琥珀の棺
「ねぇねぇ兄ちゃん、これなーに?」
引越しのために家の中を片付けていて、小さな少年はそれを見つけてくる。箱……小さな木箱。
カマボコ板を加工した不器用な細工のどこが目を引いたのだろう。青年にそうやって示しながらも、小さな少年は箱を振ったり揺すったりして、中に何があるのかをたしかめようとしていた。青年は段ボール箱を運ぶ手を止め、目を細めた。
「……ああ、懐かしいですね。それは『宝箱』ですよ」
「たからばこっ?」
少年は大きな目を丸くし、びっくりしたように木箱を見た。青年は寂しく微笑んだ。
「そう。昔……僕が8つのときだから、もう10年くらい前ですね。夏休み、兄さんと二人で島に行ったとき、あつめたものをその箱にしまっておいたんです。大人になったときに開けよう、って約束して…… そのうち地面に埋めてタイムカプセルにしようか、って話もあったんですけれど、埋めるのが不安で。結局はそのままになっていたんですね」
へえ、と少年は感動したような溜息をもらした。
箱をみつめたまま動かない少年に苦笑し、青年は一度段ボール箱を部屋の外まで運びだす。ふたたび戻ってきたとき、青年はまだ目をまるくしてその箱を見つめている少年の姿をみつけた。
床に置いた小さな箱の前にうずくまり、両肘の上に顎を乗せて。
きらきらと光る目の向こうで、一体何を期待しているというのだろう。青年にはおぼろげに分かるような気がした。
懐かしい昔。
初夏の海辺で貝殻を拾ったこと。黒く湿った砂、立っていると足場をさらわれていくような波打ち際。濡れてつやつやと光る貝殻を、見つけたときの嬉しさ。
激しい日光も木の葉にさえぎられて、木漏れ日のレースが落ちる森の中。落ち葉の間から露出する溶岩石の黒。太い根に絡め取られた洞窟の入り口を見つけたとき、あの不安と期待。いつも乱暴な兄の手があんなにも頼もしく思えたこと。
ならんでかじったとうもろこしの甘さ。影絵になって飛ぶ蝙蝠。夕暮れの黄金。
島を離れる最後の日、嫌がって泣き叫んだことを覚えている。そう、青年はそのとき8歳になっていた。まだ薄闇の幼児期が終わり、金色の子供時代の入り口に立ったころ。そして同時にその金色がいつかは暮れ、どんなに愛しい時間も思い出という棺の中で朽ちていくものだと予感し始めていたころだった。
あの夏があまりにも美しかったから、自分はあんなにも惜しんだのではなかったか。
だが、両親はそれを理解してはくれず、ただ来年もまた同じ島へくるという約束で彼をなだめようとした。幼かった彼を哀しさを、本当の意味で理解してくれたのは兄だけだったのだ。
それは、彼も同じように時の流れの切なさの前に立ちすくんでいたからだったのだろう。だから兄は幼い弟のために、手を傷だらけにしながら小さな木箱をつくってくれた。宝箱……あるいは、棺。琥珀のような金色を、時の流れから切り取って、大切に眠らせておくための。
いつか大人になって、あのときの金色を悼むことができるようになるまで。
「ねえ、兄ちゃん? これ空けちゃダメ?」
躊躇った。
少年は丸い目でまっすぐに青年の顔を見上げ、懇願するような表情をつくっている。もとより、好奇心を押さえきれるような年頃の子ではないのだ。あのときの青年のように。
微かな胸の痛みを誤魔化すように、青年は柔らかな笑顔を浮かべる。
「いいですよ。バールをもってきましょうか」
鉄のバールをつかって一本一本釘を外していくのを、少年は一生懸命な目つきで見つめていた。
蓋だろう一側面を止めていた最期の釘をぬくと、不器用な細工の箱はばらばらに分解してしまう。箱の中から見えたのは、ぼろぼろになった半透明のビニールだった。
「……」
「わぁ、何何?」
青年が息を呑むより早く、小さな手が箱へとのびた。止めるまもなくビニールが破られ、ほこりっぽい匂いと共になにか小さなものが零れ落ちる。
もう霞んでしまった記憶の匂いに、青年はかすな眩暈を感じた。
貝殻や石ころが床に落ちて音を立て、かさかさになった木の葉のようなものが上に重なる。
「なんだよ、宝物じゃないじゃん」
少年はがっかりしたような顔をしつつも、興味深げに床に落ちたものたちを拾い上げる。半分に割れた石のくぼみには、砂のようなものが付着してきらきらと光っていた。
「それは瑪瑙ですよ。石の中で成長するんです」
「ふーん……こっちは?」
「それはタカラガイで…… そっちはイモガイですね。今はただの貝殻ですけれど、生きているイモガイには毒があるんですよ」
少年は心底感心したようにはぁっと息を吐き、感動したように青年を見上げた。
「兄ちゃん、なんでも知ってるんだね」
青年は思わず叫びそうになった言葉を、むりやり胸の奥に飲み込んだ。
「……いいえ。そんなことはないです」
いいえ、いいえ。
なぜならすべて、あなたからおしえてもらったことなのですから。
「これは仕舞っておきましょうね」
しばらくのときが過ぎ、青年は細い指で貝殻や石を拾い集めはじめた。少年は不服そうに唇を尖らせる。
「えぇっ? どうして?」
青年は淡く、苦く、優しく、微笑った。
「だって、これは僕達が大人になったら開ける約束だったはずでしょう? ……『兄さん』」
少年……兄が病にかかったのは、5年前のことだった。
一年の時とともに一つ歳を重ねる代わりに、心も身体も一年だけさかのぼる。
10年のときが過ぎたとき、青年のように10年分の成長を遂げる代わりに、兄はかつてと同じ少年の心と身体に戻ってしまっていた。
琥珀のような、金色の時に。
もう、どこからみても『兄』には見えなくなってしまった少年を見下ろしながら、青年は悲しく考える。
僕がすでに追放されてしまった黄金のときを、あなたは再び生きている。
あなたが力一杯走るとき、向かい風は遠い国の匂いを運んでくるだろう。
あなたが貝を拾うために、波は無限にうちよせるだろう。
あなたの見る夕暮れは金色だろう。
けれど、そのすべてが本当の意味を失ってしまっている。なぜなら、『黄金』が追憶の中で朽ちていく切なさを、少年はもう知ることができない。
フィルムを逆に回すように、少年はやがて黄金の刻を駆け抜け、薄闇の中へと入り込んでいく。
柔らかくぬるんだ薄闇の幼児期へ。さらに昔へ。そして、最期には。
少年……兄はひどく不満げに頬をふくらませていたが、青年がていねいに箱のパーツをひろいあつめているのを見ているうちに、あきらめたらしい。ぷいとあさっての方向を向き、ベランダに出て靴を履いた。
塀の向こうには引越し用のトラックが止まっている。彼はお気に入りのアニメ映画で登場人物がそうしていたように、荷台に乗ってみたいと行っていた。危ないと運送業者は厭な顔をしていたが、青年はきっとその願いをかなえてやるつもりだった。
やりたいことがいくらでもあって。
楽しいことがいくらでもあって。
もう唯一の身内となってしまった青年がそう願うから、彼は振り返って惜しむことを知らず、まっすぐにかけていく。
あざやかな朝焼けに見とれて。夕暮れにはまどろんで。琥珀のような黄金の中を走って。
やがてすべてが薄闇の中に、融けてなくなってしまうまで。
青年は少年になってしまった兄の後姿を見送りながら、壊れた木箱をそっと胸に抱いた。まどろむように平和な日々と分かっていても、棘刺すような胸の痛みは消えなかった。悼んでいるのかもしれない、と青年は思った。
いつのまにか、大きくなった自分を思って。
もう大人になることもなく、少年時代の黄金の中でまどろみつづける兄を思って。
手の中で、懐かしいあの夏の島でひろった貝殻が音を立てる。音と共に、すぎていった時が追憶の中に巻き戻される。
思い出。
少年時代。
兄弟。
夕暮れ。
去っていった全てのものたち。
そして全てが朽ちていく、この琥珀の棺の中で。
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