたい女だった。褐色の髪ばかりはゆたかに背を滑っているが、安っぽい生地のドレスに包まれた身体は豊満と弛緩の間をただよっているよう。まとっている香水の匂いは、くさりかけた果実のような雰囲気を強めているようだった。
ただのくたびれた酒場女じゃないか。俺はそう思った。女は薄暗い隅の卓に一人で座り、酒をあおっているようだった。癖のある匂いに気づけば、女の飲んでいる酒の種類が分かる。アブサン。悪魔の酒だ。
俺がだまって女のほうを見ていると、卓の上に放置されたままの酒と食事に蝿がたかってくる。一匹の大きな蝿などは、俺の背中にひねこびた手を伸ばしてまで来た。
「兄さん。……兄さん、あの女に興味があるのかい」
振り返ると、そこにいるのは酒に疲れた肌をした初老の男だった。……否、と俺は訂正する。おそらくは、まだ俺とそうかわらない年頃の男だろう。まだ光を残した陸軍の徽章がそれを示している。
徴兵にとられて、ボロボロにすりきれるまで使い込まれ、こんなゴミ溜めにまで流されてきたのか。俺は哀れみの色を見せたらしい。男は卑屈に背を丸めながら、いそがしく俺の顔と卓の上に乗った腸詰料理とに目を走らせた。目だけはきょときょととせわしなく動かしながらも、男は俺に向かってうるさく喋りかけてくる。
「兄さん、知らないのかい。あの女は悪魔に魂を売った女だって言われてるけどね、全部デタラメなんだよ。だって、俺はあの女の若いころを知ってるんだから」
この手合いを相手にしていてはきりがない。無視しようとしていた耳に男の最期の言葉が飛び込み、俺は思わず振り向いた。男は濁った目を底光りさせながら、追従笑いを浮かべる。
「あの女はね、今はあんなになってるが若いころはそりゃあ綺麗だった。金の鈴を鳴らすような声で子守唄を歌えば、空の鳥だってみーんなあの女についてきた。当然、男なんてもっと簡単さ。まなざし一つでころりと地面に落ちた。……ハッハ」
男は喘息のような息をついた。笑ったらしい。
「だが、それがいけなかった。あの女は軍のお偉いさんに目をつけられたのさ。贅沢な暮らしや絹の服に誘われはしない女だったが、こいびとを人質にとられたら簡単に折れた。あの女は将軍様の小鳥になって、灰色の砦にまで引かれていったさ。こいびとが幸せならそれでいいって言ってね。あの女のこいびとは、一月だけ嘆いてすぐに他の女と結婚しちまったがね」
男は妙なタイミングで黙りこみ、機嫌をうかがうように俺の顔を覗き込む。俺は無言で料理と酒を男に向かって押し出した。食欲はすでにうせていた。
俺は肩越しにふりかえり、再び女を見た。
女はつかれたように背を丸め、蝋燭明かりの揺らめく卓の上にうずくまっていた。蝋燭の落とす女の影が、他の男たち、つかれた女達の影と混じって壁に揺れている。
「それで、あの女はどうしたんだ」
俺は卓にむきなおり、男の話を促す。
よっぽど飢えていたのだろうか。ぺちゃぺちゃとスープを羽散らかしながら、男は犬のように腸詰料理を掻きこむ。口の周りをソースで汚しながら上目遣いにこちらをみあげ、男は厭らしく笑った。
「あとは聞くまでもないさ、お定まりのコースだよう。例の戦争が終わったら老いぼれ将軍の首がチョン切られ、女のほうも仕事の口がちょんと切れちまったのさ。金の鈴はヤケ酒にさび付いて老いぼれ鴉の鳴き声に成り下がっちまい、あの女は今じゃあケチな酒場の歌うたい、ってワケさ。なんでも情人とのあいだに子供がいたって話もあるけど、俺は信じちゃぁいないねえ。ま、どっちにしたって新政府様で閣下だのなんだの呼ばれるようになった男があんな女に本気になるわけないよ……」
狂った笛のような笑い声がそれに続き、唐突に途切れた。男は濁った目でいぶかしげに俺の顔を見上げ、すりきれたコートの袷から覗く濃緑のウール地を見る。
「……兄さん、あんた良く見ると良い服着てるねえ。それに男っぷりがいいや。どこの人なんだい?」
卑しい追従笑いの中に、いぶかしむような響きが混じっていた。男の視線がじろじろと俺の上を這いまわる。
俺は無言で一瞥をくれた。
とたん、男は怯えた表情をあらわにする。それを隠すようにひねた指をこすりあわせ、男は媚びるような声を出した。
「いやだねえ、兄さん。ほんの冗談だよ……」
酒場に詰め込まれた貧しい客達がざわめいた。照明が少しばかり変わる。あの女の姿が卓から消えていた。どぶねずみのような男にかかずらっている暇はなかった。俺は慌てて目で女を探す。……まもなく、女は見つかった。
狭い店の最も奥。カウンターの端が台のようにつくられた場所に、黄色じみた灯があつめられていた。脂臭い灯が乱舞する埃や煙ににじみ、聖画のような黄金に霞んでいる。女は黄金のただなかに立っていた。
褐色の髪をろくに梳りもせず、崩れた身体を安いドレスに包んだ女。酒におぼれた哀れな酒場女。さきほどまではそうだったはずが、どうだろう? 低いステージに背を伸ばして立っているのは、別人のような女だった。
別段美しい顔をしているわけではない。酒に焼けたような肌に、大きすぎる口。ただ一つだけ鮮やかな黄玉の瞳。そんな一つ一つのパーツについていくら語っても、女のすべてを語ることなどできそうになかった。
聖女か、あるいは、女悪魔。
女は聖母の慈愛をもって群集に手を伸べ、悪魔のように絶望的な媚びを含んで笑った。
ざわついていた群集が、ほんの僅かの間に凪いでゆく。まもなく、バンドが安っぽい音で演奏を始めた。
女は大きすぎる口を笑みの形にゆっくりと開き、歌いだす。
腕に赤い花を抱いて
吹きすさぶ 木枯らしの中
つかれはてて 帰るあたし
俺は魂を撃ちおとされたような衝撃を感じた。
けっして美しい声ではない。鴉のようにしわがれ、陰鬱な歌声。まるで深淵からはいのぼってくるような歌声は、同時に、天上からふりそそいでくるかのような響きをも伴っていた。
もういない あなただもの
愛のなげき つぶやいては
ただひとりでむせびなく
女は歌いながら片手を延べ、もう片手で豊かな髪を背に払った。その刹那、女の片耳でなにかが明かりを弾いた。瞳を刺したきらめきは、ほんの刹那のものだった。
それでも、違いようがなかった。
金のイアリング。
俺は呻き、片手で顔を覆う。女の歌に聞きほれていた男が、「兄さん?」といぶかしげな声を上げた。
遠慮がちに肩に伸ばされた手を、俺は激しく振り払った。男はよろめき、椅子のいくつかを道ずれにして転倒した。
唐突な騒ぎに、店内につめこまれた客達の数人がふりかえる。それでも、俺には気にすることのできる余裕もなかった。俺はよろめきながら立ち上がり、逃げるように店の入り口へと急いだ。
店内がざわめきだしても、歌手はそれに気づいていないかのようだった。女はかわらず歌い続ける。女の歌声が追いかけてきて、毒のように俺の背中を焦がした。
ローソクのゆらめくほのお
愛も今は 燃えつくして
夢うつつ あなたを想う
外には雨が降っていた。
逃げるように階段を上った俺は、ぬれた石段に足を滑らせた。泥水と水溜りの中に倒れこんだ拍子に、俺の服のポケットから小さなものが飛び出す。
ちいさくひしゃげた、何か金の欠片のようなもの。
金のイアリングだったもの。
俺は倒れたまま手を伸ばし、それを握り締める。手のひらに爪が食い込むほどに握り締めながら、俺はむせび泣いた。
あの女は悪魔に魂をうったのだ。
その通りだ。
そうでなければ、なぜあの歌だけで聖女のように男たちを抱き、女悪魔のようにからめとることができる。
そうでなければ、何故この俺に気がつかない。
悪魔に魂を売った女。天上のように優しく、深淵のように誘う歌。金のイアリング。伸ばされた腕。死神鴉のように枯れた声。黄玉の瞳。
おかあさん。
永遠の喪失に泣く者のことなど知らぬげに、地下の安酒場からは陰鬱な歌声が響き続けている。
この世では 逢えないだろうけれど
死んでも瞳が 云うだろう
あたしの命よりも 愛したことを
暗い日曜日
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