雨の日のための小品








「ねえマスター、マスターはこんな話をどう思う?」
 ”One Note Samba”の甘い響きに雨音が跳ねる雨の真昼、珈琲をたのんだ客の一人がなにやら真剣な顔で話しかけてくる。その隣では常連客の一人が、やはりなにやらにやにやしながら……それでいて真面目な表情でカウンターに身を乗り出す。二人とも真剣、というにはいささか軽すぎるけれど、真面目に過ぎる程度には熱のこもった表情をしている。マスターはミルを挽く手を止めた。
「一体、なんです」
「いやね、この傍の公園での話なんだが、マスターは見たことありませんか?」
 チェシャ猫のような笑顔を消さないままに、常連客の片方が続ける。
 ―――水色の傘を差して、誰かを待っている娘の姿を。
「話には聞いたことがあったんですが、わたしは少し前に彼女の姿をみかけましてね」
 最初に話しかけてきたほうの客が首をひねりながら言う。
「あんな場所で誰かを待っているなんて、いまどきの娘さんとしては珍しいことでしょう。それで不思議だなあと思って覚えていたんですが、今日通りかかったら彼女がまた待っているんです」
 マスターはふと濡れた窓ガラスの向こうに視線をやり、水色の傘を差した娘の姿を想像してみた。公園、ということは、今の季節ならば滴るような緑のにじむ頃合だろうか。
 袖のない白いワンピースを着て、ずっと誰かを待っている若い娘。長いこと待ちぼうけをくわされているらしいのに、どこか楽しげな様子を崩すことはけっしてなく、いつも水色の傘をくるくると回しながら楽しげに待ち続けている。
 雨に滲む水彩画のような光景を脳裏に思い浮かべ、マスターは『たしかに珍しい』と思った。どことなく古風な光景は何十年も前の映画には相応しくても、闊達な現代の少女達に似合う物ではない。
「あんな様子で毎日毎日、不思議なことだなあと思いましてね。一体誰を待っているのかなあと話していたんですよ」
「俺はたぶん恋人を待っているだろうと思うんだよ。普通に考えればそうだろう?」
 カウンターに片頬杖をつく彼は、そう信じて疑いもしないらしい。
「あの年頃の女の子だ、わざわざ雨の中で人を待ってるなんて、恋人相手ぐらいしか思いつかないじゃあないか」
「ですが、恋人を待っていてあんなに待たされたんだったら、あんな楽しげな様子はしていられませんよ」
 一体どんな思うところがあるのか、こちらの客が真剣な表情で言う。
「あれは待つことそのものを楽しんでいる余裕のある雰囲気ですよ。デートの前なんかだったら、もっと切羽の詰まった緊張感といった物があるものだ。私はせいぜい友人か…… たぶん兄か弟でもまっているところなんじゃあないかと思うんですが」
「雨の中で兄弟を待ってるなんて、そんな女の子なんてそれこそいないんじゃあないかねえ。……ねえどう思うんだい、マスター?」
「……どうでしょうねえ」
 曖昧な笑顔で誤魔化して、マスターはカップを銀盆に載せてカウンターを出る。目の前からマスターが消えても、二人はさして気にしてもいないようだった。楽しげな雰囲気で言葉を交わし続けているだけ。
 真剣な顔をよそおった議論も、本当のところは雨の日のほんのお遊び。特に用事がないという今の世での一番の贅沢を満喫するにも、街は海の中のようになってしまっているのだ。
 道路のアスファルトも六月の長雨に濡れ、行きかう車のヘッドライトを黒い水面の下の魚のように見せているし、濡れたガラス越しの丘の眺めは、紫に濡れた印象派の絵画のようになってしまう。こんな日は、魚になりたくないのなら、家の中で静かにしているのが一番いい……
 ……マスターが窓際の席までやってくると、古いタイプライターの上に屈みこんでいた老婦人が顔を上げる。眼鏡の細い銀縁を指で直し、「ありがとう」と笑顔でカップを受け取った。
「いい雨の日ねえ。あんまりいい雨の日だから、原稿の進みも思わしくなくって…… そちらだとなんだか面白い話をなさっていたみたいだけど?」
 タイプライターの傍らに広げられているのは、泰西の言葉の印刷された異国の書物。彼女の言っている通り、この国の言葉に直されているのはその原書の数ページにも満たない物らしい。
「公園の傍で傘を差して人待ち顔の娘さんを見かけたと言う話をなさっているんですよ。一体誰を待っているのだろう、とね」
 言いながら、散らばった紙類をよけてミルクピッチャーを下ろす。老婦人は少し驚いたように目を丸くする。
 ―――その透明な灰色の目をいくつか瞬いて、次に浮かんだのはどこか柔らかく優しげな表情だった。
 マスターはややいぶかしく思いながら、続ける。
「恋人を待っているか、それともご兄弟でも待っているのではないかというお話でしたが、実際に見たことのない私ではなんともコメントしがたくてね」
「―――そう、そうなの。懐かしい話を聞いたわねえ」
 ぽつん、と呟く彼女に、マスターは目を瞬いた。老婦人はそんなマスターの顔を見上げ、少女のように悪戯っぽく笑った。
「あのねそのお話、私が女学生のころにも一度評判になったことがあったのよ。もっともその時は『恋人だ』と言って疑う人は一人もいなかったけれど」
「ええっ?」
 マスターはさすがに驚く。この老婦人が初々しい女学生だったころというと、ゆうに数十年は過去の話だ。同じように人を待っている娘がいたとしても、とても同じ人であるはずがない。彼女は何かを勘違いしているのではないだろうか――――
 さすがに疑いの表情をにじませるマスターを見、老婦人は微笑んだ。
「信じるのも信じないのもご自由ですよ。確かに不思議な話ではありますからね。―――でも、こんな雨の日には何がおこっても不思議じゃあない。そんな気もしないかしら?」
 そう言った老婦人は微笑み、上品に痩せた手でカップにミルクを注いだ。銀のスプーンでかき混ぜられるカップの中で、濃い色に淡い色が入り混じり、やがて梅雨の空のようにあいまいに溶けていく。



 ……数日後、雨の真昼。



 パンの入った袋を抱え、蝙蝠傘を差したマスターは公園の傍を通りかかる。そうして、雨の帳越しに人影を見つけた気がして、目を凝らした。
 ゆるやかに上る坂の途中、黒々と濡れた御影石の門扉を立てられた公園の入り口。白んだ幹のユーカリが枝をしなだれかかる下、水色の傘を差した娘の姿がある。
 穏やかな雨音に混じって、かすかに聞こえる低い鼻歌。娘は楽しげに歌を口ずさみながら、くるくると傘を回している。顔は見えない。ただ白いスカートの裾と、華奢なつくりのサンダルを履いた足。
 マスターは戸惑い、足を止めた。
 どこか滲むような色合いの、美しい水色をした傘。そうしてその傘をさし、どこか楽しげな様子で誰かを待っている娘。ほんの数日前、客二人と老婦人から聞いた話を思い出す。
 こんな雨の日に、誰かを待っている娘。いつまでも、いつまでも…… 一体、いつから?
 いくら不思議に思ったとしても、この道を通らなければ店に帰ることができない。マスターが足を止めていたのはほんの一時だった。
 濡れたアスファルトを踏みながら、ゆっくりと坂を上っていく。わずかに前にかしいで娘の顔を隠している傘の前を行き過ぎる瞬間、マスターは娘の顔を覗き込みたい衝動に駆られる。が、結局のところ二人は互いに関心をみせることもなくすれちがっただけだった。
 拍子抜けすらしない。客たちの話を信じたわけではない。けれど、たしかにあの娘にはどこか不思議な雰囲気があると、マスターもたしかに一瞬思った。言ってみれば人間らしい雰囲気の欠如。

 雨の日に咲く花のような、そんなつつましい喜びの気配。

 ふと、雲の切れる気配がする。マスターは蝙蝠傘をずらし、空を見上げた。見上げる空の向こう、さきほどまでは柔らかい灰色の空から降りしきっていた雨がやんでいる。空はもう暗い灰色一色ではなくなり、雲越しに差し込む日光が空を真珠母の多様な色合いに染めている。明るい灰色、淡い青、紫、そして白。
 雲の切れ目から日光が差し込み、金色の陽光がアスファルトの水面を撫でた。
 マスターは傘を畳み、まぶしいような気持ちで空を見上げる。と、ふと娘のことが気にかかり、肩越しに後ろを振り返ってみた。と、マスターは思わず目を瞬く。
 娘はそこにはいなかったのだ。
 おもわずぼんやりとして、マスターは坂の中ほどに立ち止まる。坂は真っ直ぐに続いている。娘が消えたとしたら、公園の中に行くほかにない。けれど、一体どうして?
 娘のいた辺りに視線を彷徨わせていて、ふと、マスターは娘の指していた傘の色を見つける。忘れていってしまったのだろうか。こんな一瞬で? 不思議に思いつつ、マスターは公園の入り口にまで引き返す。けれど、そこに傘は無かった。
 無論娘の姿もそこになく、ただ一群の紫陽花が花を開いているだけ。
 水色の紫陽花は雨にぬれ、まるで誰かを待っているかのようにゆっくりと花首を揺らしていた。




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