ハミング・フィッシュ
リイはガラスの国に住んでいました。生まれた時からずっと。ほかのみんなも、ずっと、ガラスの国に住んでいます。
昼も夜も、しずかな白い光が降り注ぎます。白い骨のサンゴにひかりがきらめき、地面の白い砂を照らします。住んでいるのはみんなリイとそっくりの人たちです。赤い鱗、黒い模様、大きな目。
「どうしてここはこんなに狭いの?」
リイは昔、聞きました。
「隅っこから隅っこまで泳いでいっても、すぐに端っこにたどり着いてしまうの。端っこはみんなガラスで出来てる。ねえ、どうして?」
「おかしな子だね」
その言葉を聞いた人は、笑いました。
「だってここはガラスの国だもの。世界の果てまでガラスで出来ているのはあたりまえでしょう?」
そうかなあ、とリイは思いました。
分厚いガラスの向こうは、なんだか青っぽい陰にかくれていて、なんだか何がいるのかよくわかりません。ゆっくりと通り過ぎていく大きな影たち。暗い影を隔てて、白く光っているものは、ほかのガラスの国でしょうか。ここには暗い闇を隔てて、それぞれ違う人たちの住んだ、たくさんのガラスの国が並んでいるのです。
ときどき、なにか大きなものがガラスの向こうから覗き込みます。リイの体と同じくらいの大きな目玉が覗き込んでくることもあります。五本の指がガラスに触れることもあるのでした。リイは銀色の泡を吐きながら、そんな光景を飽かず眺めていました。
「おかしな子だね」
ほかの大人たちと、子供たちは、いいました。
「そんなものをみたって、何にもならないじゃないか」
それはみんなの言うとおりだ、とリイは思いました。でも、リイはこのガラスの国よりも、外の世界を見るほうが好きだったのです。白いサンゴと白い砂の、白い明かりの降り注ぐ国よりも、青い闇の向こうのほうが、ずっと、ずっと、すてきなところであるように思えるのでした。
ある日、ガラスの国に、あたらしい人たちがやってきました。
あたらしい人たちは、どういう理由があるのか判らないけれど、突然ガラスの国につれてこられて、とても戸惑っているように見えました。リイたちとおなじような赤いひれと鱗をしているものもいましたが、紫色のひれや、黄色い模様の人たちもいました。けれども、体の大きさや、顔立ちを見てみると、そのひとたちもやっぱりリイたちの仲間でありました。
「ここはどこなの?」
とりわけ赤い鱗をした女の子は、そう言って、泣きました。
「波が無いわ。光も無い。お月様はどこにいったの? イソギンチャクや海藻の花は?」
波とはなんでしょう。光や、お月様ってなんでしょう。リイは彼女のそばにいって、詳しいことを聞きたいと思いました。けれど、それよりもさきに、大人たちが女の子に近づいていって、ぴしゃりと顔をたたきました。
「そんなことを言ってはいけない」
大人たちは、聞いたことも無いような、厳しい口調で言いました。
「だって、ここはガラスの国なのだから」
あたらしくやってきた人たちの中に、ひとりだけ、泣かないで静かにしている人がおりました。それは、体にきれいな青い模様の入った、青い人でありました。リイはそんな人を見たことが無かったので、とても不思議で、とてもきれいだと思いました。その人はなにも言いません。けれど、リイは、ずっとその人のことを気に掛けておりました。
ふらふらと泳ぎ回り、ガラスにぶつかるその人は、どうやら、周りがよく見えていないようでありました。
「かわいそうに、捕まる時に目をやられてしまったのだよ」
大人たちの一人が言いました。
「でも、よかったね。ここにはわたしたちを襲うものは何もいない。外の世界にいたら、すぐに食べられてしまっただろうよ」
「外の世界ってなに?」
リイは聞きました。大人たちは、誰も応えませんでした。
その人は、何も言わず、大人たちのなかに溶け込むこともしませんでした。青い模様が珍しすぎたということもあったのでしょう。いつもひとりぼっちで、白いサンゴの入り組んだ、ちいさな穴の奥に隠れていました。そして、その穴を気にしていて、リイはあるとき、不思議なことに気付いたのです。
その穴の中から、不思議な声が聞こえてくるのです。
ちいさな、ちいさな、銀色の泡がぶくぶくいう音に隠れてしまうような、ちいさなちいさな声でした。けれど、それは、リイの知っている声とはまったく違うものでありました。独り言のようにも、誰か、ここにはいない不思議な人に語りかけているようにも聞こえました。
そしてある日、リイは、思い切って、その人の穴をたずねていったのです。
「こんにちは」
その人は、黙り込んだまま、白いサンゴの穴に隠れていました。青い模様と長いひれ。リイより年嵩のようでありましたが、けれど、まだ若いようでもありました。
「ねえ、リイとお話をしない?」
その人は目を上げました。銀色ににごって、真珠のような目でありました。
「なあに?」
「きみに会いに来たの」
「どうして?」
「ねえ、教えて。さっき、何をしていたの?」
その人は、真珠のような目で、おどろいたようにリイのほうを見ました。視線はわずかにずれておりました。
「ぼくは、歌を歌っていたんだ」
「うた? ってなあに?」
リイは不思議に思いました。そんなことば、聞いたことも無かったからです。
「しらないの?」
「うん、知らない」
その人は、だまってリイをみておりました。何かを確かめようとしているようでもありました。もしかしたらリイが見えないのかもしれない。そう思ったリイは、その人のすぐそばまで泳いでいきました。
体の横に青い筋がはいっていました。体中が真っ赤なリイとはすこし違うようだ、と思いました。そういわれてみれば、あのときこのガラスの国に現れた人たちは、みんな、どこかしらふうがわりでありました。なにかを知っているようで、いつも嘆き悲しんでばかりいます。けれど、そんな様子を見せると、大人たちが尻尾でぶつので、みんな、次第に何も言わなくなっていったのではありましたが。
「ねえ、あのね、リイの名前はリイっていうんだよ」
リイは、ひれをふりふり、言いました。
「きみの名前はなに?」
その人は、しばらく迷ってから、言いました。
「アオイ」
リイは少し考え込みました。
「青いから、アオイ?」
「さあ、わからない」
その人は、やっと、少し笑ったようでありました。リイも笑いました。その人が笑うのが、とてもうれしかったのです。
アオイの声は、とても低くて、聞き取ることがやっとでした。よく見ると、片方のえらが動いていません。そのせいで声がとても小さいのです。
「アオイちゃん、うたってなあに?」
「歌っていうのはね、こういうもののことだよ。」
そういって、アオイは声を出しました。言葉にならない声。リイはとても不思議でしかたありませんでした。そんなもの、聞いたことがありません。
アオイが歌っているのは、波のことや、星のことや、青い深みのこと、そして、愛のことでした。
この海の広さはこんなにも広い、空の上の星はあんなにもうつくしい、そして、海の深みはとても深い。そうして、私のあなたへの愛は、それよりも大きい。
「アオイちゃん、それ、なんなの?」
アオイは歌を止めると、少し、寂しそうに笑いました。
「恋の歌だよ」
けれど、ぼくにはもう、恋はできないけれど、とアオイは言いました。リイは驚いて物も言えませんでした。
ガラスの国でも、人たちは恋をします。けれど、こんな歌など歌いません。みんなそれぞれ卵を産んで、てきとうな場所に放置しておくと、やがてそれが引揚げられて、卵は子どもになって戻ってきます。そういうものだと思っていたのです。
「みんなそんな歌なんて歌わないよ」
「だって、ここには、星も波も、海の深みもないもの」
アオイは言いました。
「こんなところで恋をしても、たくさんのすばらしいものについての歌なんて、作れないもの」
リイはますます驚きました。
「じゃあ、今の『うた』は、アオイちゃんがつくったの?」
うん、とアオイは応えます。リイは驚き、また、興奮しました。こんなすごい話は聞いたことがありません。
「すごいすごいすごい!! 『うた』ってすごい!」
「でもね、あまり人には言わないで」
「……なんで?」
「ここの人たちは、どうやら、歌を捨ててしまっているから」
アオイはさみしそうに言いました。
「しかたのないこと、かもしれないけれど」
「どうして? わかんない。でも、『うた』ってすごいね、アオイちゃん。また聞きにきてもいい? リイのために『うた』をしてくれる?」
アオイはちょっと笑いました。そして、いいよ、と言いました。
それから、リイは、アオイの穴に通うようになりました。
アオイはとてもいろいろなことを知っておりました。海のこと。波のこと。星のこと。恋のこと。
「ここは、水族館。そしてぼくたちの名前はハミング・フィッシュっていうんだ」
ある時、アオイがそれを教えてくれた時には、リイはとても驚いたものでした。
「水族館って何? ここはガラスの国じゃないの?」
「ガラスで出来た水槽に、魚を閉じ込めて、人間たちが見られるようにする。それを水族館って言うんだ」
「ハミング・フィッシュって何?」
「ぼくたちの種族の名前だよ。ぼくたちは歌を歌うから、ハミング・フィッシュっていう」
ぼくたちは、南の海のサンゴの森にすんでいたんだよ、とアオイは言いました。
サンゴの森は、このガラスの国にある白い骨のサンゴとは違い、赤や青、さまざまなうつくしい色をしているのだとアオイは言いました。昼には太陽の光が差し込み、夜には星と月の光がゆらめきます。大きな魚や、きれいだけれどおそろしいイソギンチャクの花などによって命を落とすこともあるけれど、サンゴの森は、それはとてもたのしいところだということでした。
ぼくの友達には、ずっとイソギンチャクに隠れているおくびょうなクマノミや、体中がまっさおな空色をしたルリスズメなんかもいた。みんな毎日いっしょうけんめい歌ったり踊ったりしてくらしていたよ。ときどき、とてもおおきなサメが泳いでいるのを見たりした。ぼくたちはあのサンゴの森で、とてもしあわせに暮らしていたんだ。
どれもこれも、リイには想像もつかない、おとぎ話のようなお話でした。けれど、リイには不思議で仕方がないことがひとつだけありました。
「でも、そんなにすてきなところに住んでいたんだったら、どうしてこのガラスの国にやってきたの?」
アオイは、そのとき、とても悲しそうな顔をしました。
「人間に捕まってしまったんだよ。この水槽につれてくるために」
アオイは、目が悪く、片方のえらを満足に動かすことが出来ませんでした。その怪我をしたのは人間に捕まった時なのかもしれない、とリイは思いました。思うと、とても悲しくなりました。
あのときやってきたほかの人たちは、もう、みんなのなかに溶け込んで、いっしょにおしゃべりをしたり、白い骨のサンゴのあいだでまどろんだりしておりました。このガラスの国にいるかぎり、おなかがすいて死ぬ心配も、他のなにかおおきな生き物におそわれて死ぬ心配もありません。それはいいことなのだと大人たちはいいました。そのとおりなのかもしれません。けれど、それがほんとうにいいことだとしたら、どうしてアオイがこんな風に傷つかなければならなかったのでしょう?
そんなとき、リイはアオイによりそって、しずかにひれを動かしておりました。うまれたときからガラスの国に住んでいたリイには、アオイを慰めるようなことをいいたくとも、何も言葉がでてこなかったからです。
リイはいっしょうけんめい考えました。自分がアオイにしてあげられることが何か無いかと。
そして、やっと思いついたことがひとつあったのです。
それは。
「ねえ、アオイちゃん、リイに『うた』をおしえてくれないかな?」
それを聞いたとき、アオイは、たいそう驚いた様子をしました。
「どうして? 」
「だって、リイもアオイちゃんみたいに歌えるようになりたいんだ」
「ここには歌うべきものも無いのに」
「でも、アオイちゃん、リイといっしょに歌ったら、たのしいでしょう?」
それを言われると、アオイは、黙り込みました。
「ねえ、リイ、アオイちゃんがすこしでも楽しい気持ちになるようにしたいんだ。だから、リイに『うた』を教えて。リイといっしょに歌おうよ」
リイは、一生懸命でした。なぜなら、アオイがいつもさみしい顔をしているのが、耐えられなかったからです。
白い砂に、白い骨のサンゴ。白い明かりの差し込むガラスの国は、さみしいけれど、うつくしい場所でありました。
そして、たくさんの仲間たちがいます。彼らは歌を捨ててしまってはいましたが、それでも、それなりにはしあわせそうでした。他にいくところがないと判れば、ガラスの国は、きれいで安全なところでした。
けれど、アオイには、ガラスの国が見えないのです。
えらを傷つけて、あまりおよげないアオイは、ほかのみんなの仲間に入れないのです。
そんなアオイに残されているものは、『うた』だけなのだとリイは思いました。だったら、自分もアオイのために『うた』を歌うべきだと思ったのです。そして、それこそが、自分がアオイにできるたったひとつのことなのだとリイは思ったのでした。
アオイはじっとかんがえているようでした。何を悩んでいるのだろう、とリイは思いました。
けれど、アオイはやがて、言ったのです。
「歌をおしえるわけにはいかない」
そして、リイに背を向けました。
「もう、二度と、ぼくに会いに来ないでくれ」
それ以降、アオイが、サンゴの穴にリイを迎えてくれることは、なくなりました。
リイはひどく悲しみ、沈み込みました。どうしてアオイがリイを拒んだのか、リイにはまったくわからなかったのです。
リイにそんなに『うた』を教えたくなかったのだろうか。もしかしたら、海を知らないリイが、おこがましくも『うた』を歌おうとしたということが腹立たしかったのかもしれません。けれど、どれもこれも、会いにいっても顔1つ見せてくれなくなったアオイ相手に、考えてもわからないことでした。
そして、相変わらず、ガラスの国では、白い砂と白い骨のサンゴに光が降り注ぎ、分厚いガラスの向こうを、いくつもの影が通り過ぎました。
それが『水槽』の前をとおる『人間』であることを、今のリイは知っていました。自分たちの住んでいる『水槽』の下に、『ハミング・フィッシュ』の名前が書かれたプレートが止められているということすら、今のリイは知っていました。それを知ってしまうと、ガラスの国はひどく狭く味気なく寂しい場所でありました。本来の海を知らないリイにとってすらそうでした。
あのとき、アオイといっしょに訪れた人たちは、もう、たわいもなく本来の住人たちに溶け込んでしまい、今では見分けることすら困難でした。鮮やかな赤い鱗に、黒い大きな目。模様。中には黄色いひれを持ったものや、オレンジ色の模様をもったものもおりました。けれど、青い模様の人はひとりもいません。青い模様に盲いた銀の目をしているのは、アオイただひとりでありました。
人々は静かに日々を暮らしました。ひそめた声でおしゃべりをして、笑うことはまれでありました。人々にはときおり恋をするものもありましたが、そこには、アオイの歌ってくれたような、恋をたたえる歌はありませんでした。
リイは思い出しました。毎日のように。焼け付くように強く。
―――海はとてもひろい、星はとても遠い、ふちはとても深い。けれど、私の愛はそれより大きい。
そして、ある日、恐ろしいことが起こったのです。
「出て行け!」
「このガラスの国から出ていけ!」
叫び声は、リイの耳にもすぐ届きました。それくらい小さなガラスの国だったからです。
いそいで泳いでいったリイは、おそろしいものをみました。人々がガラスの国の水面近くにあつまって、誰かを囲んでいるのです。人々の赤い鱗やひれが翻り、まるで花が咲いているようでした。囲まれているのは、青い筋のある痩せた人でありました。それは、アオイでありました。
リイは悲鳴を上げかけ、あわててそれを飲み込みました。それぐらい、人々の様子は常軌を逸していたのです。
囲まれたアオイのひれは欠け、傷ついた様子でした。にげようとふらふらと泳いでいくたびに、誰かに小突かれて中心へと押し戻されます。そのアオイへと誰かが語り掛けました。ガラスの国で一番の長老でした。
「お若いの。おまえさんは、どうして掟を破りなさる?」
アオイは、震える声で答えました。かき消されそうなほど小さな声で。
「掟ってなんだ」
「歌ってはならぬ。海を思い出してはならぬ。お前さん、この不文律を知らなかったのかね」
リイが、大人たちの言葉から、『海』という言葉を聞いたのは、これが初めてでした。
鱗のところどころはげかけた長老は、おだやかにアオイに語り掛けました。
「ここはガラスの国だ。どうあがいたところで海には戻れぬ。だから、忘れようと皆がしている。けれど、お前の歌を聞いていると、皆が海を思い出してしまうのだよ」
「だって、ぼくたちは、ハミング・フィッシュじゃないか」
答えるアオイは、毅然として見えました。
「僕たちは恋を歌うために生まれてきた。海の美しさと、はてしなさを歌うために生まれてきたんだ。どうしてそれが歌を捨てられる?」
「おろかものめ」
長老は悲しげにつぶやきました。
「ならば、お前の居場所は、この国にはない」
その瞬間、大人たちが、動き出しました。
「殺せ!」
「この国から追放するんだ!」
アオイは身を翻しました。逃げようとしたのです。けれど、目の悪いアオイを、大人たちが、逃がすはずがありません。
銀の花びらのように、鱗が飛び散りました。
大人たちに食いちぎられて、みるみるアオイの鱗が散りました。ひれが食いちぎられ、えらをえぐられ、血の匂いが水に混じります。リイは白い骨のサンゴの影で震えていました。
恐ろしくて、哀しくて、胸が張り裂けそうでした。けれど、リイは、おそろしくて、アオイをかばうことが出来ませんでした。体が震えてどうしてもサンゴの影から出て行けないのです。
とうとうアオイは水面へと追い詰められて、水から追い散らされそうになります。けれど、出て行ったところで何があるんでしょう? 水面の外はガラスの国の外です。逃げ出したところで、あとは息を詰まらせて死ぬだけです。
「やめて! もう黙ってよ!!」
けれど、その瞬間、リイの傍らで、悲鳴のような声が聞こえたのです。
リイは振り返りました。それは、あざやかな赤い鱗をした少女でした。彼らがやってきたその日、波はどこにあるの、海はどこに言ったの、と泣いた子でした。
そしてリイは気づいたのです。アオイが、かすかに、歌っているということに。
あちこちで小突かれ、身体を食いちぎられながら、アオイは歌っていました。あのときの歌でした。
―――海はとてもひろい、星はとても遠い、ふちはとても深い。けれど、私の愛はそれより大きい。
アオイはかすかに笑っているように、リイには思えました。
無数の銀の泡が散っていました。あの赤い鱗の子は、悲鳴のように、やめて、やめて、と叫び続けていました。魚は泣くことができません。けれど、もしも彼らが泣けたのなら、彼女は、慟哭していたことでしょう。
海を思い、彼らは、泣いていたのです。
そのときリイは、悟りました。なぜ彼らが歌を捨てたのか。
アオイがどうして歌を捨てられなかったのか。
さみしかったのです。とてもとても。恋しくて、恋しくて、だから、捨てようとしたのです。海も歌もすべて。そしてそれが、同時に、アオイが歌を捨てられなかった理由でした。
……そのとき、リイのくちびるから、言葉が、転がり落ちました。
「……リイたちは、白い砂の、白いサンゴの、ガラスの国に住んでいる」
赤い鱗の子が、弾かれたように振り返りました。信じられない、とでもいいたげな顔で、リイを見ました。
リイは、赤い尾を振って、ふらふらと泳ぎ出しました。大人たちの一人が振り返りました。けれど、不思議と恐ろしさはありませんでした。
「リイたちのふるさとは、青い海の、白い砂の、赤いサンゴの森」
ずたずたになったアオイが、大人たちの間から、リイを見ました。真珠色ににごった目は盲いていました。けれど、アオイはたしかに自分を見た、とリイは見ました。
「リイの愛は、青い海より、白い砂より、赤いサンゴより、うつくしい。そして君も」
それはくちびるから次々と転がり落ちました。それは歌だ、とリイは思いました。
リイのなかにも歌があったんだ。見たこともない青い海も、白い砂も、赤いサンゴも。―――それはすべて、アオイの歌が教えてくれたものでした。
「やめろ! あいつを黙らせろ!!」
誰かが絶叫しました。大人たちが向かってきました。その向こうで、アオイが歌い続けておりました。アオイは笑っているようでした。そしてリイは、迫ってくる大人たちを見ながら、思いました。
リイも、歌を、うたうことができた、と。
気が付くと、リイは、ひとりぼっちで、ちいさな水槽の中にいました。
体中がぼろぼろで、ほとんど、満足にもぐることができませんでした。身体は斜めに水面に浮いたままで、水は薬臭いにおいがしました。
ぼんやりと見ると、水槽は穴の開いたアクリル板で隔てられて、ほかにも傷ついた人々の姿が見えました。満足に動くことも出来ないリイは、何日も、何日も、浮かんだままで周りを見ていました。
ある日、板で隔てられた水槽に、見たことのない縞のある人を見つけました。リイは話しかけました。
「きみ、どうしてここにいるの?」
「あたし、水槽から逃げようとしたのよ」
彼女は言いました。長くてうつくしいひれが、片方欠けておりました。
「海に行きたいっていったの。そうしたら、仲間たちにひれをかじられちゃったんだわ」
リイはしばらく考えました。そうして、聞きました。
「リイといっしょに、身体に青い筋のある子がこなかった?」
彼女は答えました。
「さあ、見なかったわね」
そして夜になり、彼女は眠りに付きました。リイは、力を振り絞って、ゆっくりと泳ぎ出しました。
水槽の中には、白い砂も、白い骨のサンゴも、ありませんでした。リイは銀の泡を吐きました。そして、アオイはどこへ行ったのだろう、と思いました。
死んでしまったのかもしれません。もしかしたら、別の水槽で再会するかもしれません。けれど、リイは思いました。アオイは海に帰ったのかもしれない、と。
でも、リイはきっとアオイちゃんにまた会うんだ。
そして、アオイちゃんと、海の歌を歌おう。
リイは青い筋、真珠色の目、澄んだ歌声を思い出しました。そして、そう思いながら、銀色の泡を吐きました。
そしてリイは、歌を歌いました。なつかしい白い砂と白い骨のサンゴ、そして、見たことのない青い海と赤いサンゴの歌を。小さな声で。
BACK
|