極東武侠異聞 
〜子作りしましょ☆〜



   /プロローグ


 古都ならば鶴岡市には、今を去る戦国の昔から、一刀の流派が存在している。
 一子相伝とされ、秘伝ならば門外不出。それゆえに世間に名を知られることも無い。わずかに、江戸時代後期の記録にこうある。公儀御様御用(こうぎおためしごよう)なら山田朝右衛門、四代である山田吉寛が、『耳袋』の著者として知られる根岸鎮衛に、先代から聞いた話であるとして語った話である。
 先代ならば、三代目朝右衛門吉継が、鶴岡へ出向いて御刀の試し切りを行うこととなった。はなはだ異例のことであった。朝右衛門は公儀のもの、いわば、江戸徳川幕府に任じられた処刑人である。同時に刀を検分すること、すなわち刀目利きとしても一流とされていた。すでに江戸時代も中期である。戦国の世のように堂々と人を切ることは無くなり、抜かれぬ刀であっても、「一ノ胴落可」、「御用不適」と目利きすることのできる朝右衛門は、刀剣の専門家として知れ渡っても居たのであった。
 従って、『決して失敗してはならない』といわれる斬首であり、『江戸徳川の御料に入れること適わぬ罪人』を内々に始末するため、山田朝右衛門吉継が呼ばれたのであった。
 しと々々雨の降る日を選んで、それは行われた――― と言う。
 密かに盛り土をして、つれてこられた罪人を見れば、顔には布がかけられていた。余程の事であろう、と吉継も内腑に感じ入るものを持たずには居られなかった。罪人は九十九人斬りの人斬りであるとも、恐れ多くもお上の血を継いだご落胤であるとも、あるいはさらに忌まわしい定めを負ったものである、とも伝え聞いていた。その真偽は今に至るまで判らぬ。ただ、吉継が向き合った罪人は、顔に白布をかけられていた、というだけであった。
 一刀の元にせよ――― というのが、お上からの達しであった。
 そのために、わざわざ拝受された刀が、その日、吉継の手にあった。だが、処刑を前にしたとき、吉継は、一人の男に声をかけられた。
 御家人であろうか、と思われた。だが、決して立派な風袋ではない。すりきれた着物を着ている。異様なのは、男が六尺にも届かんという巨漢であったということであった。
 男は吉継に耳打ちをした――― 怖れながら、朝右衛門殿に拝受された刀は、大根ひとつ切れぬナマクラで御座る、と。
 はなただ奇態な話である。疑いながらも吉継は白鞘を払い、検分した。だが、吉継はすぐに見てとらぬわけにはいかなかった。男の言うとおり、刀は鉛の棒にも等しい駄刀であった。拵えばかりは一尺七寸を超える業物だが、町民の持つ長脇差にも劣る、犬を追うのが精一杯、という代物である。いくら吉継といえど、これではとても、首など斬れぬ。
 然し、お上のお達しである。御刀試し切りをしくじり、罪人の首を落としそこなった、とでもなれば、山田朝右衛門一門後々にまで残る禍根ともなろう。悩む吉継に、男は言った。一時自分を朝右衛門門下の門弟としてはくれないかと。もしも自分に任せてくれるのならば、見事、一刀の元に首一ツを落とそうと。
 悩む吉継に、男は、その刀とは別に腰にあった脇差を貸すように言った。
 
 此脇差ニテ巌一落可申候―――

 今、朝右衛門手にある脇差、その脇差を持って、巌(おおいし)をひとつ、両断して見せよう、と。
 仮にも公儀御用達を申し付かった身である。恥しいような刀を持ってはいない。だが、逆を言えば、ただそれだけという代物である。巌を断ち切るなどという常人離れした技など、とてもではないが、信じられたものではない。
 だが、吉継は男に脇差を渡した、と言う。

 可然様之候―――

 するようにしてみるがいい、と言ったのであった。
 吉継も、半信半疑だったのであろう。
 けれど、さすれば、男は一刀の元に、巌を断った。
 五尺はあろうかという、胡麻斑の入った大岩であった、とその書は伝える。
 その後のことは書いていない。吉継が不始末にて仕置きを蒙ったという伝も無いのだから、さだめし、吉継がその男を俄か弟子に仕立て上げて罪人を見事処刑してのけたのか、あるいは、それ以外の方法を考えてごまかしでもしたのか。根岸鎮衛は『吉寛殿甚酒召候』と書き、『其後再聞事能ズ』と書く。
 吉寛が泥酔した上で言ったことであり、後に聞いても再び同じことは言わなかったため、確証が取れなかった、というのだ。
 ただ一つだけ、書き付けてあることがある。

 其男唯屠龍一刀流ヲ名乗候。

 屠龍一刀流。
 はるか時を隔てて唯一、その名が記された、記録である。



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