ユカと僕と、マンホール





 ユカはいつも公園のベンチに座っていた。薄汚いワンピースにくまのアップリケ。紐の切れたままのスニーカー。ずうっと洗われないままで、ねとねとしていやなにおいのする髪。
 かわいそうなユカ。僕はちかくのコンビニでアルバイトをしていた。ユカはいつもコンビニにやってきて、裏口のところに幽霊のように立っていた。ときどき店員が賞味期限の切れた弁当とかを恵んであげることがあるからだ。僕のコンビニのアルバイトたちは、みんな、同情しながらユカのことを気持ち悪がっていた。ユカはいつも暗い眼をしていたし、ユカが近くの学校の極め付きの問題児だということを、なんとはなしに噂話で聞いていたからだ。ユカの姿を見ると、お客さん達はいやな顔をした。ユカはとても汚かったし、薄暗くて、まるでどぶねずみみたいだったからだ。
 ユカ。真っ黒になった靴下。目やにのついた眼。おいぼれの野良猫のようなユカ。


 これは、ユカと僕と、そしてマンホールの物語だ。


「あの子、虐待とかされてるんじゃないの?」
 僕のバイトしていたコンビニには、教育を勉強したこともあるという大学生がいた。彼女はユカを見るたびにそんなことを言って、いかにも心配しているような顔をした。
「ネグレクトっていってね、親が子どもの面倒を見ないことも虐待の一部なんだよ」
 でも、僕は彼女のそんな顔が嫌いだった。いかにも気遣ってるらしい顔の向こうに好奇心が透けて見えた。
 たしかに、虐待をされている子どもというのはいやなものだ。彼らはかわいそうな虐げられた天使なんかじゃない。むしろ苛められた動物に近い。人間に苛められた犬は人を噛むようになる。ユカはそのとおり、誰彼かまわず噛み付く狂犬のようなところがあった。
 僕はコンビニの行きかえりに、ユカのいる公園のそばを通った。
 ユカはいつも公園に一人でいて、砂場に座っていたり、あるいはベンチで寝ていたりした。ユカのそばには誰も近づかない。近づくとたまにユカは理由もなく殴りかかってくるのだ。しかも石を手に握り締めて。
 ときにはユカがブランコに乗っていることもあった。そんなときはなおさらだった。ユカのブランコのこぎ方は尋常じゃない。それこそ鎖が千切れそうなくらいやたらめったらブランコをこぐのだ。
 そしてその日も、僕が見たユカは、ブランコを漕いでいた。
 ブランコのさびた鎖は悲鳴を上げていた。ブランコはほとんど地面と水平になりそうな高さまで高くあがっていた。そんなことになるとブランコも半分凶器みたいなもんだ。近くに寄ったら殴り殺されてしまいそうだ。
 ユカは、楽しい顔をすることもなく、唇を噛んで、むちゃくちゃにブランコをこいでいた。
 眼がぎらぎらと光っていた。夕暮れだった。血のにじんだみたいな夕焼けをバックに、浮浪児みたいなユカがブランコをこいでいると、なんだか鬼気迫る迫力があった。
「ユカちゃん」
 それでも僕はユカに声をかけた。
「ゆ、ユカちゃん」
 とくに理由はなかった。理由があるとしたら、僕がたまたま、菓子パンを持っていたということくらいだったと思う。
 ユカは僕に気づくと、きょとんと眼を瞬いた。ブランコの旋回がゆるくなった。次第にブランコはゆれを小さくした。ゆれるブランコの上から、ユカは、大きな眼をして僕を見た。
 僕は手にしていたビニール袋から菓子パンを出した。なんだか動物に餌付けしてるみたいだと思っておかしくなった。
「ゆ、ユカちゃん、メロンパンとかアンパン、食べないかい?」
 ユカはしばらく僕をしげしげと見ていた。……それから、おずおずと、ブランコを降りた。
 近づいてきたユカは、何も言わずに僕の手からパンをひったくった。それから飢えた犬みたいな食べ方でがつがつとメロンパンを食べた。僕はアンパンのパッケージを開けて、それからカレーパンも開けた。ついでにコーラも開けて手渡してやると、ユカはものも言わずにがぶがぶ飲んだ。ユカの頭はくさかった。何日も風呂に入ってないんだろう。
「お、お腹すいてるの?」
 問いかけると、ユカは一瞬だけ食べるのをやめた。
「……うん」
 光る眼で僕を見て、うなずいた。それからユカはすぐにまた食べ始め、クリームパンをあっという間に食べてしまった。
 公園のそばの街灯が、ジジ、と小さく音を立てて灯った。次々と明かりは灯った。夕暮れはとうにくれてしまって、わずかな茜色を残した空に、公園の木々がシルエットになっていた。
 ユカはべたべたになった指を舐めていた。それから、汚いスカートで指をぬぐって立ち上がった。そのままブランコにまた乗るのかと思うと、歩いていって、僕を振り返る。僕は眼を瞬いた。ついてこい、とでもいうような眼で僕を見ると、ユカはもう一回歩きだした。ユカがこんな風に人を誘うなんて。僕はおどろきながらユカについていった。
 ユカが歩いていった先にあったのは、マンホールだった。よく見ると蓋がすこし開いていた。ユカはマンホールをこじあけた。子どもだとは思えない力だった。マンホールの中には、漆黒の闇があった。
「見て」
 僕はためらいながらユカをみて、それからマンホールを見た。ユカがじっと僕を見ているので、僕は、半ば嫌々、半ば好奇心に駆られて、マンホールの中を覗き込んでみた。
 中は真っ暗だ。何も見えない。どぶの臭いがかすかに立ち上ってきた。
 ユカは僕の隣からマンホールを覗き込むと、さっき残していた菓子パンを出した。中に放り込む。僕はすこし驚いた。いつもお腹のすいているユカが、パンを残していたことに関してだ。
「えさ」
 とユカは言った。
 パンがどこにいったのかは見えなかった。でも、ぱしゃん、とかすかに水音が聞こえたような気がした。


 僕はユカが半分好きだった。それはすごく卑しい気持ち、ユカが僕よりもはるかに不幸だからという理由によってだ。
 僕は苛められて高校を中退したから、友達はひとりもいない。バイト先の仲間ともほとんど会話をしない。誰とも話が出来ない。将来の望みも『死にたい』以外に無い。中学の卒業文集に何か書けといわれたときも、『死にたい』以外に書くことが何一つとして思い浮かばなくて愕然とした。でも死ぬのは怖い。とても怖い。だから僕は13階の屋上から身を乗り出すことも出来ない。そういう人間だ。
 でも、それでもユカのほうが、僕よりもずっと不幸だ。
 ユカが親といっしょにいるところなんて見たことがないし、ユカがきれいな服を着ているところも、体を洗ってもらってるところも見たことがなかった。ユカがかじるのでスカートの裾はいつも噛み跡だらけでボロボロだった。くさくてねとねとした髪と、野良犬みたいな暗い目をしたユカ。ユカはときどき顔に青痣をつけ、腫れ上がった頬をして歩いていることすらもあった。
 ユカの親がどんな人間かを僕は知らなかった。知りたいとも思わなかった。どうせろくでもない世の中の底辺のような人間に違いない。僕のような。僕だって、底辺といわれたら、間違いなく世の中の底辺近くをうろついている人間だ。
 ユカはそれからも毎日、コンビニの裏に来た。
 僕は自分が見かけるときには、できるだけユカに食べ物をあげることにした。揚げてから時間がたちすぎて蝋燭みたいになったポテトフライだとか、屑肉で出来たチキンナゲットとかそういうものを。他にも賞味期限の切れた弁当とか。そういうのは、賞味期限をよく見ておいて、できるだけ新しいうちにユカにあげた。ユカは箸も使わずに手づかみでそんな弁当を食べた。
 でも、そんなユカが、ときどき食べ物を残してることがある、ということに僕は気づいた。
 それもから揚げとか、とんかつとか、そういう子どもの好きそうな食べ物にかぎって残している。惜しそうな顔をしてポケットの中に詰め込んでいる。見かねた僕はそういうものだけを分けてビニール袋にいれてやることにした。そうして揚げ物とか、ぎとぎとして肉っぽいものだけを詰め込んだ包みを手渡してやったとき、ユカは、びっくりしたような顔をして僕を見た。
「い、いつも分けてるだろ?」
 なんだかユカの秘密を侵害しているような気がして、僕はみょうな早口と、ぎこちない笑顔になりながら言った。
「だから、ど、どっかに持っていくのかと思ってさ。……どこいくの?」
 ユカはぎこちなく手を伸ばして、僕から包みを受け取った。当然のように礼も言わない。でも、その眼はなんとなくいつもと違っていて、僕のことを不思議そうに見上げていた。

 その日、僕がコンビニでのバイトを終えて店を出ると、公園のあたりで何かがうずくまってるのを見つけた。ベンチの上に座っていたのはユカだった。僕はおどろいた。もう12時を回っていた。子どもの出歩く時間じゃない。
「ゆ、ユカちゃん?」
 ユカは僕にきづいて目を覚ました。飛び起きると体から新聞紙が落ちた。ユカの小さくて汚い手には、さっき僕が渡したビニール袋が握り締められていた。
 どうしたの、こんな時間に、といおうと思って、僕はその質問が愚問であると気づいた。ユカはどんな時間だってすきに外をうろついている。
「お兄ちゃん」
 ユカはぎこちなく僕を呼んだ。そんな呼ばれ方をしたのは初めてだったからおどろいた。ユカは歩いてくると、僕の服を掴んだ。そしてそのままぐいぐいと引っ張っていこうとする。
「おい、おい、な、なんなんだ?」
 ユカの様子には奇妙に真剣なものがあって、僕は気おされた。そのまま引きずられるようにして歩いていくと、公園の隅のマンホールのところに連れて行かれる。ユカはいつかのようにマンホールを開けた。そして、ビニール袋の中の肉を、マンホールのなかに放り込んだ。
 ぱしゃん、ぱしゃん、というかすかな音で気づいた。中には水がたまっているのだ。
 公園のそばには、たしか、きたないどぶ川が流れていた。おそらくマンホールの中の下水道は河につながっていて、それで水が流れているんだろう。ユカは奇妙に真剣な様子でマンホールの中を覗いていた。僕もつられて覗き込んだ。
 ぱしゃん、とかすかに音がした。
「わに、いるの」
 ユカはつぶやいた。僕は「え?」と聞き返した。
 何の話か、分からなかったのだ。
「わにがいる。白いわに。すごく大きくてすごく強いわに」
 ユカは奇妙な抑揚の早口で言った。ものすごい早口だった。僕は聞き逃さないようにするのに必死だった。
「わに、とっても大きい。とってもお腹すいてる。だからユカ、わににご飯あげる。そしたら、わに、ユカのあげるものはなんでも食べるようになる。そうでしょ?」
「それって…… え、餌付けするってこと?」
 僕が言うとユカは黙った。言葉の意味が分からなかったんだろう。
 僕は困惑しながらマンホールの中を覗き込んだ。
 下水道の白いワニ。聞いたことのない話じゃない。古ぼけた都市伝説だ。
 無責任な誰かが、可愛いとかなんとかの理由をつけてワニの仔を飼いだす。ワニはみるみる大きくなる。育てられなくなった誰かさんはワニをこっそり下水道に流す。けれどワニは死ななかった。下水道を流れてくるものを食べて生き延び、日の光を浴びないせいで真っ白になり、盲目になって、しだいに大きくなっていきながら、下水の闇の中をさまよい続ける。
「ユカはかあさんととうさんをワニに食わせるんだ」
 戸惑っている僕の前で、ユカはつぶやいた。憎しみに満ちた声だった。
「とうさんもかあさんもいらない。ワニに食べられちゃえ。学校の先生も友達もみんないらない。みんなみんなワニに食われちゃえ」
 ユカの吐き捨てた憎しみは、血のにじむような真実の響きを持っていた。僕は沈黙した。ユカになんと答えればいいのか分からなかったのだ。
 何も言えずに覗き込んでいると、ぱしゃん、と水音が聞こえた。何がたてた水音なのかは分からなかった。


 ユカはそれから数週間くらいコンビニに残飯を貰いに来ていたが、そのうち、ふっと姿を消して、見えなくなった。


 行方不明になったユカを探すポスターが貼られたのは、ユカがいなくなってからしばらくたってからだった。ポスターに書かれた漫画チックなイラストは、可愛すぎてちっともユカに似ていなかった。くまのアップリケのついたワンピース。髪の毛。そんなものはぜんぜんユカの特徴を現していない。ユカの特徴はあの眼だ。憎しみに満ちたあの目。
 コンビニの店員たちの間でも、ひそひそと憶測がささやかれた。もしかしたらユカは親に殺されてしまったのではないか。あるいは幽閉されているのかもしれない。どちらも無理な想像とは思えなかった。世の中には子どもを10年間も犬小屋につないでいる親もいる。
 僕はというと、なぜだか奇妙な胸騒ぎと期待を感じていた。ユカがまた帰ってくる、という根拠のない想像だ。


 そして、予想通り、ユカは帰ってきた。


「あの、ほ、堀井さんですか?」
 ある雨の日、僕はパチンコ屋から出てきた女に声をかけた。金色に染めた髪の根元が黒い、うすぎたない女だ。スエットの腕には景品らしいタバコのカートンを抱えていた。女はうさんくさげに僕を見て、「なに」といった。
「僕はユカちゃんの、と、友達なんですが」
 僕が言うと、女は眼を見開いた。腕からタバコのカートンが入った袋が滑り落ちそうになる…… あわてて抱えなおす。
「なんだって、ユカの? ほんとうに?」
 いぶかしげに僕を見る。その声に警戒が薄くにじんでいた。やっぱりだ、と僕は手を握り締める。手の中に汗を感じる。
「ええ。ぼ、僕は、近くのコンビニの店員なんです。ユカちゃんがいつも、こ、コンビニに遊びに来てて」
 緊張すると言葉がどもる。女はますますいぶかしげに僕を見た。その眼には軽蔑の色が薄く浮かんでいた。いつもそうだ。僕を見た人は、みんな僕をバカにする。
 でも、今日は、そんなことにはかまっていられない。
「あの、ゆ、ユカちゃんの話がしたいんです。こ、公園に行きませんか?」
 女はじっと僕を見た。手の爪を無意識らしく噛んでいた。眼が落ち窪んでいた。神経が高ぶって眠れないでいた証拠だ。
「僕、ゆ、ユカちゃんのこと、知ってるんです。ユカちゃんが……」
「ユカが?」
 意味ありげに黙り込んでやると、女は食いついてきた。眼がぎょろぎょろと動いている。落ち着かない様子だった。僕は意味ありげに黙った。駆け引きだった。
「分かったよ、どこに行くんだい」
 女はやがてそう言った。
 僕は女を連れて公園に行った。もう暗い。誰もいない。街灯が長い影を躍らせた。ユカの乗っていたブランコ。ユカの座っていたベンチ。
 女をつれて歩いていくと、僕はあるところで立ち止まった。
「なんの話なの?」
 女はいらいらと声をかけてくる。僕は汗でねちょねちょする手のひらを握り締めながら、必死の思いで言葉を考えた。
「あ、あなたは、ユカちゃんのことを、ぎ、虐待してましたね?」
「何の話だい?」
 女はとがった声で言う。いらいらと爪を噛んでいる。
「ね、ネグレクトっていうんですよ。ごはんを食べさせない、家にいれない、ふ、服も洗ってあげない。そういうの、虐待なんですよ」
「知らないよ! 他人に言われた筋合いなんてない!」
 女はギリっと爪を噛んだ。眼が光っていた。狂犬のような色がユカに似ている、と僕は思った。
「あんたにはわかんないだろうね、ユカみたいな子を育てるのがどれだけ大変かなんて! あの子がどれだけ手間のかかる子だか知らないだろう」
 声がヒステリックな響きを帯びた。女はまだいらいらと爪を噛んでいる。
「なんにも言うことを聞かないんだ。すぐによその子と喧嘩して、そのたびにあたしの教育が悪いって言われる。あの子はあたしを困らせることばっかり考えて! どこの誰に似たんだかしらないけど、あの子はできそこないだったんだよ」
「じ、じゃあ、そんな子だったら、殴ったりしてもいいっていうんですか」
 僕は言う。はったりだった。でも、女は瞬間黙った。次の瞬間の声は、もっとヒステリックだった。
「あたしはそんなことしてない!」
 あたし『は』ということか。
「だいたいあの子が悪いんだ。ぜんぜん懐かないし、いっつも暗い顔してて、くさくて汚くて! あんな子、誰だってもてあますに決まってるのに!」
 僕は、心が冷えていくのを感じた。冷静になる。温度が下がる。
 なるほど、こんな女が君の母親だったのか、ユカ、と僕は心の中で呼びかけた。
 だったら、いやにもなるよね。憎みもするよね。仕方がない。君のいうとおりにするのがいちばん正しいみたいだ。
「ユカちゃんがどこにいるのか、し、知ってますか?」
 僕は言った。女は声をとぎらせた。その眼が僕をみた。
「ぼ、僕、ユカちゃんを見つけたんです。……こ、このなかに」
 僕はマンホールを指差す。半分開いた、真っ暗なマンホールを。
 ユカのマンホールを。
「ま、まさか」
 女はどもった。明らかに声がおかしかった。
「そんな場所になんて」
 乾いた声で笑う。だが、その声はすぐに尻つぼみに小さくなった。女はごくりとつばを飲んだ。
 僕は気づいた。
 この女は、ユカがどこにいるのかをたしかに知っている。
 女はまじまじと僕を見た。僕は黙っていた。女はやがて、もう一度つばを飲み下すと、マンホールを見下ろした。
 やがて、そろそろと近づいてくる。マンホールのそばまで。そして、恐ろしげに中を覗き込む。マンホールの中は真っ暗。何も見えない。
 だが。
 ぱしゃん、と水音が響いて。何かが見えた。白いものが闇の中をひらめいた。女は短く息を飲んだ。
 その瞬間、僕は、

 女の背中を、とん、と押した。

 女は吸い込まれるようにマンホールのなかに落ちた。
 ばしゃん、と大きな水音。しばしもがいた後、「なにをするんだい……!」と怒鳴り声。
 僕はマンホールのふちにしゃがみこみ、中を見下ろした。
 女が罵声をあげて、下水の中でばしゃばしゃともがいていた。だが、それがふいに、響きを変えた。
 短い悲鳴。
 それに、ごりっ、という音が重なった。
 ばしゃばしゃというすさまじいもがき、それに、太い尾や顎が水をはね散らかす音が続く。白いものが闇の中で見え隠れした。絞り上げるような悲鳴。断末魔の声。
 やがて。
 声は途切れた。
 僕がしばらく黙ってみていた。耳を澄ましても返事はない。どうやら女は死んだらしかった。
「ゆ、ユカちゃん」
 僕はマンホールの中に呼びかけた。
「お、お腹いっぱいになった?」
 返事はない。でも、ユカが満足しているということが僕には分かった。
 くちゃくちゃという音が深い闇のそこから響いてくる。白い太い尾が闇にひらめいた。すぐ消えた。僕は笑った。
 ユカはどんどん大きくなっていく。
 たくさん食べれば、食べるほど、大きくなっていく。
 やがて大きく大きくなったユカは、下水道に収まりきれなくなって、地上に這い出してくるに違いない。そして何もかもを食べてしまうのだ。まるで怪獣のように。
 僕は知っていた。ユカは殺されて、マンホールの下に捨てられたのだということを。
 だが、ユカは死んだけれど、生きていた。その憎しみが生きていたのだ。殺されて下水道に捨てられたユカは、捨てられたワニと同じように、白くなり、大きくなり、そして、凶暴になっていく。
 とうとう、ユカは白いワニになったのだ。
「つ、次は、誰が食べたい?」
 ユカの餌になる人間が、僕にはいくらでも思いついた。
 ユカの父親だけじゃない。ユカをいじめた同級生たち。理解せずにユカを責めた教師。
 それだけじゃない。高校を中退した僕を責める父親、ため息ばかりついている母、僕をバカにする妹、僕をいじめたやつら。
 みんなみんな、ワニに食わせてやる。そして地下に収まりきらないほど憎しみが大きくなったとき、僕らはきっと、地上を粉々に破壊するのだ。
 マンホールの下でユカが笑う。死んではじめてユカは笑うようになった。ユカが嬉しいと僕も嬉しい。もう、僕とユカは一心同体だった。
 いつか僕もユカの餌になるだろう。
 そうして僕は初めて白いワニになり、……地下から闇にまぎれて這い出して、何もかもを食い殺してやるのだ。
 そのとき、僕は、生まれて初めて、心から愉快になった。
 そうして僕はマンホールを閉める。マンホールのふちに落ちていたカートンのタバコを拾う。そうして歩き出す。次の獲物を探して。


 これはユカと僕と、そしてマンホールの物語だ。




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