ファスナー



 いつごろだったんだろう。そのことが、ほかの人にとってはまったく当たり前じゃないということに気づいたのは。
 ちいさいころ、僕はよく母さんや他の大人に訪ねたものだ。
「ねえ、たくさんのひとたちで、べつべつの場所にファスナーが付いてるのはどうして?」
「お洋服のファスナーはね、いろいろな役目があるから、べつべつの処についてるの。ズボンの前とかには必ず付いてるもんね」
 母の説明にいちおう納得はしたが、それでも、話が食い違っているという不満は残った。
 事実、僕には見えたのだ。道を歩く人々のあちこちについたファスナーが。
 たとえば、道を横切っていった若い女性の大きく開いた背中には、銀色のファスナーが。交番で書き物をしているおまわりさんの両頬にはごついつくりのジッパーが。そして、ぬいぐるみを片手に歩いている少女の、やわらかそうな両足には、ぐるりと巻きついたようなかたちのファスナーが。
 僕のことをみて、「おかしな子ねえ」と笑う母の喉には、胸元から喉にかけて、まっすぐなファスナーが走っていた。顎のすぐ下でちいさなしずくのようにファスナーの持ち手がゆれていた。
 僕自身、鏡を見ながら確かめたことがあった。僕の体のどこには、ファスナーがあるのか、ということを。
 その答えは背中だった。肩甲骨の間をとおり、尾てい骨に当たる辺りまで、まっすぐに銀色のファスナーが伸びている。ややおおぶりのデザインは『ジッパー』といったほうがいくぶん正解なのではないかという印象を持たせた。

 ところで、ファスナーというのは『開ける』ために存在しているものだ。

 僕は物心付いたときから、皆のファスナーの中身に強い興味を抱いていた。そして、実際にそのファスナーを手にかけてしまったのは、僕がまだ幼稚園児だったころのことだった。
 あれはたしか、『お昼寝』の時間のときのことだ。
 眼を閉じている僕を、眠っているものかと勘違いして、保母の先生がカーテンを閉める。薄暗い部屋の中で、僕は、声を殺しながら眼を開けた。そして、傍らを見た。そこには友人のひとりが眠っていた。
 健やかな寝息に上下するやわらかい胸。幼児らしくふくふくとしてやわらかい手足。健康的な汗のにおい。
 そして、そのやわらかい素肌…… むき出しになったわき腹のあたりに、ファスナーがのぞいていた。
 千載一遇のチャンスだ、ということは僕には分かった。だから僕はこっそりと手を伸ばし、ファスナーを開けた。すると、何かがころりと転がり落ちた。それは、ビニール製のカエルのマスコットだった。
 僕は見た。ファスナーの中は、カエルのマスコットでいっぱいだった。その友達は、カエルのマスコットでできていたのだ。
 薬局でもらえるものにそっくりのカエルのマスコット。珍しいものでもないとは分かっていたが、それが友達の体の中から出てきたのだと思うと不思議な気持ちになった。僕はそっとファスナーを閉めた。ううん、とつぶやいて寝返りを打たれ、おどろいたが、どうやら彼はまったく気づいていないようだった。自分の体にファスナーがついているということも、その中身がカエルのマスコットだということも、何一つとして知らなかったのだろう。

 それから、僕の収集が始まった。

 ファスナーを開ける、というのは考えるほど楽な作業じゃない。本人に気づかれないようにしなければいけないし、何より、取り出してくるものは一つだけにするという点が肝心だった。人間は中に詰め込まれたものの圧力でふくらんでいるのだから、あまり出しすぎると、人間のほうがぺらぺらのただの皮になってしまう。
 それでも僕は、あちこちでみんなのファスナーの中身をくすねた。
 ファスナーを空ける瞬間は、とてもどきどきする。中には何が入っているのか。それは完全な賭けでしかない。あたりにあたれば興味深いものが得られるが、そうでなければ困ったことになってしまうこともある。
 嬉しかったのは、きれいな水色のビー玉がたくさん入っている女性を見つけたときや、眠る青年の首筋から色鉛筆を入手できたとき。逆に困ってしまうのは、固形ではないものが出てきてしまうときだ。とある女性を開いたら、金色の蜂蜜が流れ出てきたときには、僕はすっかり困ってしまった。後始末をするのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
 そして中には、生き物を内側に詰め込んでいる人間も、存在している。
 ある夜の帰り道、僕は、道の端で倒れている男性を見つけた。背広姿のサラリーマン。どうやら酔いつぶれてしまっているらしく、地面に座り込んで、ぐうぐうと耳障りないびきをかいていた。吐瀉物の臭いと酒の臭い。普通だったら近づきたいとは思わないタイプだ。
 けれど、僕は、彼に興味を引かれた。―――正確には、彼の耳の後ろから、カラーの下にまで続いている、銀色のジッパーに気を引かれたのだ。
 周りを見回しても誰も居なかった。だから僕は、こっそりと彼に忍び寄ると、眼を覚まさないように注意しながら、そっとジッパーを開いた……
 
 ……その瞬間、『白』が噴出した。

「え……っ!?」
 それは、ミルク色の羽を持った小さな蛾、夜に街灯に集まってくるような夜の小虫だった。けれど、こんな大量なのなんて見たことが無かった。呆然とする僕の目の前で、サラリーマンの首のジッパーからは、白い蛾が次々に飛び出してくる。
 蛾たちはまるで霧のように視界をふさいだ。僕はむちゃくちゃにかばんを振り回し、必死で顔をかばった。それでも、そんな時間はそう長くは続かなかっただろう。
 やがて、蛾たちの群れが、どこかへと去っていってしまったとき―――
 ……僕の目の前には、空気の抜けた風船のような人間の皮だけが、背広を着て、ふにゃふにゃと路上に横たわっていた。


 そんなことがあっても、収集はやめられない。


 そんなあるとき、僕に、ガールフレンドができた。
 かわいらしい、積極的な性格の女の子だった。茶色く染めた髪をひとつに結んで、くるくるとよく立ち働くたびに尻尾のように動いて愛らしい。最初勇気を出して話しかけたのは僕だった。けれども、僕らはすぐに、対等の関係を結ぶことができた。
 けれども、僕にはひとつだけ不満があった。
 ―――彼女の体には、ひとつのファスナーも、ついていなかったのだ。
 ベットの中で隅々まで確かめた。だが、ファスナーは無かった。どこにも無かった。僕は半ば呆然とした。こんな人間がこの世にいるなんて。
 僕はぜひ、彼女の中身を知りたかったのに。何が詰まっているのか。レモン・キャンディなのか、それともプラスティックのおもちゃの果物なのか。そうでなければクレヨンでもいい。そんなものを一つだけ拝借して、彼女への思いの証にコレクションにくわえたいと思っていたのに。
 だから、とうとう、僕はある日、彼女に打ち明けた。
「ねえ、どうして君にはファスナーがついていないんだい?」
 彼女は当然のように眼を丸くした。「ファスナー?」と問い返してくる。
「ファスナーって、あれでしょう。パーカーとかズボンとかについてる……」
「そう、あれだよ。誰だって体についているはずなんだ」
 そこで僕は、僕のコレクションと、ファスナーのことについて、彼女に説明をしなければならなくなった。
 たとえば、色とりどりのボタンをぎっちりと体の中に詰め込んでいた女の子。たとえば、禁煙用のドロップが詰まっていた老人のこと。けれど、説明すればするほど、彼女の表情は要領の得ないものとなっていくばかりだった。
「それは…… そのう、作り話じゃないの?」
「本当だよ」
「でも私、ファスナーがついてる人間なんて見たこと無いわ」
 しかたない、と僕はため息をつかずにいられなかった。こうなったら証拠を見せるしかない。それにはこうするしかないと、僕は彼女の隣でシャツを脱いだ。
「ほら」
 僕は彼女の手を僕の背中へと導いた。指先が硬い金属にこつんと触れる。彼女は眼を丸くする。それはジッパーの持ち手の部分だ。
「ほら、ファスナーが付いてるだろ?」
「う、うん……」
「あけてごらんよ」
 彼女はしばらく、僕の顔を不安げに見つめていた。だが、決意を決めたのか、そろそろとジッパーを下ろしていく。僕にとっては初めての感触。そして、彼女は短く、悲鳴とも歓声とも付かない声を上げた。そして、「小鳥!」と叫んだ。
「小鳥よ! 小鳥がたくさんいるわ!!」
 嫌な予感がした。だが、僕はうつぶせで、しかも背中のファスナーを開けっ放しにしているから、動けない。そんな僕の背中から羽音が聞こえ出した。小さな爪を持つ足が背中を歩き回る。ぴいぴいと鳴き交わしながら、ちょんちょんと体を飛び降りていく。
「や、やめてくれよ。そろそろ閉じてくれよ!」
「でも、小鳥なのよ? こんな狭いところに入ってるなんて可哀想。それに、こんなにいるんだわ。こんなに!!」
 色とりどりの小鳥たち。赤、ピンク、黄色、緑、青。小鳥たちはぴいぴいと鳴き交わしながら飛び上がる。飛び回る。彼女の頭や肩にも鳥が止まって、彼女は歓声をあげた。
 けれど、やがて、鳥の一羽が、開けっ放しだった窓に気づいた。
「……あ!」
 一羽が飛び立つ。それを追うように、すべての鳥が眼を上げる。そして、てんでばらばらに飛び上がり始めると、一斉に窓のほうへと殺到した。
「あ、ちょ、おねがい、まって、小鳥さん!!」
 だが、小鳥たちは言うことなど聞きやしない。あっというまに窓から飛び去っていって、後に残ったのは、テーブルに残ったポテトチップの屑をつついている一羽だけだった。
 彼女は、羽だらけになった部屋の中を呆然と見回した。そして僕を見た。ぺらぺらの皮だけになって、地面に横たわっている僕を。
 ようやくわれに返ったようで、駆け寄って僕を助け起こす。そして彼女は「ごめんなさい!」と悲鳴を上げた。
「こ、こんなことになるなんて、思わなくて」
「それはいいんだ」
 僕はうめいた。そのつもりだったが、喉から出てきたのはカスカスした変な声だった。
「体がぺらぺらになっちまった。なにか、変わりに入れるものはないのか?」
「か、代わりに入れるもの……」
 彼女は部屋を見回した。小鳥たちに荒らされた部屋には、無数の羽毛がとびちっている。
「……そうだわ、羽とかダメ!?」
 言うなり彼女は、鋏をつかんで、枕をこちらへと引っ張ってきた。切り裂くと白い羽毛が出てくる。それを力任せにわしずかみにすると、彼女は、僕の中にぐいぐいと羽毛を詰め込み始めた。
 枕ひとつでは足りず、枕をもうひとつ、さらには薄手の羽毛布団を一枚犠牲にして、やっと、僕は人間らしい形に戻ることができた。
「やれやれ」
「びっくりだったわね」
「それはこっちの台詞だよ」
 羽毛だらけになった部屋で、僕らはそんな間抜けな言葉を交わし、それから、くすりと笑った。笑うしかない状況だった。だから僕らは笑った。大いに笑った。


 それ以降、僕はみだりに人のファスナーを開くことはやめた。困ったことが起こってからでは遅いからだ。
 それでも、困ったことがここに一つ。中身を羽毛に入れ替えられてしまって以来、僕はすっかり体重が軽くなり、風の強い日など、簡単に体が浮かび上がるようになってしまったのだ。
 そんな日には、仕方が無いから、彼女と手をつないで町を歩く。僕の足はふわふわと宙を踏む。彼女があわてて引き戻す。そんな様子を見て、通りかかりの誰かが口笛を吹く。
 

「しかたないわよね」
 彼女は、いつも、冗談めかした口調で言った。
「人のファスナーを勝手に開けたりしたら、こういうことになるってことよ」
 そうだね、と僕は同意した。けれども、やっぱり僕は、彼女の裸のどこかにファスナーが隠されているのではないかと、探すことをやめることができない。




  BACK