―――私の名前は香乃。
でも、この名前を呼ぶ人は誰もいません。私には、友達が、いないから。
その日、後ろのドアから教室に入っても、いつものように、誰も振り返りませんでした。私に挨拶をする人はいません。鞄からノートと教科書を取り出して、机の中に移そうとすると、何かがカサリと音を立てました。
机の中には、紙包みが入ってました。私はすこし嫌な気分になりました。中身はたぶん、剃刀の刃か、汚物のたぐい。こんなことは今までに何回でもあったのです。取り出してみると、ちいさな封筒でした。封筒はちいさく平たくて、何が入っているのかも分かりませんでした。
不思議に思いながら開けてみると、なにか、ちいさなものが、ころりと転がりだしてきました。
それは、ビーズ玉のようなものでした。つややかで、真っ黒で、まん丸で。いったいなんなのだろう、と私は目を瞬きました。
「それはね、花の種だよ」
私はおどろきました。校内で、誰かが私に話しかけてきたなんて、どれくらいぶりのことでしょう。振り返ると、そこに、少女が一人立っていました。
クラスメイトの一人でしょうか。私と同じ紺色のセーラー服を着ていました。花びらのように白い肌と、やわらかくウエーブのかかった髪を腰までたらした彼女の名前を、私はしばらく思い出せませんでした。そんな様子を見て、私の戸惑いに気付いたのでしょう。彼女は笑いました。ぽっと光の灯ったような、明るい笑顔でした。
「私、花耶だよ」
「花耶…… さん?」
彼女がこちらにやってくると、甘い香りが鼻をくすぐりました。私は心臓が跳ねるのを感じました。
「それはね、花の種」
花耶さん…… 私はまじまじと彼女の顔を見ました…… は、顔を近づけて、私の手の中を覗き込みました。
「あの…… 机のなかに入っていたの」
私が答えると、「ふうん」と彼女は答えました。それからしばらく私の顔を見つめていたかと思うと、にこり、と笑いました。
「これね、誰にも見つからないように育てるといいよ」
「え?」
「光はあたらなくても平気だから。どこか、部屋のなかにでも隠しておいてね。それからね、花って、どうやったら咲くか、知ってる?」
私は返事が出来ませんでした。胸がドキドキと鼓動していて、なんと言ったらいいのかも分からなかったのです。彼女はそれくらい綺麗でした。
「し、知らない……」
彼女は、にこりと笑い、私の耳元に唇を寄せました。あたたかい吐息が耳たぶに触れました。
「あのね、……をあげるといいの」
「えっ?」
私が驚き、思わず聞き返しても、花耶さんは、もう、二度は言ってくれませんでした。最後にもう一度だけにっこりと笑うと、くるりときびすを返してしまいます。スカートの裾がふわりと翻りました。私は後姿を呆然と見送りました。
家に帰ると、私は、庭の片隅に捨て置かれていた鉢を拾い、土を入れて自分の部屋に持ち込みました。
花耶さんの言ったことを本当に信じたわけではありませんでした。からかわれているのかもしれない。それが正直な気持ちでした。
でも私は、誰かに話しかけられたことは本当に久しぶりでした。だから信じてみたかったのかもしれない。『種』を土に埋めました。そうして、筆箱の中からカッターを取り出しました。
本当に、信じていたわけではなかったのです。
―――翌朝、土の上には、緑色の葉が二つ、広がっておりました。
私が次に花耶さんと出合ったのは、図書室でのことでした。
モスグリーンのカーテンの陰のお気に入りの席で、植物の図鑑を広げていると、ふと、誰かの影が本に落ちました。私は顔を上げました。
「こんちわ」
「あ…… 花耶、さん」
どぎまぎしながら見上げる私に、花耶さんは、やわらかい髪をゆらしながら、「何してるの?」と問いかけます。手元をのぞきこみました。
「お花を調べているのね。もしかして、あの種の正体を調べているの?」
花耶さんはころころと笑いました。銀の鈴を転がすような笑い声でした。
「みつかりっこないじゃない。ねえ?」
花耶さんは親しげに私の顔を覗き込みました。人から笑われることは嫌いだったはずの私なのに、私は、ぎこちなく花耶さんに笑い返しすらしたのです。
「芽、出た?」
「うん」
「いったとおりでしょ。効いたでしょ?」
「うん」
「もっとたくさんあげると、どんどん大きく育つよ。そうしたら、きっと素敵なことがおきるよ。あの花はね、育てると、きっとお願いをかなえてくれるよ」
花耶さんのいうことの意味は、私にはよく分かりませんでした。花耶さんはまた笑いました。花が咲くようにきれいな笑顔でした。
芽は、しだいに、大きくなっていきました。
私は毎日指の絆創膏をはがし、搾り出した数滴の血を、緑の芽の上に垂らしました。葉が二枚から四枚に増え、四枚から八枚に増えても、澄んだ緑の色は変わりませんでした。
私は鉢をベットの下に置き、昼間は隠しておいて、夜には月の光に当てました。少女の血で育っていく植物には、そのほうがふさわしい気がしたからです。芽は健やかに伸びていき、まもなく、芽と呼ぶことはできないほどに大きくなりました。そして、ある日、花につぼみがついたのです。
「花耶さん」
それは、屋上でのことでした。
私の学校の屋上からは、街を一望に見渡すことが出来ます。その日は空は明るく晴れていて、雲が早く流れておりました。風は花耶さんの長くてやわらかい髪もゆらしておりました。
髪を片手で押さえて振り返った花耶さんは、私を見て、うれしそうに笑いました。そうして、手を差し伸べました。
「手、見せて」
私は花耶さんに手を見せました。
花耶さんは、指先に貼った絆創膏を見て、形の良い眉をすこしだけひそめました。そうして、形の良い唇をとがらせました。
「これだけしか、あげてないの?」
「う、うん」
「だめだなぁ」
だめ、と彼女に言われたことで、私は、胸の中が縮みあがるような気がしました。
もしも、ここで彼女が振り返り、私を見捨てて、屋上を出て行ってしまったらどうしよう。そう思うと、胸の奥が締め付けられる思いでした。私は必死の思いで聞きました。
「駄目、だったら、どうしたらいいの?」
かすれた声で聞くと、彼女は、「あのね」と子どもを注意するような調子で言いました。
「もっといっぱいアレをあげればいいの。そうしたら、きっと、きれいな花が咲くから」
「もっと、たくさん?」
「うん。あのね、あの花が咲いたら、きっといいことがあるから。だから、ためしてみて。ね?」
彼女は笑いました。きれいな笑顔でした。私はただ頷きました。実際、ほかに、どんな選択肢が私にあったでしょう。
その日、私は、薬局に寄って、真新しい安全剃刀を買ってきました。
細い筋になった血が、手首から滴り落ちると、卵形のつぼみは揺れました。まるで、よろこんでいるように思えて、私はとても嬉しかった。痛みなどはものの数にもはいりませんでした。
そうして、その夜、私は、花が咲くのを見たのです。
その日は満月でした。真夜中には月が中天に昇り、窓から、薄く白っぽい光を差し込ませておりました。そんな中、私の手首からおちる血を根からすいあげ、花は、ゆっくりとひらいたのです。
それは、とても静かで、ゆるやかな様でした。まるで睡蓮の花が開くように、花びらが一枚一枚、こぼれおちるようにして開いていきました。二重、八重、と重なった花びらは、薔薇にも、芙蓉にも似ているようで、まるで似ていないようでもありました。
淡いクリーム色にほのかな紅を差した花弁は、ふんわりとやわらかく、布を重ねたスカートのようであり、花嫁のかぶるベールのようでもありました。
花は、かすかに香りました。ほんとうにほのかな香りでした。電気を消した部屋の中、私は、布団をかぶって、机の上に置いた花を見上げておりました。そうして、幾重にも重なった花弁が開いたとき、私は、その中央に、不思議なものを見たのです。
それは、普通の花ならば、花芯のあるべき場所だったでしょう。そこに、わずかに、茶色かかった淡い色のものがこぼれていました。それは、細い、月光に金色に光るほどに細い、髪の毛でした。花びらと変わらぬ色の白い頬。わずかに青ざめた、ふっくらとした唇。閉じたまぶたの縁の長いまつげ。
それは、少女の顔でした。
とうとう咲いた花の中心には、少女の顔があったのです。―――そうしてその顔は、どこかしら、花耶さんに似ているようにも思えたのでした。
いったいどういうことなのだろう? 私は考えました。もしかして、花耶さんは私の想いを知っていたというのでしょうか。
花耶さんと友人になれれば、という私の想いを。
私の願いは、とてもささやかなものでした。憧れ、といってもいいかもしれない。私は花耶さんのことを何も知らない。ただ、私は、花耶さんに、私を友人だと思ってもらいたかったのです。
態度で示されなくても十分でした。彼女が私を想っていてくれれば。そして、ときどき、香乃、と名前を呼んでもらえれば、それでよかったのです。
相変わらず、学校では、誰も私に話しかけようとしませんでした。そのくせ、花に与えるための傷の手当てで、手首に包帯を巻いているということに誰かしらは気付いたようで、気持ち悪い、ついに手首を切った、などと裏でささやかれていることも知っていました。
けれど私は平気でした。私にはもう、花耶さん、そして、私の花のこと以外はどうでもいいことになっていたからです。私は自然、閉じこもりがちになり、家にいるときはずっと、花を眺めてすごしました。
母が部屋を覗きにきたら困るので、部屋のドアには鍵をつけました。日光は花に悪いような気がしたので、昼間はカーテンをぴったりと閉じてすごしました。そうして私は日に一度、花に血を与え、そして、やわらかい花弁を愛でてすごしました。
「ねえ、あなた、いったい誰なの?」
私は、ときおり、花に話しかけました。花の中の少女は眠っていて、返事をするとも思えなかったのですが。
「いつになったら、あなたは目を覚ますのかな。そうしたら、私の友達になってくれる?」
花は次第にに大きくふくらみ、ドレスの裾のように広がった花弁をときおり落としました。けれど、花は散っても、花の大きさが変わることはありませんでした。やがて、花の奥からは、少女の体の部分が見え始めてきたからです。はじめはほっそりとした白い喉首が。次には華奢な鎖骨と丸みを帯びた肩が。髪はとても長く、ゆるやかなウエーブがかかっていて、花弁からこぼれおちました。私がほんのときおり、月の夜に窓を開けると、髪はかすかな風にそよぎました。
花からは、少女が生まれでようとしているのだ、と私は思いました。そうして、その想像は私を陶然とさせました。私のまいた種から生まれ、私の血をあたえて育てた少女。それは、きっと、私の子のように私を愛してくれるに違いない。そうして、しかも、その少女は、花耶さんにとてもよく似ているのです。
私は想像しました。花から生まれた少女が、私を、香乃、と呼んでくれる瞬間を。そう思うと、おもわず、花を抱きしめたい衝動に駆られました。けれど、それは無理な想像でした。細い茎と葉、やわらかい花弁だけで出来た花は、そうするには、あまりにも脆弱でした。
二度目の満月が来るころ、異変は、起こりました。
少女は、そのころには、もう、腰まで生まれでていました。すべらかな背中や、ほっそりとした腰。胸の淡いふくらみまでが露になり、長い髪がその白い裸体を包んでおりました。あとほんの少し、ほんの少しで少女が生まれる―――
そんなときになって、花が、突然、葉を落とし始めたのです。
緑色の薄い葉は、端から黄色く変色して、はらはらと散り落ちました。あきらかに病変だと一目で分かる染みが茎に浮かびました。少女は、いままでのように美しくとも、肌の色が蒼白になったように感じられました。私は狼狽しました。いったいこれはどういうことなんだろうと。
今までと同じように、血は与え続けていました。血が足りないのかとも考えて、足を切ってさらに与えたこともありました。けれど、少女が癒え、花が健康を取り戻す様子は見られませんでした。
いったい、どうしたんだろう―――
花から目を離すことができなくなって、いつしか、私は、学校に行くこともなくなっていました。
はじめ、剃刀で切り裂いていたのが、すぐにもどかしくなりました。静脈を切っても、流れ出る血はたかが知れています。カッター、解剖用の使い捨てメス、そして包丁。私はありとあらゆる刃物を集め、自分の体から血を絞り取りました。
暗い部屋に四六時中閉じこもって、自分の腕や足を傷つけ続けている私を、両親はどう思ったのでしょう。精神科を受診することを進められもしましたが、諾とすることはできませんでした。目を放している間に花が散ってしまったら、少女が死んでしまったら、私はいったいどうすればよかったというのでしょう。
心配した両親は、クラスメイトを呼びもしたようでした。幾度か誰かがドアを叩き、その中には担任もいたようですが、私にはその名前すら思い出せませんでした。
私はときおり、どうしようもない不安と焦燥に駆られて、鉢を抱きしめて泣きました。目の前で恋人が死にゆくというのに、何も出来ないという無力さ…… といえば、私の感じていた感情を一部でも分かっていただけると思います。
そして、ある日、ついに、彼女がやってきたのです。
とんとん、とドアがノックされたとき、私は、いつものようにベットに座ったまま、まんじりともせず、机の上の花を見つめていました。
一枚の葉が、腐り、また、落ちようとしていました。葉の数は、すでに、数えることが出来るほどに減ってしまっていました。これ以上どうすればいいというのでしょう。
「ねえ、聞こえる? 私だよ」
その声を聞いたときの私の驚きを、どう、説明すればいいでしょうか。
私は慌ててドアに駆け寄りました。ドアの向こうに立っていたのは、彼女――― やわらかな微笑を浮かべた花耶さんでした。
花耶さんは、私の姿を上から下まで見回しました。そうして、一言、「すごい格好だね」と言いました。
私は消えてしまいたいような羞恥に駆られました。しわくちゃになったパジャマ、傷だらけの腕、櫛さえ通していない髪。それに対して、紺色のセーラー服を着た花耶さんは、初めて出会ったときと同じくらい瑞々しく、きれいでした。彼女は部屋の中を見回すと、机の上に置かれた鉢を見ました。そうして、納得のいったような顔をしました。
「なるほどね。だから、学校に来なかったんだ」
やわらかい髪をゆらしながら、机の前に立った花耶さんは、しろい両手で花を包み込みました。
「かわいそうにね、もう、こんなに大きくなったのに、枯れてしまいそうなんだ」
花耶さんは、一目で全てを分かってくれたのです。私は口を開き、また閉じました。何も言葉は出てきませんでした。ただ、ぼたぼたと涙が零れ落ちました。
花耶さんは、私の花の存在を、すべて、分かってくれました。そうして、花から生まれ出る少女の存在を、ひいては――― 花耶さんのことを、どれだけ想っているかということを。
「あとちょっとだけなのにね。栄養が足りないんだよ」
「でも、……血、あげてる…… のに」
花耶さんは、哀れむように私を見ました。
「足りないの。ただ、傷口から搾り出すだけじゃ。それじゃ枯れちゃう。もっと必要なの」
「……どう、したら、いいの?」
花耶さんはふわりと微笑みました。蕩けるように美しい笑顔でした。
彼女は、私の机の上に放置されていた安全剃刀を取りました。そうして、みっともなく泣き続ける私の手を取って、それを握らせました。
そうして優雅に手を伸ばすと、花を折り取りました。花を片手に、花耶さんは私に笑いかけました。
「さ、ここを切って」
伸ばした一本の指で、花耶さんは、私の左胸を抑えました。
「ここから、直接、吸わせるの」
私は、ようやく、花耶さんのいうことの意味を悟りました。そうして、同時に驚きました。なんでいままでそんな簡単なことを思いつかなかったのかと。
心臓から、直接、血を吸わせる。
なるほど、それだけ豊富な血を与える方法は他には無いでしょう。けれど、それが同時に何を意味しているのかも分かりました。恐怖は感じませんでした。ただ、一つだけ気になることがあっただけで。
「あの、あのね、花耶、さん」
花耶さんは小首をかしげました。私は、ぼたぼたと涙を垂らしながら、呻くように問いかけました。
「ほん、ほんとう、に、……願いが、かなう、の」
花耶さんは微笑みました。蕩けるようなうつくしい笑みでした。さながら、天使のように。
「うん、かなうよ。……きっと、『香乃ちゃん』って呼んであげる。毎日毎日、きっとね」
きっと、ね。
私は、笑いました。涙と鼻水をたらしながら。その笑顔はきっと醜かったでしょう。でも、いいのです。花耶さんが私に笑いかけてくれるのですから。
私は包丁を手に取ると、パジャマの前をはだけ、
……一気に、左の胸を、切り裂きました。
―――あくる日、一人の少女が、刃物によって自殺を図ったというニュースが、地方新聞の片隅に、ちいさく掲載された。
少女の遺骸からはほとんどの血液が失われていたということ、遺書が残されていなかったということから、いくらかの事件性が目されもしたが、それが事件らしい注目をされることもほとんどなかった。
少女には友人も少なかったため、葬式に参列したものは少なかった。その中には、当然のように、長い茶色の髪の少女の姿は無かった。実際のところ、彼女は、少女の学校に通っている生徒ですらなく、その顔を知るものも一人もいなかったのだから。
白い花輪の並べられた通りを、ほかの通行人たちに混じって、二人の少女が通り過ぎた。二人はまるで双子のようによく似ていて、長い、ウエーブのかかった髪をなびかせ、白い花の花びらのようにうつくしい肌をしていた。
少女の一人が足を止める。ほんの一瞬だけ、葬儀の営まれている様を振り返る。もう一人の少女が、「どうしたの」と問いかける。
年恰好には見合わぬほどのあどけない様に、もう一人の少女が、「なんでもないよ」と彼女の頭を撫でた。そうして、ふと、思いついたように、「そうだ」と言った。
「君の名前は『香乃ちゃん』にしよう。これからずっと、毎日、『香乃ちゃん』って呼んであげるよ。ね?」
「うん!」
もう一人の少女はうれしそうに頷いた。少女は――― 花耶は、微笑んで、香乃と名づけた少女の、頭を撫でた。
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