バイバイ、ママ
「ええ、いいました。あんたなんていなくなっちゃえばいいのにって」
夕暮れ、千切れ雲がにじんだような茜色に光る。斜めに差し込んだ光。影を長く長く伸ばす。電信柱の影、生垣の影、屋根の影、ひっそりと歩いていく影。
「だってあたし…… 産みたくなかったんだもの。なのに、みんなが、せっかく授かった子を殺すなんて、って責めるんだもの。あたしは子どもなんかより、ウエディングドレスが着たかったのに」
それは、まだ、あどけない顔立ちをした若い女だ。
こけた頬、隈のういた目をしていても、十分なほどにうつくしい。高く通った鼻筋。奥二重の中の目が、沼のようにどろりとよどんでいた。
「ほう、ウエディングドレスですか」
「ええ。とってもきれいなドレスだったわ。マーメイドラインでね、ビーズとレースで出来たトレーンを長く引いているの。ヴェールはマリアヴェールでね、私は百合のブーケを持ちたかったの」
女は熱に浮かされたうわごとのようにつぶやいた。けれど、その言葉は今の女とはあまりに乖離していた。
ブラウスは汚れて汗の臭いをさせていた。スカートの裾は汚れて擦り切れ、ストッキングはとうに破れ果ててしまっている。靴はそぐわぬサンダルを履いている。履いて出てきたミュールなんて、とうに壊れてしまったからだ。顔もずっと洗っていない。手は汚れて真っ黒だった。
女の前を人々が通る。駅の地下道だった。誰もが足早で、新聞紙を重ねた上にうずくまっている女になど見向きもしない。
たったひとり、女の前で立ち止まっているのは、その男だけだ。ひどく奇妙な男だった。
赤い皮のコート。赤い皮手袋。つばの広い帽子も赤かった。よどんだ血のように濃く暗い赤だ。
道端でうずくまったホームレス女に話しかけている、赤ずくめの男。その取り合わせの不吉な奇妙さをさけて、人々は誰もうつむいて傍らを歩きすぎた。誰一人視線すら向けようとしない。
「でもあたし、もう、家に帰れない……」
そうつぶやいて、女は、ぽろりと涙を流した。
「どうして、ですか?」
男はやさしく問い返す。う、ううう、と女は呻いた。涙がだらだらと頬を流れていく。
「あたしのせいじゃないんだもの…… あたしのせいじゃ…… あたしの……」
「なにがあったんでしょう」
男は微笑み、手を差し出す。赤い皮手袋の手だった。顔はつば広の帽子に隠れて見えない。
「あのこがいなくなったの……」
だらだらと涙を流し、鼻水までたらしながら、女は言った。
「あたしはなんにもしてないの。ただ、ひさしぶりに友達に会いたかったの。だって、ずっと子育てに追われてて、家も出られなくって、毎日あの人は帰ったって仕事の話ばっかり。あの子は毎日おねしょをして、臭い布団をあたしは洗わされて、何回ぶってもぜんぜん言うことを聞かなくて、あたし、一生懸命あの子にしつけをして、一生懸命、一生懸命、あたし、あたし、あたしは」
女は涙を流しながら、声を高くしたり、低くしたりしながら、ずっと、同じことを繰り返した。宙にすえられた目はうつろだった。それを見た通行人のOLが、不安と嫌悪の混じった目で、そんな女を見て行った。
女はうわごとのように繰り返す。
「あの子、なのに、またおねしょをしたの! もう小学生にもなるのに!! だから言ったのよ。あんたなんていらないって。二度と帰ってくるなって言って家から追い出したの。でも、きっと、すぐに泣きながらもどってきて、謝ると思ったのに」
「けれど、戻らなかったのですね?」
「……!!」
子どもが見つかったのは―― 二週間後のことだった。
子どもは、近くのゴミ処分場にいた。泥まみれの素裸で、ゴミの間に埋もれていた。
子どもを見つけた人々は、子どもの体に傷跡と血の跡を見つけた。
子どもは――
行方知れずになっていた間に、誰かに、『いたずら』をされ、ゴミ処分場に捨てられていたのだ。
女は、唐突に立ち上がった。男を血走った目でにらみつける。上ずった声で叫んだ。
「あたしが悪いって言いたいの!?」
瞬間、地下道の空気が凍りついた。
アスファルトの道路を歩いていた人々、通勤や通学のために歩く人々が、その一瞬だけ足を止めた。ざわめきすら途切れた。女は血走った目で人々をにらみつけると、さらに甲高い声で叫んだ。
「見ないでよ! 見ないでって言ってるでしょ!? あたしのなにが悪いって言うの! なにが悪いっていうのよお!!」
人々は女を責めた。女が目を離したから、真夜中にちいさな子どもを放り出していたから、あの子はそんな目にあったのだと。夫も姑も、両親ですらも女を責めた。だから女は耐えられなくなり、家を出たのだ。
女は傍らにおいてあったショッピングバックを取ると、振り回しながら通路の真ん中に飛び出した。ショッピングバックから、プラスチックのトレイに入った残飯がこぼれて辺りに飛び散る。女は残飯を掴んで人々に投げつけた。きれいに梳いた髪にビーフンを付けられた娘が悲鳴を上げた。
「あたしは悪くない! あたしは悪くない! あたしは悪くない!!」
人々は遠巻きに離れていく。女がそちらに近づくと、そこから人がざわめくように引く。女はわめきちらし、つまづいて、地面に倒れた。倒れたまま、手にしたものを手当たり次第に投げつけながら泣いた。吼えるように泣いた。
そんな女の肩に、赤い皮手袋がとんと置かれた。
女は涙の筋で汚れた顔を上げた。幼子のように男を見た。顔はよく見えない。それでも、男は微笑んでいるようだった。
「取り戻したくはありませんか?」
「とりもどし……?」
「あなたの幸せな暮らし、とりもどしたくないですか?」
女は、信じられないものを見るように、男を見上げた。
「私はね、なんでもひとつ、願いが叶えられるんですよ」
残飯を掴んで汚れた手。埃まみれの顔。そこに残る涙の筋。女は呆然と男の言葉を聞いた。
男の皮手袋は薄く滑らかで、女のように細い指をしているのだということが分かった。色の白い、まるで、漆喰のように白い顔だ。そこに開いた唇が、そっと、甘い言葉をささやく。
「あなたには分かりますか? 自分の何が過ちだったのか」
「あやまち……」
「どこで選択を間違えたのか、分かりますか? 分かっているのなら大丈夫。そこさえ直せばすべてが上手くいく。なにもかもが元通りになる……」
あたしの過ち、と女は思った。
過ちは明らかだった。あの子を産んだことだ。
「あの子が、生まれたなかったことにできるの?」
そうすれば、ウエディングドレスが着られる。レースのトレーンを引いた純白のドレス。白いシルクのコサージュ。パールのイヤリング。
男の口元が、三日月のように笑みを作った。
「ええ、ええ、できますとも」
けれど、と男は言った。
「そのためには、対価を支払ってもらわなければなりません」
「対価?」
「ええ、あなたには、これから家に帰ってもらわなければならないのですよ」
いえ、と女はぼうぜんとつぶやいた。
「あたしの家?」
「そう。そして、そこではじめにあなたを出迎えたものを、私にください」
女は思い出した。自分の子どものことを。
『ママ』
『おかえりなさい、ママ』
『ごめんなさい、ママ、おかえりなさい、ママ、ごめんなさい、おかえりなさい、ごめんなさい……』
あの子はいつもあたしを待っていた、と女は思った。
家に帰ればまっすぐに玄関に迎えに来た。怯えきった目で女を見た。女は子どもが迎えに来なければ怒ったからだ。かといって、迎えに来たからといって、少しでも機嫌がよくなるというものでもなかったのだけれど。
家に帰れば迎えに出るもの――― あの子。
瞬間、ぞっとして、女は赤い男を見上げた。
赤いコート、赤い手袋、赤い帽子。異様な風体の男だ、とやっと思う。まるで子どもを脅かすために引き合いに出される人攫いのようだ。
「あなた…… だれ?」
問いかける女に、男は答えなかった。ただ赤い皮手袋の手を差し出すと、そこには切符が摘まれていた。
「これをあげましょう。あなたの家に帰るための切符です」
「……」
女は息を飲んだ。
この切符を取れば、家に帰れる。
あの子さえいなくなれば、夫はまたあたしを愛してくれる。あの子さえいなくなれば、お父さんとお母さんもあたしをまた可愛がってくれる。あの子のいない家になる。泣き喚き彼女を責めるだけの生き物と閉じ込められていた鳥篭から、あの生き物を追い出すことが出来る……
あの子とひきかえに、あの子のいない生活を。
……女の唇の両端が、痙攣したように持ち上がった。笑みのように。
なんて、すてき。
女は手を伸ばすと、男の手から切符を取った。
そして女はふらふらと立ち上がり、歩き出す。女の後ろには中身の飛び散ったショッピングバックが落ちていた。拾いもせず、ぶつぶつとつぶやきながら歩いていく女の後姿を、通りかかる人々は、恐怖の目で見た。
女の家は、住宅街の一角にあった。
水色や小豆色、さまざまな色の屋根の集まった、おもちゃのような住宅街。家々の庭先にはゼラニウムや松葉ぼたんの鉢が並べられ、どこかの家の庭で茶色い毛の犬が寝ている。
空は茜色だった。
夕方。斜めに差し込む光が、すべてを葡萄酒の赤の中に沈める。電信柱の長い影や、屋根の隙間にうずくまる影。歩いていく猫の影。女の影もアスファルトに長く伸びた。
そしてとうとう、女は家にたどり着いた。
ベランダで鉢の花が枯れていた。だれも世話をしないせいだろう。庭にはもう誰も乗らない子供用の自転車が錆びている。放り出された長靴の中に、水がたまっていた。
女はためらい…… インターフォンを押した。
音が響いた。
しばらくの間があって、雑音とともに、幼い子どもの声がした。
『……だれ?』
娘だ。女は一瞬、息を止める。
たしかに自分の産んだ娘の声だった。背伸びをしないと手に取れないインターフォン。ドアの傍らにあるインターフォンの前で、背伸びをしている娘の姿を、女は想像した。
うちのインターフォンにはカメラはついていない。あたしの姿は見えないはずだ。垢まみれで襤褸を着た、みじめな姿なんて見られたくない。
けれど、このドアを開けると、たしかにあの子が出てくる。出迎えてくれる。
「あたしよ、ママよ」
女は、猫なで声でインターフォンに話しかけた。
『ママ……?』
逡巡しているらしい気配が、向こうから伝わってきた。
そうだろう。家を出てからもうかなり立っている。正確なところは覚えていないけれど、何日という単位ではないのは間違いない。
あのドアが開ければ、子どもは、あの赤い男のものになる。
瞬間、心の痛みが走った。消すのか? 消してしまうのか。自分の産んだ子どもを。腹を痛めて産んだ子を。
……でも、産みたくて産んだ子なんかじゃない。
それに、あの子がいなくなれば、ウエディングドレスが着られる。きっとまた幸せになれる。あの子は生まれてくるべきではない子だったのだ。
それに――― あたしの産んだ子だ。
親が子どもをどうしようと自由のはずだ。
「帰ってきたの。開けてちょうだい」
『……』
「ね、開けて。開けて」
『……』
「開けなさい、って言ってるのが聞こえないの?」
『……ママ』
逡巡するような声で呼ばれた瞬間、頭にカッと血が上った。
「開けなさいって言ってるでしょう!! 開けなさい!! このグズ!!」
女はドアノブを握り、ガチャガチャとまわした。ノブが壊れてしまいそうなほどにまわした。息が荒くなっていた。肩を揺らし、ぜいぜいと息をしながら、「開けなさい! 開けろ!」と叫び続ける。
そのとき、ドアの向こうから、控えめな音が聞こえた。
かちゃり、と。
音を立てて、鍵が開いた。
女は狂喜した。これであの子をやっかいばらいできる。消してしまえる。そして、あたしは、元通りに幸せになれるのだ!
女は勢いよくドアをあけた―――
そして。
そこに置かれた、鏡、を見た。
そこには、呆然と目を見開いた女が、映っていた。
汚らしいブラウス、すりきれたスカート。破れたストッキングに、サイズの合わないサンダル。ざんばらの髪、汚れた顔。
そして、その目。
呆然と見開かれて、まるで何も見ていないかのような、目。
「え……?」
そのとき、後ろから、肩に手を置かれた。
「お出迎えが、見つかりましたね」
やわらかい皮手袋の感触。耳元に息が触れた。腐臭のする、冷たい息が。
「では、約束どおり、『出迎えたもの』を私がもらいましょう」
言いながら、男は、赤いコートの釦をはずしながら、赤い皮手袋の手を伸ばし、女の肩を掴んで―――
最後に思い出したものはウエディングドレス。腹が突き出して着られなかったウエディングドレス。
白いレース、白いリボン、真珠のビーズ、それに、シルクの造花。
きっともう一度着るのだ。あのウエディングドレスを。そうしたらみんながほめてくれる、祝福してくれる。まるでお姫様のようだと言ってくれる。
―――女は振り返ることすらも、ゆるされなかった。
男がコートの釦を締めるのを、鏡の後ろから顔を出した少女が、じっと見つめていた。大きな鏡。わざわざ、母親の部屋から持ち出してきた姿見の大鏡。
玄関を見ると、汚らしいサンダルが一足だけ落ちていた。母の履いていたサンダルだった。
男は子どもを見た。年よりもずいぶんと小柄な、小動物のように無力な目をした子どもを。
「あなたのほうも、これでお願いをかなえることが出来ますね?」
「……うん」
子どもは男と契約を交わした。その内容は、『次にこのドアを開けたものを、対価として捧げる』というものだった。
もしかしたら母かもしれないと思っていた。母だったらドアを開けないつもりだった。けれども。
男はコートの釦を上までしっかりと留めた。そして、帽子を脱いだ。現れたのは無個性な、けれど、どこかしら空ろなやさしさを称えた青年の顔だった。瞳の色が黒かった。底の見えない黒さだった。
青年は子どもの前にかがみこみ、目の高さをあわせて、言った。
「では、あなたの願いはなんでしょう」
「……」
子どもはぎゅっと手を握り締めて、玄関に落ちたサンダルを見た。
「ママがほしい」
子どもは訥々とつぶやいた。
「やさしくて、わたしをぶたなくて、わたしに怒鳴らなくって、わたしを怒らなくって…… わたしのことが一番大好きなママ」
男は微笑んだ。
「では、願いを叶えましょう」
そして。
ふいに、台所から、シチューの香りが漂ってくるということに、子どもは気づいた。
子どもは振り返る。包丁がトントンとまな板をたたく音が聞こえる。鍋の中でやわらかく煮られていく肉と野菜のにおい。
「どうしたのー? そろそろ晩御飯よー?」
おっとりとした、やさしい声がした。
ママだ、と子どもは直感した。そして、同時に、すべてを理解する。
子どもの母は、とても優しい母だった。
料理が上手で、温和で、きれい好きで、冗談が好きだった。夜になると寝る前にお休みと頭を撫でてくれる。子どもが産まれたときには世界で一番幸せだと思ったと口癖のように言う。絶対に子どもをたたいたりしない。絶対に無意味に叱ったり、怒鳴りつけたり、当り散らしたりなんてしない。
それが母だ。最初からそうだった。そうでない『ママ』なんて、はじめから存在していなかった。
そう了解すると、子どもは玄関に振り返った。
もうそこには男はいなかった。赤いコートを着て、赤い手袋を付けた、赤い男なんて。
そんな男なんて、最初から、いなかったのだ。
そう納得すると、少女は玄関を見る。そこに一足の汚らしいサンダルが転がっていた。
子どもはサンダルをつまみ上げると、玄関に置かれているくず入れに捨てた。つぶやいた。
「バイバイ、ママ」
そして、子どもは、別人のように嬉しそうな足取りで、母親の待つ台所へと、駆けていった。
ふりかえりも、しなかった。
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